総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 長野市における戦災の状況(長野県)

長野市における戦災の状況(長野県)

1.空襲等の概況

 長野市は、太平洋戦争勃発以来敗戦の末期まで、B29等が市街地に接近あるいは市街地上空を通過の時、「警戒警報」または「空襲警報」が発令されただけで、実際の空襲を受けることなく過ぎていた。

 ところが、戦況が押し迫った昭和20(1945)年8月13日の未明から夕方まで、艦載機の編隊により数回にわたる空襲があり、主として長野飛行場、国鉄長野駅機関区(庫)を中心に、機銃掃射・ロケット弾の攻撃を受けた。

 この空襲による被害については、被災当時、地元の新聞やラジオ・雑誌等でも報じられたが、例えば、死亡者数でもかなりの差があり不確かであった。その後、民間団体による聞き取りなど詳細な調査が行われ、長野市内犠牲者は46人(「長野が空襲された」長野空襲を語り継ぐ会編 昭和62(1987)年発行)とされている。

ページトップへ戻る

2.空襲等の状況

(第1回目)13日午前6時50分

 米軍機がおよそ20分間、長野飛行場を銃撃、同飛行場の練習機数十機が破壊され、また、飛行場拡張工事に動員の3人が死亡した。

(第2回目)午前9時前後

 午前8時半ころから、ロケット弾が国鉄長野駅舎や長野機関区に落とされたが不発であった。これに対し同区内では、予め設置の機関銃で応酬した。

  午前9時10分ころ、米軍機が約1000mの高度で北方からおよそ25分間、4回にわたって飛行場付近を攻撃した。付近の川合新田・松岡地区の民家にも爆弾が落とされ、1家9人と、9歳を頭に姉弟3人が死亡した。さらに、長野機関区では午前9時20分から午後0時40分まで3回にわたり銃撃され、職員8人、兵隊3人が死亡した。


(爆撃を受ける旧国鉄長野機関区・米国立公文書館所蔵)

(第3回目)午後0時前後

 午前11時50分ころ、松代町の民家に爆弾が落とされ、主婦・お年寄り等6人が死亡した。

 正午近く、5〜6機が若槻の国立傷痍軍人長野療養所にロケット弾投下と銃撃が行われ、職員・患者等5人が死亡した。

 正午前、国鉄篠ノ井駅の東側民家にロケット弾が落とされ、主婦等2人が死亡した。また、機銃掃射で民家10数戸が被害を受けた。

(第4回目)午後1時半ころ

 米軍機がおよそ8機の編隊で、4回にわたり長野市西南方向に銃爆撃を行い、午後2時53分ころ南方へ去る。

(第5回目)午前3時半ころ

 5〜6機が長野電鉄河東線しなのかわだ駅を銃撃し、列車から降りた50歳くらいの男性等が被弾し、3人が死亡した。また、同地区の民家や小学校などの屋根が損傷した。

 6〜9機が国鉄篠ノ井駅周辺を4〜5回にわたり銃撃し、駅や民家の屋根などが損傷した。


(米軍機が落とした薬きょう「長野が空襲された」より)

(このほか)

 長野市内居町(いまち)で東部五十三部隊の兵士2人が、ロケット弾で死亡した。以上、早朝から午後まで5回の空襲で、上記のほか川中島と吉田で2人が死亡。また、疎開で真島に住んでいた外務省役人と言われる(氏名不詳)2人が死亡した。こうして、この空襲による死者は、合わせて少なくとも46人が確認されている。

 飛行場近くの大豆島小学校では空襲の際、兵舎と誤認されたか機銃掃射や爆撃を受け、南校舎が破壊された。

ページトップへ戻る

3.復興のあゆみ

 長野市は、昭和20(1945)年度中に次のように空襲の罹災家庭に対し、最高100円・最低30円の市見舞金を贈り、その悲しみを慰撫した。

  • イ、全焼全壊家庭 30戸
  • ロ、半焼半壊家庭 12戸
  • ハ、その他の家庭 10戸
  • ニ、死亡者 11人
  • ホ、重傷者 4人

このほか、戦災者用繊維製品・救急薬などの備蓄品を無料給与した。
(「長野市事務報告書」)

 空襲で破壊された長野飛行場は、昭和20(1945)年11月には、早くも市と大豆島村が、元地主などを中心に「長野飛行場土地耕作組合」をつくり、耕地づくりに着手した。

 まず、敗戦直前に飛行場付近に造られた30余か所の掩体壕(えんたいごう)(飛行機を隠す壕)を取り崩して地ならしをし、麦の蒔きつけをした。昭和22(1947)年6月、飛行場の接収が解除され、昭和23(1948)年4月には、滑走路と格納庫などを残して、他の用地全部が開放農地として売却された。昭和27(1952)年からは、航空法の施行により航空事業が再開され、小型機の発着やヘリポートに利用された。しかし、昭和40年代ころからは、飛行場周辺の住宅用地化や商工業用地化が進んだ。そこで、市は昭和57(1982)年12月、同地を「市営住宅建設用地」とし、昭和59(1984)年には滑走路上にも市営高層アパートが並ぶようになった。さらに、平成2(1990)年には市立犀陵(さいりょう)中学校の建設が始まるなどにより、旧飛行場の姿は全くなくなり、事実上閉鎖となった。


(終戦後の旧長野飛行場)
(「わが町の航空写真」株式会社和広発行より)

長野市はまた、空襲直後に市内罹災者に対し、損害の程度に応じ貸家組合の協力を得て、復興資材として、次の物資の斡旋をした。

  • イ、木材 1,198石
  • ロ、セメント 38袋(50キログラム入)

ページトップへ戻る

4.次世代への継承

 昭和60(1985)年8月13日、「40周年、長野空襲を語る集い」が開かれた。市内中学校の生徒が独自に調査し、文化祭で新事実を発表したのがきっかけで、市内の研究者・遺族・関係者等が呼びかけ人となって、さらなる調査と継続・発展が誓われ、今日に続いている。

ページトップへ戻る