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千葉市における戦災の状況(千葉県)

1.空襲等の概況

 千葉市は、明治末期から太平洋戦争中にかけて、千葉聯隊区司令部、千葉陸軍病院、 鉄道第一聯隊、千葉陸軍兵器補給廠、気球聯隊、陸軍歩兵学校、千葉陸軍戦車学校、千葉陸軍高射学校、陸軍市下志津飛行学校などの軍事施設が設置され、蘇我地先の埋立地(現川崎製鉄千葉製鉄所付近)には、軍需工場の日立航空機千葉工場が設置され、「軍郷千葉市」と呼ばれていた。

 太平洋戦争中、千葉市への空襲は数度あったが、米軍が千葉市を目標にした空襲は、昭和20(1945)年6月10日と7月7日(七夕空襲)の2回であった。この空襲で中心市街地の約7割(約231ha)が焼け野原となりました。この2度にわたる空襲により死傷者は1,595人、被災戸数8,904戸、被災者4万1,212人に及んだ。(千葉戦災復興誌より)
(参考:昭和20(1945)年12月末の人口は、9万5,903人)

<吾妻町付近>
昭和21年8月千葉銀行屋上から見た亥鼻山・県庁方面右側は千葉銀座通り、亥鼻山が左手に見える。

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2.市民生活の状況

 大正末期から学校教育に軍事教育を取り入れるなど、軍国主義化への道を歩み始め、昭和6(1931)年9月満州事変が勃発し、さらに昭和12(1937)年の蘆溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに全面的な日中戦争となった。そして、昭和16(1941)年12月8日、ハワイの真珠湾攻撃により太平洋戦争に突入し、昭和20(1945)年8月の終戦まで15年にわたる戦争が続いた。

<防空演習>
昭和7年7月、武徳殿広場で行われた防空演習で救護活動を行う青年団及び千葉看護婦学校の生徒たち。

<千葉駅改札に女性>
戦争も激しくなってきた昭和19(1944)年、女性の改札係りが登場した。

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3.空襲等の状況

 昭和19年(1944年)7月から8月にかけて、米軍がマリアナ諸島(サイパン、グアム、テニアン)を占領して以来、マリアナ諸島を飛び立つ米軍B29による本土空襲は、東京・川崎・横浜・名古屋・大阪・神戸など主要都市から始まり、次第に地方都市へと及びんだ。

 千葉市に空襲は数度あったが、米軍が千葉市を目標とした空襲は昭和20(1945)年6月10日と7月7日(七夕空襲)である。

表.千葉空襲の被害状況

昭和20(1945)年6月10日 昭和20(1945)年7月7日
(七夕空襲)
時間 午前7時45分〜46分 午前1時39分〜3時5分
目標 日立航空機千葉工場
(現在のJFEスチール東日本製鉄所 千葉地区付近)
千葉市街地
参加部隊 第314航空団(グアム北飛行場) 第58航空団(テニアン西飛行場)
出撃機数 27機 129機
投下爆弾 500ポンド通常爆弾
(1ポンドは約0.45キログラム)
100ポンド焼夷弾
500ポンド焼夷集束弾
500ポンド破片集束弾
投下爆弾トン数 138.2トン 889.5トン
被害地域 日立航空千葉工場の一部と蘇我一丁目付近、そして目標から離れた新宿・富士見・新田町・新町付近 中心市街地の大部分
被害を受けた主な施設 省線千葉機関庫(現在のJR千葉駅付近)、千葉師範学校女子部、県立千葉高等女学校など 千葉地方裁判所、千葉郵便局、千葉鉄道管理部、省線千葉駅、同本千葉駅、京成千葉駅、鉄道第一聯隊(椿森)、気球聯隊、歩兵学校(作草部町)、千葉陸軍高射学校(小仲台)
死傷者 391人 1,204人
被害戸数 415戸 8,489戸
被災面積 26ヘクタール 205ヘクタール

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4.復興のあゆみ

 昭和20(1945)年8月15日、ポツダム宣言の受諾により、太平洋戦争は終結した。
政府は、戦災復興院を設置するとともに、同年12月30日に「戦災地復興計画基本方針」を閣議決定した。
この基本方針により、都市計画委員会を中心に戦災復興院、千葉県、千葉市で協議を重ねて千葉市復興計画を立案し、昭和21(1946)年6月27日内閣告示により、117万坪(386.8ha)の事業認定を受けた。

 この計画により、市民は復興に立ち上がり、国鉄千葉駅、京成千葉駅、国鉄本千葉駅の移転 などが行われ、昭和55(1980)年に事業完成した。

表.千葉市復興計画の概要

1.全体計画方針
都市の性格 首都の衛星都市、 学園都市、臨海水辺都市、
県の政治・経済・文化の中心都市
人口・都市規模 15万〜20万人を想定
面積 約386.8ha
(最終的〈昭和54〔1979〕年6月20日〉160.4haに変更)
2.鉄道改良
駅舎の移転 国鉄千葉駅、京成千葉駅、本千葉駅
3.街路計画
道路 千葉駅から中央公園までの広路など
広場 千葉駅前広場など
4.緑地計画
公園 千葉公園、通町公園
緑地帯 新宿公園など

戦災復興事業によるまちづくり

本千葉方面

<昭和21(1946)年8月、教育会館屋上から見た。煙突は旧参松。>

 ↓

<平成14(2002)年6月撮影>

銀座通り

<昭和21(1946)年秋、焦土から立ち上がって復興第一歩。兵隊服、モンペ姿の人たちがヤミ市に集まった。>

 ↓

<平成14(2002)年6月撮影>

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5.次世代への継承

 千葉市では、平成元(1989)年2月28日に世界の恒久平和を願い「平和都市」宣言し、千葉空襲、終戦50周年の平成7(1995)年7月に「平和都市宣」のシンボルとなる記念像を空襲の被災地である京成千葉中央駅東口駅前に設置した。

 また、毎年戦争の悲惨さと平和の尊さを永く後世に語り継ぐために、毎年7・8月に千葉空襲写真パネル展・戦跡めぐりバスツアー・平和ビデオ上映会などを実施している。

 慰霊行事としては、毎年10月に市主催による戦没者追悼式を千葉市民会館で開催している。追悼式には、毎年約500人の遺族が参列している。

<平和都市宣言記念像>(京成千葉中央駅前)
「FUTURE SUPPORTERS」未来を支える人々

<千葉空襲写真パネル展>
千葉市役所会場:平成14(2002)年7月撮影

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