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一宮市における戦災の状況(愛知県)

1.空襲等の概況

 織都一宮市は、太平洋戦争の拡大に伴い、東洋紡績一宮工場が川崎航空機工場へ、大日本紡績一宮工場が特殊軽合金工場へと、平和産業から軍需工業に切り替えられた。そして、成年男子は徴兵で戦地へ、学生は勤労奉仕、学徒動員で軍需工場へ徴用された。

 昭和19(1944)年11月23日、当市上空に敵機B29の編隊が飛来し、これ以後、頻繁に上空を飛ぶようになり、戦局がますます悪化していった。そして、本格的な空襲を受けたのは、昭和20(1945)年7月13日と7月28日夜から29日未明にかけての2回であった。

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2.市民生活の状況

 戦時下においては、物心両面からの統制の強化とともに生活必需物資の不足が深刻化し、市民の生活は窮迫の度合いを深めていった。食料についてみると、成人男子の一日標準配給量は二合三勺とされたが、その内容は当初の7分搗(づ)き米から、外米の混合、ひき割りとうもろこしの混入と低下するばかりで、総合配給制が取られるようになった昭和18(1943)年からは、甘藷・馬鈴薯から果てはかぼちゃ・大豆粕までが主食の代替として配給されるようになった。

 また、大都市からの転出者は、地方の縁故者を頼って個別に疎開を始め、縁故のない人については、受け入れ市町村の割当が行われた。一宮市も転出者の受け入れが割り当てられ、市役所内に設けられた「一宮市疎開受入相談所」は昭和19(1944)年中に431世帯、1,580名に対して居住などの斡旋を行った。このほか、縁故疎開者はかなりの数にのぼっていたものと思われる。

 尾西地方の織物業は、戦時体制の強化とともに強力な統制化に置かれた。原材料の不足、織機の供出、施設・設備の強制的転用と続いた戦争の末期には、実質的な休業状態に追い込まれた。(一宮市編『一宮市史』)

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3.空襲等の状況

 7月13日午後8時ごろ、折からの雨をついて突如侵入したB29約20機から市街地の北部を始め、周辺部の大和村、今伊勢町、葉栗、西成地区などに焼夷弾が投下された。空襲警報も発令されていない突然の空襲だったので、市民は防空訓練のことも考えるひまもなく郊外へ逃げた。その大部分が市街地の人で、焼夷弾の落下を見て遮二無二郊外へ走り出し、途中の路上で、あるいは藪の中へ逃げ込んで直撃弾を受け、多数の死者を出した。この空襲は、農村地帯だったので家屋の焼失は少なかった。

 2回目の空襲は、7月28日午後10時ごろから翌29日午前2時ごろまでにわたり、B29の編隊約260機が市街地上空に侵入し、市の中心部に油脂焼夷弾の雨を降らせた。この波状攻撃によって市街地の8割が焼失し、多数の死傷者を出した。中でも市北東部の大乗町、神明津町付近の住民に犠牲者が多かった。

 この空襲で焼失した主な建物は、真清田神社、一宮警察署、税務署、商工会議所、尾張一宮駅、一宮中学校、一宮商業高校、一宮高等女学校、第一国民学校、第二国民学校、第五国民学校、川崎航空機工場、特殊軽合金工場、日本毛織今伊勢工場などである。

 この2回にわたる空襲による被害状況は、罹災戸数1万466戸、罹災者数4万1,027人、そのうち死者727人、重傷者4,187人に達した。罹災面積は123万坪に及び市街地面積の80%が焼失した。(建設省編『戦災復興誌』)

<特殊軽合金一宮工場の被災状況>

<宮西通方面の被災状況>

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4.復興のあゆみ

 2度の空襲により街は廃墟と化し、市民は極度の窮乏生活を強いられた。

 そんな物資の欠乏している中、10月3日には、復興第1回の「三八市」が開かれた。市民の復興への意欲は他の都市に比べて非常に高く、市が戦災復興事業に着手したときには、すでに市内の中心部に仮設の商店が軒を並べていたほどである。

 以後、戦災復興事業は市民の積極的な協力を得て、区画整理事業、街路事業、新市街地開発事業など順調に行われた。

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5.次世代への継承

 毎年、空襲で被害を受けた7月28日に大乗公園の慰霊碑の前で、一宮市戦災遺族会により戦災死没者慰霊法要が執り行われている。

 また、本市は、戦後50年の節目の年である平成7(1995)年9月25日に、戦争の悲惨さと平和の尊さを新しい世代に伝え、恒久の平和に向けて努力することを決意し、平和都市であることを宣言した。

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