(1)荻野浩史さん ア 祖父の家でテレワーク 株式会社ハートレイルズのITエンジニア 荻野浩史さんの仕事場は、愛媛県の西端にある港町、八幡浜市にある。会社の所在地である神奈川県からは約900キロも離れた場所だ。以前はクリーニング屋の店舗も兼ねていたその住居は荻野さんが育った家で、現在は荻野さんの祖父が一人で住んでいる。入り口を入ってすぐの土間に仕事用のデスクとパソコンが設置してあり、荻野さんは、隣の大洲市の自宅から毎日ここに通い、一人で仕事をしているのだ(図表4-3-5-2)。 図表4-3-5-2 荻野さんの仕事場 イ 在宅勤務可能なIT企業への転職でUターンを実現 今の働き方をスタートするまで、荻野さんは別のシステム開発会社の社員として愛知県で働いていた。その会社を辞めて転職した一番の理由は、地元に戻って祖父の近くで暮らしたいという思いがあったことだった。荻野さんは生後半年で母を亡くしており、父が仕事をしている間、家事や荻野さんの相手をしてくれたのは祖父だった。おじいちゃん子として育った荻野さんは、一人暮らしをしている祖父が心配だったのだ。 愛媛に帰ろうと決めた荻野さんは、在宅勤務ができるIT系の会社を探した。地元の会社に就職するとなると、それまでの経験を活かせる職は見つかりづらく、収入も下がってしまうと思ったからだ。 IT関連の翻訳など、プログラミング以外の仕事も含めて探した中で、荻野さんの興味をひいたのがハートレイルズだった。 ウ 家族と関わる時間が取りやすいワークスタイル 入社初日から、愛媛でテレワークを始めた荻野さん。朝9時頃から夕方の6時頃までを祖父宅の仕事場で過ごす。その間、祖父の買い物や通院に付き添うほか、電話がかかってきたときは耳が遠い祖父の代わりに用件を聞くなど、日常のちょっとしたサポートができるのが、荻野さんのワークスタイルの大きなメリットだ。 インタビューをした時は、祖父が体調を崩して入院中だった。朝と夕方の見舞いのほか、夜中の呼び出しがあれば荻野さんが病院に行く。忙しそうではあったが、荻野さんがそばにいなかったら、体調の変化に気付くのも遅くなったかもしれない。病院に連れて行くために仕事を休んで帰省するなど、より難しい対応を迫られただろう。 2014年冬には第一子が生まれた荻野さん。今のワークスタイルで子育てに関わる時間も十分に取れている。毎日子供をお風呂に入れるのは、荻野さんの役割となっているという。 エ 適正な業務量や仕事のスピード感の共通認識に課題 子供が生まれてからは特に、家に仕事を持ち帰ることはあまりないという荻野さんだが、忙しいときは普段より長く働くこともある。それでも、忙しさがストレスになることはほとんどない。時間よりも成果で評価される環境で、仕事のペースは自分の裁量でコントロールできるからだ。 しかし、今の会社に入社したばかりの頃は、キャパシティを超える量の仕事を抱え、常に長時間労働を続けているような状況だったという。 「そんな状態がずっと続いたら大変だなとは思っていたのですが、当時は実力を付けて短い時間でできるようになれば解消するはずだと思って、頼まれる仕事を断らずにやり続けていたのです」 長時間労働になってしまった原因は、荻野さんの実力不足というよりも、荻野さんが対応できる適正な仕事量の把握が、上司の側も荻野さんも曖昧だったということにありそうだ。その状態は3か月ほど続いたが、双方で適量の認識がすり合ってきたことで解消されたそうだ。 テレワークの懸念点として、上司からは部下が仕事をしている様子が見えない中、仕事内容を適切に評価することが難しいということがよく言われる。だが荻野さんは、十分な成果を出せば、それに見合った評価が得られるという実感を持っており、評価に不満はないという。というのも、今のワークスタイルでは、顧客とのやりとりも含め、すべてのコミュニケーションがメールやチャットなどで行われるので、オンライン上に記録が残り、それを見ることで上司も状況を知ることができるからだ。最終成果物であるソフトウェアのプログラムに関しても、作成、更新するたびに共有のサーバーにアップロードされ、それが関係者に通知される仕組みになっている。離れた場所にいても、期待された成果をあげているかどうかをチェックしやすい環境があるのだ。 オ 顧客の理解と信頼獲得でコミュニケーションもスムーズに 顧客とのコミュニケーションに関しても、直接会わずにコミュニケーションすることの難しさは否定できない。例えば一度も会ったことがなく互いがうかがい知れない状態だと、文字ベースのやり取りで誤解が生じやすいといったことがある。 しかし荻野さんは、日々のやり取りを通して相手の性格やスキルセットを把握し、それに合わせてコミュニケーションの仕方を工夫することで、徐々に円滑なやり取りができるようになるという体験をしている。最初は苦労しても、一緒に仕事をするうちに相手を理解し、相手からの信頼を得ていくことで、遠隔でもスムーズに進められるようになる。荻野さんはその変化に手応えを感じているようだ。 カ 地方におけるコミュニティ活動のメリット 愛媛に帰ることを考え始めた時から、四国の技術者のコミュニティに積極的に参加するようになったという荻野さん。自らも、プログラミング言語「Ruby」に関する四国初のコミュニティを主催している。 IT業界では日々新しい技術が生まれており、エンジニアとして活躍していくためには、常に勉強してスキルを磨いておくことが必要である。その点において、都会のエンジニアの方が業界や技術の最新情報を得るチャンスが多くて有利、という印象もあるかもしれない。しかし、特にIT技術に関してはインターネットを通じて最新の情報がいくらでも手に入る時代、地方在住だから新しいことはわからないというのは言い訳にしかならないだろう。また、荻野さんによれば、地方は地方で良い点があるのだという。 都会で行われる勉強会は、発表者の話をみんなで聞くという講義形式が多い。参加人数が多いので、個別にじっくり話をする時間は得にくいのが通例だ。しかし、地方の集まりは小規模で参加者間の距離が近い。実際に手を動かし頭を働かせるワークショップ形式の勉強会を開催しやすく、より身につく実感があるという。 荻野さん主催のコミュニティでは、毎回荻野さんが仕入れてさばいた魚の刺身がふるまわれる。集まったメンバーたちに向けて魚のさばき方教室を開いたこともあり、大変好評だったそうだ。最新のIT技術の話をしながら採れたての魚に舌鼓を打つ。都会では気軽に味わえない贅沢かもしれない。意外な取り合わせだが、生活環境の豊かさとやりがいのある仕事の両立を目指す、地方でのテレワークならではのライフスタイルを象徴するようなエピソードだと感じられた(図表4-3-5-3)。 図表4-3-5-3 調理室で開かれた勉強会に参加するエンジニアたち