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土浦市における戦災の状況(茨城県)

1.空襲等の概況

 昭和15(1940)年には,土浦海軍航空隊(「予科練」)が隣町の阿見町に開設され、ここを巣立った少年兵は、のちに神風特攻隊を命ぜられるものも多く、多数の尊い命が失われた。太平洋戦争が始まり戦時体制が強まると、民間工場も軍需に転用され、労働力不足を補うために徴用制度が拡大された。学生の軍需工場への勤労動員も次第に強化され,昭和19(1944)年には、中学生以上の全員が工場に配置されることになった。子どもたちも戦争が激しくなるにつれ、防空頭巾をたずさえて登校するようになり、授業の代わりに農作業や木炭運びなどが行われるようになり、昭和19(1944)年空襲も必至の状況になると、東京などの学童の集団疎開が始まり、土浦にも新宿の戸山国民学校の3・4年生二百数十名が、先生や寮母さんとともに集団疎開,川口町にあった旅館の土浦館が「土浦学寮」として開放された。

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2.市民生活の状況

 戦争が長期化すると,統制が厳しくなり,土浦では昭和15(1940)年より生活必需品組合が組織され,配給業務を管轄した。農村における労働力不足もあって農業生産が減少し,食料不足は著しくなり,代用食としてジャガイモ,サツマイモ,カボチャが食卓にのぼり、自給策として学校や空き地,各家庭の庭に畑が作られ,6号国道の歩道も所々畑になっていった。生活必需品以外にも統制が厳しくなり,消費の節約や生活改善が叫ばれた。手野町に残る記録によると,出征兵士の慰問袋の送付には,石鹸や手拭,キャラメルといった品々がみえる。

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3.空襲等の状況

 土浦海軍航空隊には,昭和20(1945)年30機のB29による爆撃が加えられ,甚大な被害を受けた。この日は日曜日で,面会人でにぎわっていた。筑波山方面から来襲した編隊は兵舎に500キロ爆弾の雨を降らせ,火災を起こさせ,付近の青宿台地の待避壕入り口にも爆弾が投下され,予科練習生や近隣住民などおよそ300名が亡くなった。8月2日には県都水戸が空襲を受けて焼け野原になり,甚大な被害を受けた。「18日に土浦空襲」の予告ビラが敵機からまかれたが,15日の終戦の詔勅の渙発(かんぱつ)によって全ての戦争は終わり,土浦は本格的な空襲を受けなかったので空襲による被害は比較的少なくて済んだ。

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4.復興のあゆみ

 昭和23(1948)年9月1日,旧朝日村の一部荒川沖と都和村を,昭和29(1954)年11月1日には上大津村を合併した。荒川沖が土浦の南玄関なら,上大津村は北の玄関とも考えられ,神立駅付近はその交通の便と広大なる台地から土浦の工業地域として発展し,日立建機,日立製作所,日本製綱,タキロン化学,昭和ポリマーなどの大きな工場が進出して,また住宅地として発展が見られる。桜川河口を中心として発達した狭小な土浦も,南北の広大なる台地を包含することによってやがて首都圏市街地開発区域の指定を受ける素地ができた。戦後の引揚げ開始等で市内の人口が増加,学校においては昭和22(1947)年2月3日,中村小学校が東小学校分校として開校,昭和24(1949)年3月31日に独立した。

 また,昭和23(1948)年9月1日,荒川沖小学校も創立された。土浦小学校では児童数の増加と中学校の併置による教室不足のため二部授業が行われた。その解消のため昭和25(1950)年9月1日に土浦第二小学校が設置されている。また,土浦幼稚園においても入園希望者が激増したため午前と午後の二部保育が実施された。その解消のため昭和24(1949)年1月10日分園として第二幼稚園(独立は昭和26(1951)年2月16日)が開園している。

<昭和20年代の土浦>

<現在の土浦市>

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5.次世代への継承

 昭和28(1953)年より,招魂社の祭神を土浦小学校講堂に移し,春は(春分の日)神式,秋は(秋分の日)仏式にて,昭和37(1962)年まで慰霊祭が行われた。昭和38(1963)年より戦没者の慰霊行事は戦没者追悼式として,御霊に対して追悼の意を表すとともに,ご遺族のご労苦に対し深い敬意を表,、平和を祈念することを目的とし市民会館において毎年来賓,遺族出席により行われている。

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