総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 藤沢市における戦災の状況(神奈川県)

藤沢市における戦災の状況(神奈川県)

1.空襲等の概況

 藤沢市は本格的な爆撃の対象にはならなかったが、空襲の脅威には絶えずつきまとわれており、他地域に対する爆撃の余波や艦載機やP51の銃撃により被害を受けた。
なお、神奈川県が調べた「県下における空襲被害一覧表」(『神奈川県警察史』中巻所収)では、被害地域に藤沢市を含んでいる空襲は以下の通りである。

  1. 昭和20(1945)年2月10日……B29の1機が御所見村の山林・畑地に爆弾を投下(被害なし)
  2. 2月16日……艦載機273機来襲
  3. 2月17日……艦載機320機来襲
  4. 4月2日……B29が60機来襲、一部が辻堂地区上空に入る
  5. 5月17日……B29が1機、P51が40機来襲
  6. 5月24日〜25日……川崎・横浜空襲の余波
  7. 5月29日……横浜大空襲の余波
  8. 7月30日……艦載機315機
  9. 8月13日……艦載機200機

 被害状況がうかがえるのは、5月24日から25日にかけての川崎・横浜(保土ヶ谷・神奈川・鶴見地区)空襲の余波によるもの、及び5月29日の横浜大空襲の余波によるものである。

 また、7月30日朝には米艦載機により、辻堂駅北口にあった住友特殊製鋼(現・関東特殊製鋼)に空襲が行われ、死者5名を出し、工場も被害を受けた。

 敗戦直後の県当局の発表では、藤沢市の空襲による被害は以下の通りである。

 死者21人、重傷16人、軽傷23人、建物被害全焼8戸、半焼2戸、全壊12戸、半壊12戸(『朝日新聞』昭和20(1945)年8月28日記事による)。

ページトップへ戻る

2.市民生活の状況

2-1.町内会・部落会の整備

 中国との戦争が長期化するなかで、藤沢市(昭和15(1940)年市制施行)は昭和16(1941)年2月、「藤沢市町内会(部落会)設置要綱」と「藤沢市常会設置規程」を定め、それらを基準にして町内会・部落会および隣組の整備を進めた。なお、同年6月1日に村岡村、翌昭和17(1942)年に六会村が合併することで、藤沢市は56の町内会と38の部落会の構成となった。なお、同年末には市域内隣組総数は950組に達していた(昭和17(1942)年藤沢市事務報告書)。

2-2.生活物資の割当配給

 町内会・部落会及び隣組の組織は、生活用諸物資の割当配給制の実施について、とりわけ重要な役割を担った。藤沢町においては、昭和15(1940)年7月5日からまず家庭用砂糖の割当配給制を実施した。

 砂糖に始まった生活物資の割当配給制は、その後急速に範囲を拡大した。昭和16(1941)年の『藤沢市事務報告』によれば、同年末までに切符制または通帳制の割当配給を実施した品目は、「主要食糧タル米穀ヲ始メ、砂糖・乳製品・酒・小麦粉・澱粉・食料油・食パン・味噌・醤油等」の食料品、「木炭・練炭・燐寸・地下足袋・綿製ゴム底靴・靴下・農耕用綿布・出産用綿及綿布・家庭用衛生綿・手拭・釘・針金等一般日用品ニ至ル二十数種類」にわたっていた。翌年には衣料品の総合点数切符制が実施されたのをはじめ、日用物資の多くが割当配給の対象に加えられ、同年末までには割当配給制の対象外となる物資がほとんどない有り様となった。

2-3.金属回収

 戦局が激化するにつれ、軍需生産の強化のため、民間金属類の回収が叫ばれるようになり、強制的に供出させる方向が強化された。藤沢市では、昭和18(1943)年6月末までの間に、橋梁の欄干や日除用金物から文鎮や敷物押さえに至るまで回収が徹底的に実施されるようになった。このため、遊行寺の一遍上人の銅像も同年5月に回収された。ちなみに、各国民学校にあった二宮尊徳像については、銅像の代わりに石像を建てるという対策を講じた(昭和18(1943)年『藤沢市事務報告』)。また、藤沢市当局は、市内の廃品回収業者43名を統合整理し、23名(うち問屋2名)からなる藤沢市資源回収推進班を編成させ、8月から、毎月市内の町内(部落)会を地区別に分担して回収事業に当たらせることにした。そして、市は毎月推進班員の常会を開き、時局認識の徹底と事業運営の強化指導をはかった。なお、昭和19(1944)年10月から年末にかけては、航空機や電波兵器用としてダイヤモンド・白金の強制買い上げ、銀の特別回収が実施され、さらに火薬原料用として座布団綿までが回収されるにいたった。

