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秋田市における戦災の状況(秋田県)

1.空襲等の概況

昭和10年代、石油資源に乏しい日本にあって軍の需要が年々高まる中、八橋油田は次々と掘井に成功し、日本第一位の産油地帯となるなど、全国的にも注目されていた。製油は土崎の日石製油所と船川の日鉱製油所で行われていた。

昭和20(1945)年8月14日夜、土崎港が突然米軍機に襲われた。警戒警報なしにいきなり空襲警報が発せられ、それとほとんど同時に爆撃が始まったという。

米軍機はB29であり、爆撃の標的は土崎港北大浜地区の日本石油秋田製油所であった。

爆弾は日石製油所を中心に落とされ、翌15日の午前2時39分まで4時間余にわたった。

この空襲により、日石秋田製油所が壊滅しただけでなく、死傷者が数多く出た。

この土崎空襲は終戦前の米軍最後の攻撃であったとされる。

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2.市民生活の状況

戦況不利の情報も入る中、秋田市は空襲の危険を察知し、千秋公園丘陵に横穴式の防空壕を掘り、退庁時には重要書類をはじめ非常持ち出しをこの中に運んだりした。昭和20(1945)年5月から役所は日曜返上、旧市内27町の疎開も始まった

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3.空襲等の状況

昭和20(1945)年8月14日午後10時27分ごろ、土崎に爆撃が始まった。爆撃は、土崎港北大浜地区にあった日本石油秋田製油所を標的にされたが、それのみならず上酒田町から新城町、七軒町へかけても落とされた。翌15日翌15日の午前2時39分まで続いた。

この爆撃で日石製油所は全滅したほか、建物の全焼104、半焼6、全壊12、死者は民間人が93人、軍人160人前後と推定され、負傷者数については明らかではない。

けが人は組合病院に運ばれたが、収容しきれないため土崎高女(土崎南小)校舎と、その付近の松林に設けられた臨時救護所に収容された。死者は蒼龍寺、西船寺、土崎第一小の体育館などに運び込まれた。

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4.復興のあゆみ

昭和21(1946)年9月、日石秋田製油所は第一期復興工事の竣工式が行われ、同23(1948)年12月には第二期復興工事が完成した。

また、昭和23(1948)年夏、土崎空襲で致命的な打撃を受け、雄物川河口の往来を妨げていた老朽軍艦3隻に砂を満載して沖に沈め、これを足がかりとして北防波堤を築いた。

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5.次世代への継承

土崎空襲の記録は昭和56(1981)年刊行の『土崎空襲の記録』や土崎港被爆市民会議による児童向けの本『はまなすはみた』などを刊行して、広く伝えることに努力している。

昭和50(1975)年、旧日石製油所の被爆地に近い通称浜ナシ山の公園に、秋田港被爆者慰霊碑が建てられた。

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