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高槻市における戦災の状況(大阪府)

1.空襲等の概況

 昭和19(1944)年12月19日から翌昭和20(1945)年8月1日までの間、39回にわたる大阪来襲、そのうち7次にわたる大空襲の被害は、大阪市が大部分を占めたが、ときには郡部衛星都市にもおよぶ場合があり、その中には高槻市域も何回かの空襲を経験した。

 昭和20(1945)年3月19日午前7時30分ごろ、土佐沖南方の空母より発進した艦載機の一部が高槻市大字原バス乗場附近に小型爆弾一発を投下したが、その際、半壊民家一戸、死者2名を出したのが高槻空襲被害に関する記録に見える最初である。

 次いで、同年6月7日正午前後のB29約250機以上などによる第三次大阪空襲の際には、高槻市域では半壊2戸、死者2名、軽傷者1名が出た〔前掲資料2第七号〕。さらに、6月15日午前の第4次大阪大空襲では、全焼10戸、半焼2戸、死者・重軽傷者各1名、罹災者総計42名の被害が出たのであった。その後も、7月9日正午前後のP51による豊中飛行場攻撃の際にも三箇牧村が爆撃を受けるとともに、同月28日には、午前6時前から午後3時前までの間に4波にわたる小型機を主体とする来襲があり、その際、本市中心部に位置する野見町にある野見神社附近で機銃掃射で軽傷2名、本市芥川町一丁目地内にある高槻駅附近では機関車1台に小型爆弾が投下され、重傷者2名を出していた。2日後の30日には、午前6時前より午後4時過ぎまでの間、この日にも4波にわたる小型機の大阪来襲があったが、高槻市域においても五領村上牧国道、国鉄富田駅下りホーム附近が機銃掃射を受け、重軽傷4名を出したとの記録が残されている。
(「高槻市史」より)

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2.市民生活の状況

2-1.敗戦時の市民生活

 昭和20(1945)年8月15日、筆舌につくしがたい苦悩と犠牲の上に敗戦がおとずれた。敗戦時高槻市内には多くの戦災者が疎開により存住していた。9月現在で105世帯、3,776名、11月には3,910名にふえ、さらに12月末には1,240世帯にも達したが、これらの戦災者援護のための救(きゅう)恤(じゅつ)資金の募金や、布団・衣類などの救恤物資供出運動が市内の各町会ごとに市のよびかけで熱心に展開された。また、昭和21(1946)年1月には高槻市報效会(会長-市長、評議員-市会議員、支部長-町会長、委員-隣組長など)が設けられて、戦没・傷痍軍人遺家族や未帰還軍人・復員者の家族などへの援護事業が行われた。大阪・堺などの府下他都市にくらべ、戦災などの犠牲の少なかった高槻市民の、戦争犠牲者としての同胞への温かい心情の表現であった。

 高槻市への海外からの旧軍人復員者(昭和22(1947)年度170名、昭和23(1948)年度68名)や一般引揚者(昭和21(1946)年度915名、昭和22(1947)年度1,133名、昭和23(1948)年度194名)に対しては衣料をはじめ種々の生活必需物資が配給され、また上田部に府営引揚者住宅が建設されていった。一般家庭に対しても物資不足・インフレの折から各種生活物資の配給が戦前より引き続いて行われたが、例えば年間に石鹸1人1個ずつ、酒1人当たり3回で計5合、板硝子1世帯につき6平方尺などとなっており、これらはいずれも品不足のため限られた数の世帯に対してのみの配給となり、この他食料品・衣料・木炭などが少ないながらも配給された。また生活保護法の適用を受ける生活困窮者に対しては別に占領軍より返還を受けた元軍用物資が配給されたのである。
(「高槻市史」より)

2-2.警防団と防空訓練

 太平洋戦争が始まった翌年の昭和17(1942)年、高槻町では、1月12、13の両日及び7月21日から23日までの計5日間にわたって大阪防空学校において警防係員・警防団長以下各分団長に防空業務に関する教養・実施訓練を受けさせたほか、次のような防空関係の訓練・行事などを行ったことが報告されている。

  1. 警報の発令その他命令のあるたびに警防全機関を動員し、各町内会いっせいに自衛防空訓練を実施し、防空資材整備の点検及び促進を図ったこと。
  2. 燈火管制の徹底及び警報発令下における夜間の治安・交通上の危険を考慮して400か所の残置燈を設け、交通の安全と空襲の管制移行に備えたこと。
  3. 4月23日に役場前広場において防空絵画展を開催し、町民の防空認識の強化と防空の実際についての知識を体得させることに寄与したこと。
  4. 防空防火の徹底を図ることを目的に、警報の周知方法として「懸垂幕」を設置するとともに、かつ800馬力自動車ポンプ1台を7,300円で購入し、同時に2,400円で、この自動車の格納庫を建築したこと。
  5. 警防団員全員に鉄兜を支給したこと。
  6. 高槻町内の開業医師をもって医師救護団を組織し、空襲時における救護業務の完璧化を図ったこと。
  7. 9月19日から21日までの3日間にわたって高槻防空講習所を開催し、町内会長、隣組長、婦人会幹部に教養と実施訓練を受けさせたこと。

