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八戸市における戦災の状況(青森県)

1.空襲等の概況

 陸軍が飛行場を設置、海軍が沿岸に配備された八戸は、敵軍本土上陸地点の一つとして軍事的に重要視されていた。

 日本の戦況が緊迫してくる中、昭和20(1945)年7月14日、15日、八戸はグラマン戦闘機による最初の空襲を受ける。目標となったのは工場地帯、港湾、鉄道、飛行場であった。

 19日には大空襲予告のビラが撒かれ、それを機に八戸の疎開は強化された。

 長崎に原爆が投下された8月9日、10日にも空襲を受けたが、八戸大空襲予告日を2日後に控えた8月15日、終戦を迎えることとなった。


<攻撃を受け煙をあげる工場地帯>

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2.市民生活の状況

 八戸には軍需工場に指定されていた日東化学工業、日本砂鉄やセメント工場などがあり、中学生はそれらの工場で働いた。「本土決戦」に備え、永久築城の緊急工事が開始されると、女学生や国民学校の児童までも動員された。

 長引く戦争により食料や衣料は配給制度となり、市民生活は貧困を極める。米が無くなると麦や稗、それも無くなると大豆、じゃがいも、かぼちゃなどを代用し飢えをしのいだ。

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3.空襲等の状況

 第1回目の空襲は昭和20(1945)年7月14日、米艦載機6Fグラマン戦闘機の至近弾によるもので、朝5時から7時、9時、11時と2時間ずつの波状攻撃で、高舘飛行場、日東化学、尻内駅が被害を受けた。この攻撃は翌日も続き、死者行方不明者452名、重軽傷者は多数にのぼった(八戸市教育委員会編『平和を求めて』参考)。

 2回目は8月9日午前6時、グラマン戦闘機50機が八戸を襲った。港に仮泊していた海防艦「稲木」はこれに応戦したが、ロケット弾を集中的にあびせられ撃沈、艦長以下29名が戦死した。翌10日も空襲があり、工場、民家等が爆撃され、多数の死者を出した(『平和を求めて』参考)。

 8月17日が「八戸大空襲」の予告日とされていたが、その2日前に終戦を迎えたため、市街地の壊滅的な被害はまぬがれた。

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4.復興のあゆみ

 終戦後、疎開先等から引き揚げはじめた人々を、さらなる飢餓が襲った。苦しい生活の中ではあったが、昭和22(1947)年1月、第1回国体スケート競技会が長根で開かれた。昭和25(1950)年には上水道が通水、三白景気により地元産業は活気づいた。

 その後、度重なる災害(小児まひ、チリ地震津波、白銀大火災)に見舞われたものの、八戸は着実に一歩一歩発展を続け、昭和39(1964)年、新産業都市の指定を受けることとなる。平成14(2002)年には東北新幹線八戸駅が開業し、戦後60年を迎えた今、八戸は北奥羽地域の産業・交通網の拠点としてますますの発展を期待されている。

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5.次世代への継承

 昭和48(1973)年7月に「英霊の記念像」が完成し、毎年10月には、八戸市連合遺族会により『八戸市戦没者追悼式』が執り行われ、遺族らが多数参列している。

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