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玉野市における戦災の状況(岡山県)

1.空襲等の概況

 玉野市は、造船所を始め日比製煉所や、海軍の火薬を作っている由良染料などがあり、重要な軍需基地であった。

 玉野市築港から渋川までの小山には、数箇所の高射砲陣地が造られ、敵の上陸しそうな海岸には「たこつぼ」という豪が掘られ、演習が行われていた。

 玉野市和田に焼夷弾が投下された昭和20年(1945)4月頃より、敵の戦闘機による機銃掃射にもたびたび見舞われた。それは、造船所の沖合いにいる海防艦、船舶などが攻撃の目標であったらしいが、たまには市街地へも飛んで来たし、時には八浜の辺まで飛んできたという。攻撃目標となった日比沖や宇野沖の海防艦などは、これらの敵機に対し艦上から応戦したし、地上の高射砲陣地からも攻撃したが、それはなんの効果もなかった。

 しかし、空襲について、軍艦を造る三井造船、砲弾の材料になる銅を精錬する日比精錬所、火薬を作る由良染料がある軍需産業の町・玉野をなぜ本格的に爆撃しなかったのか。郷土史家、市職員、日比精錬所の元社員などの話を総合すると、「造船所、精錬所に多数の白人捕虜がいた」「制海権、制空権ともに連合軍にあり、勝利は確実。戦後、利用するためだった」。この2点に絞られるが、真相は今となっては知る由もない。(「玉野市史」「玉野50年 市民の証言から」より)

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2.市民生活の状況

 戦争が激しくなるにつれて、「米英撃滅」「撃ちてし止まむ」「一億火の玉」などの標語が盛んに用いられ、渋川の浦田海兵院の施設が海洋道場として、青少年の海洋訓練に 利用されていた。

 昭和19(1944)年1月には、未婚の女子による「女子勤労挺身隊」が組織され、三井造船、三井金属、由良染料、帝国興業などの軍需工場で働くようになり、4月には、各中学校や六高生も勤労学徒として工場へ徴集され、六高生は主として水島の三菱重工と三井造船で働いていた。

 12月になると国民学校高等科の生徒も出動した。

 12歳以上で働けるものは、根こそぎ動員され、朝鮮、支那などから労働者をつれてきて働かせたのもこのころで、市内では三井造船と日比精錬所で働いていたのである。(「玉野市史」より)

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3.空襲等の状況

 昭和20(1945)年4月8日、玉野市和田の丸山という小さな丘の下に和田社宅第五町内という四十戸ほどの家があり、昭和19(1944)年に三井造船が新築した社宅が敵の爆弾に見舞われ、20名余りの死傷者を出す、という惨事が起きた。

 その時は、空襲警報が発令され、どの家も灯火管制をしており、ラジオは「敵機は備前地区を旋回中」と報じ、間もなく「播磨平野を旋回中」と移動の方向を報じていたが、空襲警報はまだ解除されていなかった。

 午後11時55分、突然、ドッドッドッドッという地響きとともに、ごう然たる爆発音は、家々の雨戸や窓ガラスをふっとばし、一瞬にして20数名の死傷者を出したが、その時、即死したものは6名、病院に運ばれ死んだもの1名、その後治療中に死んだもの1名で、8名の尊い犠牲者を出し、そのほかにも、足をなくしたり、指を落としたりした人もいたのである。

 この時落とされた爆弾は8発であったが、そのうち3発は不発弾で、落ちた場所が山であったため、炸裂した爆弾の破片による被害であった。

 しかし、この事件は、憲兵隊によって被害を隠すように指示され、市民の中にも知 らないものが多いという状態であった。(「玉野市史」より)

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4.復興のあゆみ

 戦後、三井造船所 や由良染料、日比精錬所などの徴用工や勤労学徒なども、それぞれ自分の郷里に引き揚げていった。

 一方、三井造船所で働く朝鮮人労働者約千五百人、三井金属日比精錬所には朝鮮人と中国人労働者が約百人ずつ、別に白人捕虜二百人がいた。(「玉野市史」より)朝鮮人労働者も中国人労働者も、戦時中強制的に連れて来られ、兵役で不足がちになっていた日本人労働者の代わりに働かせていた人たちだった。

 昭和20(1945)年10月、中国と朝鮮に対する労働者の送還が始まった。

 敗戦の混乱でヤミ市が繁昌し、当然の結果として物価が上がり、苦しい生活を強いられていた。

 そんな中、昭和22(1947)年4月玉野市でも初の公選市長が誕生し、新しい市政が始まった。

 新市長、太田尚衛氏により、昭和25(1950)年、高梁川から40キロ近く離れた玉野市へ上水道を引くため、旧児島市、琴浦町など飲料水に悩む市町村と南部上水配水組合を結成、4年後には通水を実現。玉野競輪場の開設、市立玉野寮養所、玉野海洋博物館の建設、中国地方初の国民宿舎玉野荘の完成等、玉野市の復興に大いなる業績を残した。

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5.次世代への継承

 毎年9月、玉野市市民会館において、玉野市主催により「戦没者追悼式」を催している。

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