 高槻町におけるこのような防空関係の訓練・行事に参加した人数は、昭和17(1942)年度では、延べ3,422人であった。また、この年には3月5日に東京において初の空襲警報が発令され、大阪においても空襲警報が発令された。この警報発令時には高槻町では、延べ4,715人の警防団員が出動した。
(「高槻市史」より)

<防空演習1>

<防空演習2>

 

2-3.戦時下の疎開

 疎開問題は戦時体制の確立過程と平行して表面化し、空襲が激しくなるにつれ、高槻市は空襲被害の大きかった大阪市域の罹災者などの受け入れ先として位置づけられることになり、大阪府の指示により、戦時要員宿舎施設を確保するため各町会ごとに大きい民家を指定したり、罹災避難者受入保護計画を立てて、寺院・学校・旅館・料理屋など73か所、8,200名収容の保護所を開設したりした。敗戦直後の昭和20(1945)年9月現在、高槻市内在住罹災者は1,054世帯、3,776名を数えており、また学童疎開として大阪市立盲学校の児童生徒が高槻市内の天理教の教会へ避難してきたりした。その他衣料疎開として大阪市の委託を受けて衣料を保管したりもした。さらに、軍需工場の疎開も次第にふえてくるようになった。

 一方で、高槻所在の工場の建物疎開も戦況の悪化とともに漸次行われようとした。湯浅蓄電池と川崎航空機両工場の工場事務所の疎開が実施されるとともに、他に空襲の標的となりやすい国鉄(現JR)高槻駅付近の総計80世帯の民家の疎開も行われた。このうち湯浅蓄電池では一部の建物の間引疎開以外に昭和20(1945)年4月から天神山と西ノ河原の2か所に合計約3,000坪の疎開地下工場建設が進められたが、工事途中で敗戦をむかえることとなった。
(「高槻市史」より)

2-4.成合地下倉庫

 昭和19(1944)年7月のサイパン玉砕後本土決戦が唱えられはじめ、10月のレイテ敗戦、沖縄大空襲がその方向を決定づけるようになると、三島郡北辺の山間部は工場疎開・秘匿地下工場の適地として軍部の注視するところとなった。

 中部軍管区司令部関係の地下施設工事に関する資料によれば、近畿・東海・中国・四国地方に約200か所の地下施設の建設が進められていたことが判明するが、その中に高槻市成合の地下工場、吹田市北部丘陵と茨木市中穂積丘陵の燃料・弾薬貯蔵トンネルなどがあり、北摂丘陵地帯は恰好の場所として軍部が注視していたことが確認できる
〔「朝日新聞」昭和56(1981)年8月12日記事〕。

 高槻市成合地区の場合、昭和19(1944)年の9月末、陸軍憲兵曹長・行政官等3名により、(1)成合地区への川崎航空の地下軍需工場の建設計画、(2)これに必要な労務者用宿舎や倉庫とその建設用地としての農地と山林の強制収用、(3)農地の坪当り3銭の一時賃貸契約、(4)収用期間は昭和19(1944)年10月より陸軍省が不要と認める時まで、(5)現況復帰の上での返還などの指示・説明を行い、さらにその後現地説明がなされたが、その関係地域(「旧飯場跡地」)は成合地区内の水田22筆、山林6筆からなるものであったという〔「旧陸軍用地返還処理に関する陳述書」〕。ただし、米国戦略爆撃調査団報告書には「このトンネル群は当初陸軍の主要な貯蔵庫の一つとして同年11月に政府の手で工事が開始されたのであるが、翌年2月になって、川崎の工場として使用することが決定された。」〔「戦争の記録を残すたかつき市民の会資料集No.1」昭和56(1981)年12月所収〕とあり、当初の使用目的については定かではない。

 この工事に動員された労働力は、地元の村民、高槻医専・北野中学・関西工業学校などの動員学生のほか、朝鮮人労働者が投入され、その数約3,500人といわれている。その他、滋賀県の土倉鉱山の労働者も動員された模様である。昭和19(1944)年の秋には工事が急がれたため、関係地区の農民たちは稲の早刈りを余儀なくされ、刈取りの後を追うように労働者の簡易宿舎や資材置場などが次々と建てられていった。

