総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 金武町における戦災の状況(沖縄県)

金武町における戦災の状況(沖縄県)

1.空襲等の概況

 令和3(2021)年現在、本町は金武区・並里区・中川区・伊芸区・屋嘉区の五つの行政区からなり、各地域における戦争被害は『金武町史戦争編』に記録されている。

 昭和20(1945)年3月1日、伊芸区の監視哨が攻撃された。東方から4機編隊で飛来してきた敵機が、監視哨上空をいったん過ぎ去った後、旋回して機銃掃射してきたのだった。

 昭和20(1945)年3月14日、金武村金武区に配備されていた海軍の第32震洋隊が訓練中に襲われた「1機空襲」など、B-24爆撃機が低空で威力偵察を行った。

 昭和20(1945)年3月23日、屋嘉区への空襲はグラマンによる機銃掃射と爆弾、焼夷弾投下であった。70から80機の編隊が何群も東南の伊計島の方向から飛来した。空が陰るほどの大群であった。翌日の空襲はいよいよ激しさを増し、屋嘉の集落が徹底的に焼き尽くされた。

 鉄筋コンクリート造りの村内最大の建造物である金武国民学校は、十・十空襲後にアダンの葉などで擬装されたが、昭和20(1945)年3月末、前ヌ浜とともに爆撃された。

 米軍上陸直前の空襲では、焼夷弾が投下され、金武区と並里区の東西直線数百メートルにわたって火災が発生した。この火災で数十戸の家屋が焼失したといわれている。

ページトップへ戻る

2.町民生活等の状況

 戦時体制下の金武においては、昭和14(1939)年に興亜奉公日が制定されると、毎月1日は金武宮参拝が行われるようになった。

 総動員体制を推進していくために、末端組織として隣組がつくられた。隣組では毎月常会が開催され、国債の購入や食糧増産などが努力事項として取り上げられ、村民の末端の一人ひとりまで、戦争を戦い抜く意識が浸透するように指導が行われていた。

 昭和16(1941)年には各部落ごとに青少年団が結成され、子ども達の活動は隣組単位の青少年団を中心に行われた。避難訓練、竹槍訓練、防火訓練、奉仕作業をはじめ、軍隊のような集団訓練も行われていた。

 昭和16(1941)年3月、ギンバル(中川)沖縄県立拓南訓練所が設立された。拓南訓練所は南方進出の開拓者を養成する機関として開設されたもので、県下の青年学校、中等学校、国民学校高学年の生徒達を合宿させ、「開拓魂」を徹底的に鍛えあげた。昭和19(1944)年の十・十空襲以降、拓南訓練所は実質的な訓練を中止した。

 昭和19(1944)年、沖縄に第32軍が配備されてから、食糧の供出がますます頻繁になっていった。主な供出物は、米、サツマイモ、野菜、大豆、鶏、牛、豚などで、時々イモの蔓も供出していた。

 また、軍部や政府はヒ麻の栽培を奨励していたため、農家ではその栽培と供出を余儀なくされていた。

 金属類もありとあらゆる物が供出させられた。各家庭では、古鍋、弁当箱、空き缶や蚊帳のミミに至るまで、およそ金属に類する物はすべて供出の対象になっていた。

 1944(昭和19)年末、沖縄県は第32軍の要請で人口課を新設し、中南部住民10万人を本島北部の国頭郡へ移す計画を立てた。

 金武村には佐敷、大里、玉城、知念、勝連、与那城などが、県人口課からの割り当てで決まっていた。

 しかし、割り当てられた疎開者たちは、米軍機が頭上に飛び回るころまではなかなか家を離れることができず、3月も遅くなってから、やっと腰をあげる者が多かった。

【米軍の侵攻】

 3月23日、早朝から米軍の本格的な攻撃が開始された。住民は、付近にあるガマや防空壕に身を隠し、攻撃が止むのを待つしかなかった。それまでの空襲とは違い、空襲は一過性のものではなく連日続き、3日目からは艦砲射撃も開始された。米軍が上陸するのは時間の問題だと感じていた住民にとって、問題は、いつ、どこへ避難するかということであった。

