昭和48年版 通信白書

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2 電   話

 電話は,1876年(明治9年)米国のアレキサンダー・グラハム・ベルによって発明された。我が国では,その翌年に早くも電話機が輸入され研究が行われた。逓信省は,東京と熱海との間に電話線を架設し,20年12月から実験を行い成功したので,翌年からとりあえず公用の通信に使用し,更に22年1月から初めて公衆通信の取扱い(通話局相互間の通話)を開始した。1通話は5分で15銭であった。政府は22年3月,電話も電信同様国営にするという決定をした。23年には東京と横浜の両市間に交換業務が開始されたが,当初の加入者は,東京が155,横浜は42にすぎなかった。使用料は,1年につき東京市内は40円,横浜市内は35円(当時米1石6〜8円)で非常に高かったので,電話を架設したのは,官庁,大会社,新聞社,銀行などがその大部分を占めていた。しかし,次第に電話の便利なことが多くの人びとに認められるに従い,加入者の申込みは年ごとに増え,積滞が増大した。このため既設電話の売買も盛んに行われるようになり,譲渡価格も高騰し,29年には電話売買業者も現れた。需要に追いつけない電話の悩みは,明治時代に始まっていた。
 電話加入者数は,昭和19年3月末に戦前最高の108万に達したが,激しくなった本土空襲によって47万と激減し終戦を迎えた。27年8月電電公社発足当時加入者数は140万であった。この年の新規申込数は23万,増設数は18万であり,申し込んでもつかない電話は40万に達し,電話需要に追いつけない状況であった。
 そこで,28年から長期計画により電話需要にこたえるための努力が始まった。以来数次の長期計画の実施により,電話は38年には500万,43年には1,000万,47年6月末には2,000万に達し,申し込んでもつかない電話の数は45年度末の291万をピークとして逐次減少したが,電話架設に対する要望は依然としておう盛で,47年度末でなお227万を数えている。このため,48年度を初年度とする第5次5か年計画を策定し,52年度末には全国的規模において積滞を解消することにしている。
 電電公社は電話の架設を進める一方,市外設備の整備拡充を図り,マイクロ波方式,同軸ケーブル方式等による市外回線の建設を進めてきた。その後,これらの回線は全国的に整備され,新しい交換機の開発と相まって市外通話の自動即時化が強力に推進されることとなり,42年には全国県庁所在地相互間や大阪市とその近郊との間もダイヤルで直結された。公衆電話は,明治33年,当時の新橋駅と上野駅に設けられたのが最初であった。明治の末には500に満たなかったが,大正末には1,700を超えた。公衆電話は,戦後一層普及し,昭和28年の初めには2万であったが,47年度末には55万に達した。
 電電公社の加入電話のほかに農林漁業地域に有線放送電話がある。これは,有線放送設備に送受話機を付置したもので,昭和26年に千葉県下に設置されたのを端緒として急速に普及した。39年1月からは,同一都道府県内で一定の制限のもとに公社電話との接続も認められるようになった。
 有線放送電話は47年度末で1,725施設,加入者は296万となっている。このうち公社電話と接続しているものは,921施設で,接続加入者は174万となっている。
 なお,国内電報通数及び加入電話数の変遷を第1-1-4図に示す。

第1-1-4図 国内電報通数(発信)及び加入電話数の変遷

 

 

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