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宇部市における戦災の状況(山口県)

1.空襲等の概況

 昭和19年、本市は世帯数2万4,821、人口12万4,309人の鉱工業都市であった。

 昭和19年5月1日、宇部に初めて防空警戒、空襲警報が発令され、以後、度重なる警報の発令に、市民は急速な戦局の悪化を実感しつつ、軍需工場や炭鉱などに勤労報国隊、女子挺身隊として出動し、男女学校生徒は市内や県内の工場に動員された。

 昭和20年4月26日、本市は第1回の空襲を受け、郷土防衛が現実の問題となり、市街地住民、家屋の疎開を促し、山林の防火線を切り開き、防空壕を掘削し、防火訓練を実行するなど、一丸となり防空対策を進めていった。

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2.空襲等の状況

 空襲は次の計8回にわたり、被害は死亡者254人、負傷者557人、行方不明者68人、罹災人員2万5,424人、罹災家屋6,232戸、市街地焼失面積約65万坪におよんだ。(「宇部市勢要覧」昭和22年度版)

  • 第1回 4月26日 藤山国民学校付近、爆弾攻撃、罹災者88人
  • 第2回 5月14日 港町工場地帯および福進町、機銃攻撃、罹災者6人
  • 第3回 7月2日 東部市街地の大部分および西部の一部、焼夷弾攻撃、罹災者2万4,277人
  • 第4回 7月15日 帝国燃料西側および西部の一部、爆弾攻撃、罹災者29人
  • 第5回 7月23日 帝国燃料およびその他の工場、爆弾攻撃、罹災者18人
  • 第6回 7月28日 海岸地帯一円および工場地帯、機銃攻撃、罹災者42人
  • 第7回 7月29日 窒素工場、曹達工場および海岸通り爆弾攻撃、罹災者401人
  • 第8回 8月5日 帝国燃料工場全体および助田上町付近、爆弾攻撃、罹災者563人

 この空襲による主な罹災建物は宇部市役所、警察署、動員署、県土木出張所、登記所、宇部駅、郵便局、市営青果市場、幼稚園、食糧営団、藤山、恩田、見初、沖ノ山各国民学校、香川、市立、県立各高等女学校、県立工業、県立農芸各学校、沖宇部炭鉱、東見初炭鉱、宇部窒素工場倉庫、宇部鉄工所、宇部セメント工場、合成樹脂、日本発送電、帝国燃料、助田造船所、チタン工場等であった。(昭和33年刊「戦災復興史」)

 なお、7月29日の空襲は、原子爆弾投下専門部隊による模擬原爆(パンプキン、4.5t)3発の投下であったことが、「宇部市の空襲を記録する会」の調査により明らかにされた。(1995年刊「宇部大空襲-戦後50年目の真実」)

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3.復興のあゆみ

 被災地域の清掃、瓦礫の処分、上下水道の応急処置と並行して、一部被災者のために営団住宅、公営住宅等の建築に着手し、住宅敷地の応急対策として一部学校校舎被災跡を転用した。被災した市民は旺盛な復興への意欲をもって自力再建に取り組んだ。土地区画整理ほか、戦災復興の諸事業は10年余の歳月と巨額の経費を投じて実施された。

 工業地帯の被害は市街地に比べれば軽微にとどまり、鉱工業界はまもなく生産を再開した。

 昭和25年、朝鮮戦争を契機に市内の諸産業は新生面を切り拓き活況を呈した。

 市制施行30周年を迎えた昭和26年、特に炭鉱は未曾有の好況に恵まれ、戦前の宇部の繁栄を再現するほどになっていた。この年、激減していた人口もようやく戦災前を上回る13万人を突破した。市街中心部を貫通する50m道路も完成し、小学校、中学校、高校、大学も建築、設備も整い、住宅、商店街も徐々に整備され、物資不足のなかながら、ようやく落ち着いた市民生活を取り戻した。

 戦後50年を迎えた今日、本市を取り巻く社会経済情勢は厳しい状況にあるが、営々と積み重ねられた先人の努力の成果をここに受け止め、活気あふれる「全国に誇れる魅力あるまちづくり」を目指し、実践していきたい。

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