 米軍が金武・並里まで侵攻してきたのは4月5日頃だと思われるが、前日には既に斥候隊が出没していた。

ページトップへ戻る

3.戦没者

【犠牲者数】
戦争名 犠牲者数
日露戦争 2
満州事変 1
支那事変 5
太平洋戦争 1,478
合計 1,486
【各区別・太平洋戦争戦没者数】
地区名 戦没者数
金武区 495
並里区 539
中川区 68
伊芸区 87
屋嘉区 270
不明 19
合計 1,478

 昭和46(1971)年、「芳魂の塔」が建立された。日露戦争から第2次世界大戦までの戦没者約1,486柱が祀られ、毎年6月に慰霊祭が行われる。

 金武区では、毎年6月第1木曜日、金武鎮魂碑にて慰霊祭が行われる。
 屋嘉区では、毎年9月28日、屋嘉西児童公園にて慰霊祭が行われる。
 伊芸区では、毎年6月第3土曜日、さくまつ公園・伊芸区戦没者慰霊碑にて慰霊祭が行われる。

【疎開】

 昭和19(1944)年8月22日、疎開学童約700人を乗せた対馬丸が悪石島北西沖で米潜水艦に撃沈された。金武村内からは一般疎開団がこれに乗船していた。この一般疎開の中には、金武国民学校の児童13人と幼児も多数含まれ、村民53人が犠牲となった。

ページトップへ戻る

4.復興のあゆみ

【強制退去】

 米軍は池原というところに飛行場を完成させていた。山中に潜んでいた敗残兵や護郷隊は、度々ここに夜襲をかけ、被害を与えていた。米軍は、基地機能の安全性と民間地域への日本軍の潜入を阻止するため、金武・並里地域の民間人を中川以北へ強制的に移動させた。住民は家財道具を抱え、ガラマンジャク(億首橋を通る旧道)を何度も往復して中川に生活の場を移した。民間人を移動させた米軍は、金武・並里に残っていた家屋のほとんどを取り壊し、移動先の中川に建てる避難民の住居の資材とした。金武・並里に戦前からの民家が少ないのは、このときほとんど取り壊されたからである。

【収容所生活】

 収容所は食糧事情が悪く、米軍の配給に頼る生活であった。配給物資は量が少なく、そのため常に飢えに悩まされ、野草を摘んだり、「戦果」*をあげて食いつなぐのがやっとであった。体力のないお年寄りや幼児、避難中に負傷した者など、この収容所生活の間に、栄養失調やマラリアなどの病気で、多くの者が命を落としていった。

*軍作業の人たちは、米軍の各種廃棄物を入手し、作業現場や輸送車から、いろんな物資をだまって持ち帰り、これを「戦果」といって正当化した。戦争中の「戦闘の成果」と同じように考えて「戦果を上げる」ことに特別な罪の意識を持たなかった。

 昭和21(1946)年1月、金武・並里の住民にも帰村の許可が下りた。漢那収容所で生活していた住民は、我が家に帰ることになったが、収容所の仮設小屋建設のために家は取り壊されており、残っていたのは米軍上陸前の空襲で焼かれた家屋などであった。家財道具を運び終えた住民が、まず最初に着手しなければならなかったのは住居の確保であった。住民は米軍テントを張った簡易小屋を建て、そして米軍から供給された資材で規格住宅の建設を始めた。

ページトップへ戻る

5.次世代への継承

 毎年、慰霊の日近くになると、金武町立図書館にて沖縄戦に関連して展示が行われるほか、町内各地で慰霊祭が行われる。

参考文献
『金武町史戦争編』 金武町教育委員会 2002年
『金武区誌 戦前編 下巻』 金武区事務所 1994年
 

情報提供:金武町教育委員会 社会教育課

ページトップへ戻る