2-4.食糧増産

 村岡・六会両地区の市域編入によって藤沢市における農業の比重は増出したが、戦争の遂行とともに、生産条件は悪化の一途をたどった。出征などによる農業労働力の減少と肥料など農業資材の供給の急減によるものであったが、藤沢市の場合は海軍の用地接収による農地の削減も少なくなかった。

 このような中で、農家は食糧増産の任務を担わねばならなかった。労働力不足の対策としては、農繁期における共同作業の推進や学生生徒の勤労奉仕、家族員の労働強化に多くが負われており、昭和16(1941)年の藤沢市事務報告では、同年中に六会地区以外の市内農家のために延約4500人の学生勤労奉仕が行われている。同じく市事務報告によると、肥料については、特に昭和18(1943)年以後、農家と動員学徒、そして各種団体関係者が協力して草刈り運動を実施し、自給肥料(堆肥)の増産に努めた。なお、昭和19(1944)年になると、市と市農業会が協力し、食糧増産緊急対策として、市域内各地区における暗渠排水事業を実施した。この事業による施工面積は90町歩を超えたが、地元民から国民学校生徒にいたるまでの多数の勤労動員によって行われたものであった。

2-5.ゴルフ場から航空隊へ

 また、京浜の実業家たちを中心に500名の会員を擁していた藤沢カントリー倶楽部は、当時藤沢打球会と称していたが、昭和18(1943)年10月24日に名残の競技会を開いた後解散した(『神奈川新聞』昭和18(1943)年10月19日付記事による)。その後を受けたのが藤沢海軍航空隊である。

 藤沢海軍航空隊は、昭和19(1944)年6月1日に海軍大臣官房から海軍辞令公報(部内限)第1492号をもって発足した部隊である。この部隊は、無線兵器(戦闘機電話・電波探信儀)整備員の養成を目的にして、昭和18(1943)年の洲崎海軍航空隊に次いで開隊された教育隊であった。なお、この司令部として使用されたのが、グリーンハウス(現・神奈川県立体育センター第2合宿所)である。ちなみに滑走路が造られた地点には、現在、荏原製作所藤沢工場が存在している。

 藤沢海軍航空隊は、当初は第13聯合航空隊に編入されたが、昭和19(1944)年10月1日の編成替によって第20聯合航空隊に編入された(2桁の番号がついた聯合航空隊は、教育のための航空隊である)。この聯合航空隊の司令官が久邇宮朝融(くにのみやあさあきら)王(香淳皇后の兄)であった。ちなみに、久邇宮は鵠沼住まいで、藤沢カントリー倶楽部の発会式(昭和7(1932)年6月3日)にも参加している。

 教育を受ける兵士の第1期入隊は昭和19(1944)年6月20日、第14期甲種飛行予科練習生の約400名であった。その後続々と入隊があり、最大約1万名にも及ぶ兵士が練習生として教育を受けている。その内訳は甲種・乙種の予科練のほか、中尉から少佐までの兵科の士官を整備員として教育した高等科、予備学生、一般志願兵の普通科のみならず、志願年齢が14歳以上16歳未満の「特別年少兵」の兵士もいた。

 これらの兵士のための兵舎は3つの居住区に分かれ、烹炊所(ほうすいじょ)も3つ造られた。しかし、兵舎が満足に用意されないうちに居住用にも利用された防空壕が、3交替で練習生の手によって、しかも鍬・スコップ・ツルハシだけで掘られた。

 なお、教育期間は6ヶ月間であったが、最初の2ヶ月間は新兵教育期間とされ、高等科以外は銃を担いで基地内を走りまわるのが日課であった。それが終わると、戦闘機電話(三式空一号無線電信機改三)に関する訓練が行われた。しかし、兵士の数に応じた教科書が揃えられず、授業のたびに配られ、終了とともに回収される有り様であった。

