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荒尾市における戦災の状況(熊本県)

1.空襲等の概況

 本市は、従来三井系の万田及び四ッ山の二大鉱山を有するほか、同系の化学工場と軍需工場があり、終戦前の人口は4万4千に達し、いわゆる新興工業都市としての発展途上にあったため、隣接の工業都市大牟田市と同時に爆撃を受けた。

 主な空襲は昭和20(1945)年6月18日と7月27日であり、この二度の空襲で四ッ山地区、昭和地区等の市街地は壊滅的な被害を受け、多数の死傷者を出した。

区分 全市 罹災地 罹災率
面積 17,862,625坪 90,000坪 0.50%
人口 40,241名 4,360名 11.0%
戸数 7,925戸 878戸 11.0%
区分 第一回空襲 第二回空襲
死者 32名 14名
傷者 175名 120名

(建設省編『戦災復興誌』(第4巻)1975年による)


(建設省編『戦災復興誌』(第4巻)1975年による)

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2.市民生活の状況

 空襲が激化するにつれ、市街地住民は防空壕を掘り、また空襲の非常時に備えての訓練を行った。

<バケツと火たたき>
昭和18(1943)年冬、上小路における防空演習の一場面。戦局が次第に悪化し、「撃ちてし止まむ」が国民の合言葉となっていた時代だけに、防空演習も以前よりは数段も真剣味を増していた。写真は見るとおりのバケツリレーと火たたきの操作だが、身支度一つにしても相当徹底した緊張感がうかがわれる。
(『ふるさとの想い出写真集 荒尾』 麦田静雄編から抜粋)

<手押しポンプ>
昭和16(1941)年ごろ、大正区における防空演習の陣容。同15(1940)年9月の内務省令に基づいて作られた各隣組では、全戸の協力によって動員・供出・配給・防空演習など新体制下の責任を果たさねばならなかった。
写真前面の手押しポンプは、いかにも貧弱だが、国民服・戦闘帽・ゲートル・もんぺといった非常時服の急増が目立つ。
(『ふるさとの想い出写真集 荒尾』 麦田静雄編から抜粋)

 

 企業整備や物資不足で仕事が無くなった商工業者は、徴用されて軍需工場などで働き、一般女性は女子挺身隊や勤労報国隊に、中学生や女学生は学徒動員令のもとに、軍需工場や農家の手伝いなどに勤労奉仕する毎日であった。


<軍需工場の操業>
先に荒尾・有明・八幡三ヶ町村にわたって軍用地として買い上げられていた三百町歩(約100万坪)の土地に、東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所の工場や倉庫など各施設が建設され、昭和18(1943)年に火薬の製造が始まり、小倉造兵廠に送られて砲弾や爆弾として仕上げられた。
当時の右写真の火薬庫は、新生西区の鴻江病院の北側や一紡・新生区等の住宅間に点在している。これらの火薬庫には三井染料から得た原料や火薬製品を保管した。
(参考文献『大牟田・荒尾の戦争遺跡ガイド』)

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3.空襲等の状況

 昭和20(1945)年6月18日の第1回目の空襲は、午後11時頃、米軍南方基地から鹿児島県佐多岬を経由、天草方面から北上したB29、60機の大編隊が荒尾市南西方面の有明海沿岸から侵攻、数知れぬ焼夷弾とナパーム弾が投下され、市街地は瞬時にして紅蓮の炎と黒鉛につつまれ、死者32名、重軽傷者175名を出した。6月25日の空襲においては、荒尾警察署に焼夷弾30数発が投下されたが、署の懸命な消火活動によって危うく、消失を免れた。7月27日に市街地北西部が二回目の空襲を受け、東京第二陸軍造幣廠が爆撃により全滅、また四ッ山神社、西原大神宮の社殿が喪失、死者14名、重軽傷者120名の罹災者を出した。市立国民第三学校も全焼した。

 上述の空襲により、荒尾市では四ッ山地区、昭和地区等の市街地の大半は焦土と化し、約9万坪にわたる878戸が消失、4,360人が住宅家財を消失した。

 このほか、8月12日平井小学校が機銃掃射を受けた。当時の平井小学校の床板や、柱の機銃弾の傷跡木片は大牟田の空襲を記録する会で保存している。 参考文献『荒尾史話』『戦災復興誌』

平井小学校に残る機銃掃射の弾痕

(平成3年に解体後、弾痕木片を大牟田の空襲を記録する会で保存)

<校舎二階>

<部分拡大>

 

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4.復興のあゆみ

 空襲により罹災した市民は、極度の耐乏生活の日々を送っていたが、本市においては直ちに戦災復興計画を策定し、空襲により荒廃した郷土再建に立ち上り、焦土と化した跡地には新しい住宅等が次々に建設され、市街地中心部の商店街は以前の活気を取り戻した。

 昭和20(1945)年12月、医療施設として荒尾・大牟田共立病院が開設、昭和22(1947)年には九州紡網株式会社が操業開始、昭和24(1949)年には荒尾バスが運行開始、つづいて荒尾市電が開通して交通網の整備が図られ、かつての軍需工場跡地には繊維産業等が立地し、福祉施設も次々に建設され、炭鉱景気と共に県下有数の鉱工業都市に成長した。

 この後、石炭産業の衰退から三井三池炭鉱の閉山を経て「炭鉱のまち」から「緑と賑わいのある観光・商業・文化都市」への脱皮を掲げ、21世紀初頭の現在は「元気に 笑顔かがやく 快適都市」を目指している。


(建設省編『戦災復興誌』(第4巻)1975年による)
荒尾特別都市計画事業復興土地区画整理事業として、戦災による焼失区域に周辺地を加えた北部地区、昭和地区を対象区域に決定し、復興事業を実施した。

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5.次世代への継承

 昭和38(1963)年荒尾市大島字笹原910番地の2に慰霊塔を建立し、毎年1月1日に元旦祭を催し遺族ほか多数の市民が参拝している。


<高松市戦争遺品展>

 また、荒尾市においては先の大戦による戦没者の慰霊行事として、例年10月に戦没者追悼式典をおこなっている。

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