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新宮市における戦災の状況(和歌山県)

1.空襲等の概況

 新宮市の地理的位置は、紀伊半島の先にある小都市であるため、空襲等の被害は他の都市より遅かった。それでも当時の王子製紙熊野工場を中心とした製材工場が密集している海岸地帯は、終戦直前に集中的に砲弾等を受けた。

 また、勤労動員は昭和19(1944)年ごろから始まり、新宮中学、新宮高女を中心に和歌山市、大阪府、兵庫県南部へ動員された。

 本格的な空襲は、昭和20(1945)年7月24日にあり、また7月29日には艦砲射撃を受け多くの被害を出した。

昭和19(1944)年12月7日、東南海地震が起こり、市の中心部(元町、馬町、初之地)は震度6の烈震により家屋の全壊100戸、半壊134戸、死者6人を出す災害となり、空襲以前に市の中心部は大きな被害を受けていた。

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2.市民生活の状況

 紀伊半島南部にある小都市であったため、空襲等の被害は他の都市と比べ遅かったが、戦時中の市民生活においては、全国的な食料危機のもと、熊野川川原などでは開墾が盛んに行なわれ、小学校の運動場では食糧確保のため芋畑とされていた。

 市内には女性や子ども、お年寄りだけが残り、万一に備え、消火訓練、防空演習などを行っていた。

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3.空襲等の状況

 昭和19(1944)年12月3日、初めて米軍機が三輪崎上空に侵入し、焼夷弾を投下した。

 昭和20(1945)年1月19日には大浜基地付近、広角方面が被爆し、lO余人が死傷した。同23日には、佐野、高田の森林600余町歩が米軍機の焼夷弾で焼けた。4月7日は、午前と午後の2回にわたり空襲があり、大浜で1O余人の死傷者、三輪崎国民学校で23人の負傷者が出ている。

 6月5日に熊野地方面に焼夷弾が落下、22日には米軍機が熊野大橋を爆撃した。また7月4日には、臥竜山、野田方面に焼夷弾が落下、同17日、阿須賀神社より西方にかけて焼夷弾攻撃を受け、神社を始め200余戸が焼失する被害を受けた。

 7月24日午前10時30分ごろ、B29が西阿須賀町より伊佐田、丹鶴町にかけて250kg爆弾数個投下、また県立新宮高等女学校周辺34カ所に爆弾を投下し、校舎は全壊、死者50人、負傷者200人に達する。米軍の記録によれば「7月24日午前10時、新宮に3,800mの低空より250kg爆弾38発(8t)を投下」と記録されている。

 7月27日午前7時半ごろ、熊野地の製材工場地帯が米潜水艦の艦砲射撃を受け、第一製材工場が全焼した。 庄司海村氏の『熊野川林業誌』によると、「此艦砲射撃は前後19発、海岸に近かった製材工場は其目標となり、工場の全焼2戸、死者1名を出した」となっている。

 その後も8月5日、6日、7日、1O日と焼夷弾落下の記録があるが死傷者は出なかった。

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4.復興のあゆみ

 戦後間もない昭和21(1946)年12月21日、マグニチュード8.1の南海道大地震が発生、新宮市は火災により壊滅的な打撃を受け、中心部は焼失。戦災の復興よりも、この地震の復興が中心となった街づくりが進められてきた。

 昭和22(1947)年3月、市営住宅10戸を田鶴原に建設。昭和25(1950)年3月には、新宮市戦災復興土地区画整理事業が完了した。

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5.次世代への継承

 1,000人に及ぶ戦没者を慰霊するため、現在、熊野権現速玉大社境内に慰霊碑があり、遺族の方々が多数参拝されており、毎年秋には、追悼式が営まれている。

 昭和34(1959)年11月10日、新官市は「世界連邦平和宣言都市」を採択。市民一致で世界の平和を誓っている。

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