昭和48年版 通信白書

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3 国際電気通信

 我が国の国際電気電信は,明治4年,デンマークの大北電信会社が,日本政府の許可を得て敷設した長崎・上海間及び長崎・ウラジオストック間の海底線を利用して行われたのがその始まりである。
 当時この海底線は,我が国の経済,文化の発達の上に重要な役割を担っていた。しかし,我が国の海外通信を他国の海底線に依存することは,外交,軍事などの諸政策遂行上好ましくない点が多くでてきた。そこで政府は,明治39年,当時サンフランシスコから太平洋を横断して,グアム,フィリピン方面に海底線を敷設した米国の商業太平洋海底線会社(CPC)と協力して,東京・グアム間に海底線を敷設して,対米通信のみちを開いた。しかし,この日米間の海底ケーブルも,ほとんどCPCに属していたため,通信料金の分収などで非常に不利な点が多かった。第1次世界大戦を契機として無線通信が国際通信界に登場してきたが,我が国も,外国によって建設された海底ケーブルに頼らず自主的な国際通信を行うため,無線の利用に力を注いだ。大正4年6月に落石とロシアのペトロパウロフスクとの間に無線通信業務が始まり,その翌年11月には,船橋とハワイのカフクとの間にも開始されるなど次々と無線による国際電信回線が開かれた。
 政府は国際通信における我が国の競争力を強化するため,設備の建設に民間の資金と技術を使うことにし,大正14年に日本無線電信会社を設立し無線電信の設備を,また,昭和7年に国際電話会社を設立し無線電話の設備をそれぞれ建設提供させ,政府は通信の運用にのみあたることとした。それまでの国際無線通信は長波によって行われていたが短波を利用した無線通信が開発され,昭和9年9月東京とマニラの間で短波無線による国際電話が開始された。そしてその後も引き続いてバンドン,サンフランシスコ,ロンドンなどとの間に電話回線が開設された。また,写真電送は昭和11年のベルリンオリンピックを機にドイツとの間に試験的に実施し,引き続きドイツのほか,対英,対米回線にも実施した。13年に至り前記の二つの会社は合併され,国際電気通信会社と改められ,その内容も充実された。16年には,海外諸外国との間に電信33回線,電話13回線,写真4回線をもち,英国,米国に次いで有力な通信の国となった。
 第2次世界大戦のぼっ発によって我が国の国際通信はほとんどと絶され,終戦の時にはジュネーブ,ストックホルムなど中立国を相手とするわずかな回線しか残っていなかった。22年5月国際電気通信会社は解散し,設備面も含め国際通信は政府が経営することとなった。その後,28年3月国際電信電話株式会社(以下「国際電電」という。)が設立され,設備,運用の両面にわたり我が国の国際通信事業を運営することとなった。
 国際電電は,発足後まず対外無線回線の新増設に力を注ぎ,また,31年には国際加入電信サービスを開始した。日米間を結ぶ太平洋横断ケーブルは39年6月から運用を開始したが,これにより通信回線の品質はそれまでの短波無線とは比較にならないほど向上し,電話,加入電信,電報などのサービスは著しく改善された。この新型海底ケーブルは44年日本海にも敷設され,シベリア大陸を横断するケーブルと結んでソ連や欧州の国々との通信を受けもつこととなった。
 次いで衛星通信が42年1月,米国との間で開始されたのを皮切りに世界各地へ広がっていった。衛星通信の開始によって,国際間のテレビ中継が初めて可能となったほか,新型海底ケーブルに劣らぬ高品質の,しかも大容量の電話や加入電信の通信回線が設定できるようになった。こうした通信手段の進歩,改良の結果,国際電電の発足当時はわずか71回線しかなかった対外通信回線が,47年度末には1,540回線に増えた。1年に20万回たらずであった国際電話の利用が,1か月に30万回以上となり,国際加入電信もほとんどの国へダイヤルひとつでつながる自動化が実現した。更に,外国の出来事を家庭にいながらみることのできる国際テレビ中継も日常茶飯事となっている。
 なお,主なメディアについての国際通信量の変遷は第1-1-5図に示すとおりである。

第1-1-5図 国際通信量の変遷(発着合計)

 

 

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