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名護市における戦災の状況(沖縄県)

1.空襲等の概況

 「語り継ぐ戦争」市民の戦時・戦後体験記録第1集昭和60年発行より

 15年戦争ともいわれる長い戦争はすでに昭和6(1931)年に満州事変によって始まり、支那事変・大東亜戦争と拡大されて、ここ名護・山原でも出征兵士や戦死者を出し、寡婦や母子家庭、孤老・戦争孤児の数を増した。支那事変と称された日中戦争開戦の直後「国民精神総動員運動」の開始により、市民生活はますます戦争への傾斜を深めるが、昭和16(1941)年の対米英宣戦布告は、決定的に臨戦体制を実感せしめるものであった。

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2.市民生活の概況

 国頭郡下でも国策推進を目的として、名護町はじめ次々に大政翼賛会支部が結成された。この組織は部落会・婦人会・隣組・青年団を下部組織として「戦意高揚」「増産貯蓄」などに努めた。また名護町では大兼久を五区に分割、勝山・中山・旭川を誕生させるなど、令達事項の徹底、行事の単一化をめざした。

 名護の目貫通りでは出征兵士の壮行会、戦没者の町葬などで戦時意識を盛り上げ、婦人会の間でも戦況や慰問袋・千人針などに話題が集中する。

 昭和19(1944)年に入ると、伊江島飛行場設営のため、北部一円の労働者が徴用され、郡内の全青年学校生徒まで動員の手は及んだ。十・十空襲には工事現場で32名の犠牲者中13名は羽地青年学校の生徒であったという。このような犠牲者を出したにもかかわらず、同飛行場は戦略的持久作戦へ転換するため翌年3月13日、日本軍自らが爆破したのであった。

 県立三中・同三高女の生徒も決して例外ではなかった。学校の機能はほとんど停止し、三中生徒は伊江島飛行場設営はもちろん、兵器の取り扱いや通信兵として訓練に明け暮れ、三高女生徒は消防団や婦人会にまじって消火・救護訓練、はては竹槍訓練や軍隊の下働きにまで加えられる。三高女生徒の奉仕活動で注目すべきは、内原薬草園のコカの葉採集作業である。コカインの原料として武田薬品株式会社が50町歩もの広大な畑をもち、軍隊はじめ、麻酔薬の供給源の一つとなっていた。大阪本社への運搬作業には朝鮮人軍夫も加わっていたという。

 また、国頭郡では青年学校に通っていた15〜18歳の少年たちも兵士として召集されている。護郷隊と呼ばれた少年たちは約1,000名中160名が犠牲となっている。

 屋我地の愛楽園でもまた、ハンセン病診療所として一般住民から隔離されていながらなお、翼賛会や食糧増産挺身隊という呼称で患者自らが防空壕掘りや、畑地拡大作業に従事して食糧確保に努めたのであった。

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3.空襲等の状況

 昭和19(1944)年10月10日、県内各地に米軍機による初めての空襲があり相当な被害がでた。名護では、湾内に碇泊していた軍艦や漁船も銃爆撃を受けている。その他では軍事転用された運天港、渡久地港、伊江島が目標とされ、なかでも伊江島では多大の犠牲者が出ている。

 この空襲後、那覇の被災者はじめ中南部からの疎開者が北部へ流入した。翌年には県による北部地域疎開が計画され、当初10万名を予定したが、完了以前に米軍上陸にあい、実際には3万名にとどまったといわれている。

 十・十空襲以後は、一般住民も今後ますます悪くなるであろう事態に備えなければならなかった。働き手が招集されたことで、残された老人・子供・婦人たちの手で避難小屋や壕堀り、非常食糧の確保が進められた。昭和20(1945)年3月23日以降の空襲で、名護町民のほとんどは山中深く避難し、名護町のすべての行政機能は停止した。

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4.復興のあゆみ

 復興のあゆみは収容地区から
 6月中旬から7月中旬にかけては、米軍による投降勧告に応じ、あるいは捕らえられて各地の収容地区に移される。北部地区のおもな収容地区は辺土名・喜如嘉・饒波・田井等・瀬嵩・大浦崎・久志・宜野座・金武・屋嘉などである。各部落にも地元住民・疎開者が「収容」された場所があった。