 このような中、16本のトンネルが掘られてゆき、旋盤などの機械類が部分的に搬入されたが、完工をみぬまま敗戦をむかえることとなった。
(「高槻市史」より)

<成合倉庫1>

<成合倉庫2>

 

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3.空襲等の状況

4.復興のあゆみ

 第二次世界大戦が終了した翌年にあたる昭和21(1946)年、現在の高槻市域に相当する地域には11,823世帯、52,289人が住んでいたのみであったが、それから34年を経過した昭和55(1980)年には世帯数103,968世帯、人口340,722人を数え、世帯数は8.8倍、人口は6.5倍という著しい増加を記録した。

 この間、昭和35(1960)年ごろから人口が急増し、特に、昭和46(1971)年には年間31,800人もの増加をみた。これに伴い、学校建設を中心とする公共施設の整備・拡充など行政需要も増大し、その結果、財政は未曾有の危機に陥った。その後、自主再建により赤字を解消しつつ、国鉄(現JR)高槻南駅前市街地再開発などの都市の基礎となる骨組づくりに取り組んできた。

 高槻市域では、昭和30(1955)年代以降、大規模な宅地開発が活発に行われ、急速に市街地が拡大していった。もちろん、市街地の拡大は宅地開発のみによって進展したわけではなく、官公庁や学校・病院などの公共施設、工場や倉庫・作業所・材料置場などの生産施設、さらには商業施設や公園・緑地などの建設整備をも含むものであり、大規模宅地開発が昭和30(1955)年代前半に高槻地区東方と富田地区南西方という既成市街地に隣接する地区から開始された後、次第に市域の中・南部全域にわたって拡散していった。
(「高槻市史」より抜粋)

 昭和53(1978)年1月1日に市制施行35周年を迎えた高槻市は、新たなるステップへの飛躍を目指す高槻市の基本方針となるべき次の4項目を同年度の重点施策として決定し、当時の市長のもとに展開すべくその一歩を踏み出したのである。

  1. 個性豊かな市民性を育むための施策
  2. 魅力ある都市づくりのための施策
  3. 住みよく美しい生活環境づくりのための施策
  4. 自治体を真に市民のものにするための施策

 新たなるステップを目指して、その一歩を踏み出した高槻市民は、高槻市を市民憲章にうたわれている、自治のまち、心と心を結ぶまち、住みよい環境めざすまち、生きるよろこび燃やすまち、文化の華を咲かすまちにするように、力強く邁進することが期待されたのである。(「高槻市史」より抜粋)

 戦後58年を経過した現在、高槻市は、平成15(2003)年1月1日に市制施行60周年をむかえるとともに、同年4月1日に中核市に移行し、21世紀初頭のまちづくりの基本方針として策定した第4次総合計画を踏まえ、施策の着実な展開を図るなど、総合的・計画的なまちづくりに努めている。そして、「心ふれあう 水とみどりの生活・文化都市」の実現に向けて、市民、事業者、行政が、それぞれの役割と責任を認識した協働のまちづくりを進めている。

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5.次世代への継承

 高槻市は、昭和58(1983)年3月に、平和を愛する文化都市として、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を願って「非核平和都市宣言」を行い、昭和61(1986)年から、戦争や原爆に関するパネル展示のほか、戦争遺品・戦時資料等の展示や、戦中食試食コーナー、被爆体験者による「語り部」コーナーなど「戦争の悲惨さ」と「平和の尊さ」をみんなで考え、未来に伝えていくため、毎年8月、市庁舎内において「平和展」を開催している。また、市庁舎8階の人権・文化啓発コーナーにおいて、成合地下倉庫模型、並びに、市民より寄贈を受けた戦争遺品等を常時展示している。

 市内城跡公園内には、風化しつつある戦争の悲惨さを語り継ぎ、平和を希求する市民の願いを結集し、真の恒久平和をめざすために、戦後50周年事業として、「平和モニュメント〜未来のゆりかご〜」を平成8(1996)年に設置した。また、同公園内には、広島市より譲り受けた、広島市役所旧庁舎の被爆した礎石を設置し、これを平和の碑として広く市民に知っていただき、平和への関心が高まることを願っている。

 「平和を愛する心」、「命あるものを大切にする心」を育み、平和の尊さを伝えることを目的として、広島市で被爆したアオギリ2世の苗木をもらい受け、市内の小学校において植樹している。

 戦没者を追悼し、冥福を祈るとともに、世界の恒久平和を祈念するため、昭和28(1953)年から、毎年11月に戦没者追悼式を催している。

<被曝の石>

<平和モニュメント>

 

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