総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 泉大津市における戦災の状況(大阪府)

泉大津市における戦災の状況(大阪府)

1.空襲等の概況

 泉州の織物工業は、「泉州織物」の名で全国に知られていたが、昭和18(1943)年から19(1944)年になると、織物関係の各工場は航空機工場に全面的に切り替えられていった。泉大津市でも、繊維工場施設は軍需工場に転換された。

 また、金属回収令により、寺院の仏具・梵鐘などの強制供出が命じられ、泉大津市内の寺院が所有する梵鐘の供出を行った。

昭和20(1945)年に入ると、アメリカ軍機が連日大阪を空襲、泉大津市にも空襲警報が発令されて、防空壕に避難する日々が続いた。大阪市や堺市への空襲が激化するのにともない、泉大津市では昭和20(1945)年6月から7月にかけて、家屋の疎開が行われた。木造瓦葺平屋の住居や二階立ちの住居、それに納屋や倉庫が立ち退きのため取り壊しされた。
(「泉大津市史第1巻下 本文編2」より)。

ページトップへ戻る

2.市民生活の状況

2-1.泉州織物

 泉州地域の代表的産業の織物工業は、全面的に航空機製造へ切り替えられた。しかし、戦争中、陸・海軍の指定工場となった毛織物業者もあり、これらの工場は増産を続けた。この軍用毛布の収益により、「日本毛布号」「西日本毛織号」と命名された飛行機2機を献納したと伝えられている。

 だが、こうした軍の指定工場でも、戦争の激化した昭和19(1944)年から20(1945)年頃には、原料の入手難で、再生原糸を使ったため、白い毛布が灰色の粗悪なものへと質は低下していった。(「泉大津市史第1巻下 本文編2」、「毛布新世紀」昭和60(1985)年5月発行より)

2-2.配給

 衣料品が昭和17(1942)年から全面的に点数切符制となり、一人1年間100点分の衣料切符が配られた。衣料品はそれぞれ点数が決められていて、1年間100点分まで購入できた。組毛布(二枚つづき)は40点であった。(「毛布新世紀」昭和60(1985)年5月発行より)

2-3.学童疎開

 泉大津市域と周辺には大阪市立安立国民学校児童1年生から6年生までの385人が、昭和19(1944)年9月から昭和20(1945)年10月まで集団疎開にやってきた。当時の疎開児童たちの寮生活は、不十分な医療、乏しい食糧など大変な苦労であったが、子ども達は「たくましく、正しく」をモットーに生活し、都会にはない、里の自然の豊かな生活に溶け込んで、たくましく生きていった。
(「泉大津市史第1巻下 本文編2」より)

ページトップへ戻る

3.空襲等の状況

 昭和20(1945)年に入ると、泉大津市内にも空襲警報が発令されて、防空壕に避難する日々が続いた。3月14日の大阪大空襲で大阪市内の全土が焼け野原となって以来、米軍機が泉大津市上空を通過する音がひっきりなしに続き、阪神間に爆弾を落としていった。

 泉大津市内には、7月9日夜、米軍機280機が来襲、上条地区の大津浦海上に無数の焼夷爆弾を落とした。また同地区の田畑にも無数の爆弾が落下、燃え上がり、一時は千原・助松・森などが非常に危険な状態になった。しかし、松ノ浜の民家一軒が全焼しただけで、ほかには大きな被害がなかった。

 7月21日、アメリカ軍機が寿重工業株式会社に爆弾を投下、機銃掃射を行ったので、社員1名が死亡した。7月28日にも襲来があり、上條校が機銃弾を受けた。
(「泉大津市史第1巻下 本文編2」より)

ページトップへ戻る

4.復興のあゆみ

 泉大津の戦災はごく一部で、市域の大部分は被害を免れたものの、衣食住のすべてが不足し、市民は貧困生活を余儀なくされた。また、軍需産業は崩壊し、戦前からの大津毛織物業も、原料の不足、輸出の停滞で混迷していた。

大津毛織物業の復興

 東京や大阪・堺等の大都市は激しい空襲を受けて焼け野原となったのに比べ、泉大津市は空襲らしい空襲も受けず、鉄鋼やゴム、それに毛布等の織物工場が軍需工場として終戦時まで動いていた。これは終戦後、いち早く泉大津市が工業都市として立ち直るのに大変な好条件となった。

 昭和25(1950)年7月に原料や設備の制限が解かれ、これ以後、泉大津毛織物業はめざましい復興を遂げた。そして、戦後物不足の中、作れば売れる、儲かる時代となり「ガチャマン」といわれるような成金の輩出する時代となった。
(「泉大津市史第1巻下 本文編2」より)

ページトップへ戻る

5.次世代への継承

 毎年7月中旬に「平和メッセージ展」を市立織編館で開催し、市民が平和への願いを込めて絵などを描いたうちわ作品を展示している。また、毎年8月1日には、平和バス見学会を実施し、これまで多数の市民が参加し、戦争の悲惨さを学んでいる。

ページトップへ戻る