 捕らえられた男子は尋問ののち、軍人は屋嘉の収容所へ、住民はその他の収容地区へ送りこまれた。収容地区では必要最小限の食糧と衣服、それにテントが与えられた。収容地区ごとに食糧配給所が設けられ、配給を待った。配給品目の主なものは米・メリケン粉・砂糖・缶詰・菓子類などで食物は常に不足していた。そのため、栄養失調やマラリアなどによる死はあとを断たなかった。特にマラリアについては罹病しない人はいないといわれるほど蔓延していた。収容地区によって多少異なるが、民間人を収容するためにあらかじめ残しておいた民家に何世帯かが一緒に暮すか、山の木を伐り出して仮小屋を作るか、またはテント張りの土間に草や、葉の繁った木の枝などを敷き詰めて寝起きした。

 各収容地区は、戦後沖縄復興の基礎となったが、同時にそれはまた、四半世紀にわたる米軍統治の出発点でもあった。田井等収容地区を例にとると、米軍は4月中旬には早くも軍政府を設置して市長を任命し、治安維持のために警察署長や農業・衛生・労務の諸班長を配置して、住民自治の行政をおしすすめた。

 大浦崎収容地区は現在のキャンプ・シュワブの区域に設けられ6月下旬に今帰仁・本部・伊江島の住民が強制的に送られ2万2,000名余りが4か月余の収容生活を送った。

 8月中旬には田井等とそれに隣接する部落一帯で、約6万5,000名、瀬嵩地区約4万7,000名の人々が収容生活を送っていた。

 そんななかで、いち早く教育が開始され、女教師たちは子供に取り巻かれて、男たちは空き缶、パラシュートの糸で作った三味線と沖縄芝居に、いささかの慰めを得るのであった。戦場の悪夢は去った。しかしこれから長い長い米軍基地と隣り合わせの戦後が始まるのである。

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5.次世代への継承

 ○名護市の慰霊碑(昭和60(1985)年3月作成)

  • 久志慰霊之塔:第一次世界大戦・日中戦争・太平洋戦争戦没者合祀、昭和34(1959)年建立(久志)
  • 久志村黎魂之塔:日中戦争・第二次世界大戦にいたる旧久志村出身364名合祀(瀬嵩)
  • 和球(にぎたま)之碑:九州五県(熊本・大分・宮崎・鹿児島・沖縄)出身者で編成された独立混成第44旅団配下の第二歩兵隊(球7071部隊:通称宇土部隊)沖縄戦での戦死者3,000名合祀(名護)
  • 少年護郷隊之碑:第三遊撃隊(通称護郷隊)北部各青年学校教官、優秀な青年学校生徒(当時17・18才)93柱合祀(名護)
  • 三中健児之塔:満州事変以後今次大戦戦没した県立第三中学校の卒業生及び在校生181柱・県立第三高等女学校生徒19柱合祀(名護)
  • 名護平和の塔:昭和56(1981)年3月建立(名護)
  • 屋部平和之塔:旧屋部村出身者578名合祀、昭和35(1960)年建立(屋部)
  • 羽地村慰霊之碑:仲尾次青年団が多野岳・部落周辺の遺骨を収集、洗骨250余合祀(羽地)
  • 羽地村忠魂碑:沖縄戦における村民の無縁仏の供養以外経緯がはっきりしない。(羽地)
  • 済井出の慰霊塔:日露戦争以降、今次大戦までの54程合祀、昭和25(1950)年建立(屋我地)
  • 運天原の慰霊塔:今次大戦での現役戦死者40名合祀、昭和27(1952)年建立(屋我地)
  • 屋我地村慰霊之碑:189柱合祀 昭和39(1964)年建立(屋我地)
参考文献
「語り継ぐ戦争」市民の戦時・戦後体験記録第1集 1985年
 
情報提供:名護市教育委員会文化課(市史編さん係)

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