 航空隊では、終戦の噂は8月13日頃から流れていた。15日、玉音放送を聞いたものの、その後をどのようにして過ごしたらよいかわからず、翌16日と17日に演習を行って過ごしている。そして8月20日に解散式を行い、藤沢海軍航空隊の歴史は終わった。
(以上、この項目については、椎谷和雄「藤沢海軍航空隊研究」(『藤沢市史研究』第30号、藤沢市文書館運営委員会編、藤沢市文書館、平成9(1997)年3月を参照)

2-6.疎開者の受け入れ

 藤沢市は、京浜方面からの疎開者を受け入れる側に立った。昭和19(1944)年の市事務報告によると、同年中に受け入れた一般疎開者は347世帯・1040名に達した。その内訳は、東京都からの疎開者が265世帯・800名で最も多く、横浜市からの56世帯・174名がこれに続き、県内では横須賀市からも12世帯・30名が来住した(残りは関西方面から)。一方、同年中に受け入れた疎開学童数は952名に及んだが、大部分は縁故疎開だったらしい。なお、藤沢市は学童集団疎開先には選定されなかった。

2-7.海水浴の禁止など

 藤沢では、昭和19(1944)年8月5日から辻堂海岸の海軍演習地付近における海水浴が禁止され、鵠沼海岸においても、藤沢市民で警察署長の許可を受けた者以外の海水浴は禁止された。わずかに市営プールだけが引き続き開かれていたが、食糧不足や激しい労働などにより、市民は水泳を楽しむ余裕も気力も失っており、利用者は激減した。

 5月24日から25日にかけての川崎・横浜(保土ヶ谷・神奈川・鶴見地区)空襲の余波を受け、藤沢署管内に焼夷弾360発が投下され、36戸が全焼、99人の罹災者を出した(神奈川県警察調査)。また、5月29日の横浜大空襲の時は、藤沢署管内で1名の死者が出たという。そして、7月30日朝には米艦載機により、辻堂駅北口にあった関東特殊製鋼に空襲が行われる。

ページトップへ戻る

3.空襲等の状況

 5月24日から25日にかけての川崎・横浜(保土ヶ谷・神奈川・鶴見地区)空襲の余波を受け、藤沢署管内に焼夷弾360発が投下され、36戸が全焼、99人の罹災者を出した(神奈川県警察調査)。また、5月29日の横浜大空襲の時は、藤沢署管内で1名の死者が出たという。そして、7月30日朝には米艦載機により、辻堂駅北口にあった関東特殊製鋼に空襲が行われる。

3-1.関東特殊製鋼 - 空襲前史 -

 関東特殊製鋼は、昭和11(1936)年10月1日に住友金属工業の資本金全額出資により、鍛鋼ロールの製造販売を主要事業目的として、当時の藤沢町鵠沼に設立された小松熱錬工業株式会社にさかのぼる。これは、航空機用軽合金板類の圧延などにも応用可能な、特殊鍛鋼ロールの国産化及び自給を目指すべく設立されたものであった。
翌昭和12(1937)年、時の藤沢市長・大野守衛の斡旋によって、現在地の東海道本線辻堂駅北側一帯に敷地を選定、翌年7月、関東特殊製鋼株式会社と改称した。
昭和15(1940)年3月には、同社は国家総動員法による工場事業場管理令により、海軍管理工場の指定を受け、海軍航空本部割当の各種型用鋼(ダイブロック)を生産した。
昭和18(1943)年10月、軍需会社法公布に伴い、関東特殊製鋼は第1次で軍需会社
に指定、翌昭和19(1944)年5月に社名を住友特殊製鋼と改称した。そしてこの年の下期には、鍛鋼ロールの産量がピークに達する。

3-2.空襲とその被害

 昭和20(1945)年5月の横浜大空襲、7月16日の平塚空襲の前後から上空に米軍飛行機の飛来が頻繁となった。そして7月30日午前8時10分頃から約30分間、艦載機約20機で小型爆弾(100キログラム位)20数発と、焼夷弾相当数が投下され、大型機関銃の掃射が加えられた。

 爆弾は主として工場の中央部に命中した。退避命令を出す余裕もない急襲で、防空壕に逃げ遅れた従業員4名が即死し、1名が重傷を負って翌日死亡した。その他、負傷者が数名出た。ちなみに、生産設備の損害は、工場中央部建物の屋根、側壁、鉄骨、木骨の他、熱錬工場の焼鈍炉2基、疎開準備中の旋盤3台の破損などであった。
この当時、藤沢商業学校に在学中勤労動員を受けて、同工場防空本部の本部伝令であった岩見高明氏(昭和4年生まれ)は、空襲の様子を次のように証言している。

 空襲警報が出て、鉄兜をかぶって本部に居たんです。本部は爆風をよけるような感じの鉄筋コンクリートでした。でも、ものすごかったですよ。時間がわからないんですが、本部についてしばらくしたら、ドカン、どかんとやられてもうびっくりして。爆弾の音というのは、自分がねらわれているような感じがします。子どもですから、隅っこに固まっちゃったら、兵隊さんが上から毛布をどんどんかけてくれて、あのときは助かったなあ。爆弾の他にも機銃掃射やロケット弾の攻撃もあったようです。

 空襲が終わって地上に出たら、鉄骨だけになって何も残っていなかった。ガラスが割れてね、きれいになっていた。担架に担がれて運ばれていく人も、二人か三人いました。台湾の人たちではないでしょうか。

 帰りに辻堂の海岸へまわって行きましたら、駅の周りの住宅が被災していましてね。真っ黒な人間が転がっていました。近所の人も大騒ぎするわけじゃない。落ち着いたら棺桶つくってあれしなきゃ、なんて話をしていました。その時に、辞書に爆弾の破片がガァーっと食い込んだのを拾ったんですよ。辞書の半分くらいまで破片が食い込んでいた。(『市民が語る十五年戦争』藤沢市、平成12(2000)年より)

 なお、住友特殊製鋼は、応急修理を終えて作業を再開しようとした8月13日、艦載機数機で再び空襲を受けた。このときは死傷者はなく、工場被害も軽微であった。しかし、生産は停止したまま敗戦の日を迎えたのである。
(以上、特に断りのない限り、藤沢市関係は『藤沢市史 第6巻』(藤沢市役所、昭和52(1977)年を参照。なお、関東特殊製鋼関係の記述は『関東特殊製鋼五十五年史』(同社、平成3(1991)年を参照した)

ページトップへ戻る

4.復興のあゆみ

 藤沢市としては、他の空襲罹災都市と比較して被害が軽微のため、復興対策等に関して特記することはない。

ページトップへ戻る

5.次世代への継承

 藤沢市は昭和57(1982)年6月に「藤沢市核兵器廃絶平和都市宣言」を採択し、平成7(1995)年3月に「藤沢市核兵器廃絶平和推進の基本に関する条例」を制定した。そして、市役所内の市民自治推進課平和担当により「平和展」などが毎年開催されている。

 また、平成7年(1995)には、戦後50年で各種イベントを行っている。

〔内容〕

  1. 平和祈念展-市民とつくる展示会-(書家・井上有一の作品「東京大空襲」展示)
  2. あの戦争は何だったのか?藤沢展(写真・現物で戦争の姿の一端を再現、講演会など)
  3. 丸木美術館バスツアー(湘南大庭公民館主催)
  4. 平和講演会・ピ-スリングバスツアー(相模海軍工廠跡などを訪問)
  5. 広島平和ツアー
  6. 長崎・広島そして藤沢が発信する非核のメッセージ(本島元長崎市長の講演)
  7. 戦後50年を考えるつどい(講演会など)

<出典>

  1. 『藤沢市史 第6巻』(藤沢市役所、昭和52(1977)年)、793〜797頁を参照。
  2. 「町内会・部落会の整備」については、同上、760頁を参照。
    「生活物資の割当配給」については、同上、767〜768頁を参照。
    「金属回収」については、同上、788〜789頁を参照。
    「食糧増産」については、同上、789〜790頁を参照。
    「ゴルフ場から航空隊へ」については、同上、791頁及び
    『藤沢市史研究 第30号』(藤沢市文書館発行、平成9(1997)年3月)、11〜21頁を参照。
    「疎開者の受け入れ」については、『藤沢市史 第6巻』(藤沢市役所、昭和52(1977)年)、792頁を参照。
    「海水浴の禁止など」については、同上、792〜793頁を参照。
  3. 『藤沢市史 第6巻』、794〜795頁を参照。
    『関東特殊製鋼五十五年史』(関東特殊製鋼、平成3(1991)年)7〜17頁を参照。

ページトップへ戻る