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半田市における戦災の状況(愛知県)

1.空襲等の概況

 戦況の悪化が明らかになってきたころ、昭和19(1944)年12月7日、東南海地震が東海地方を襲った。半田市では、震度6以上で188名の人が死亡した(愛知県防災会議の「昭和19(1944)年12月7日東南海地震の被害と地震分布」より)とされている。なかでも中島飛行機半田製作所では、山方工場と葭野工場が倒壊し、大きな被害を受けた。さらに1月13日には、12名が死亡した三河地震が追い撃ちをかけた。

 2度の大地震と名古屋市で始まった空襲による恐怖に疲弊した半田市へ、7月から本格的な空襲が始まった。昭和20(1945)年7月24日の半田空襲では、特に主目的となった中島飛行機を中心に多数の死傷者を出した。

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2.市民生活の状況

 太平洋戦争の進展は、多大な犠牲を強いることになり、半田市出身の兵士のうちからも多数の戦死者を出し、市民生活も悪化の一途をたどった。半田の工業が軍需生産へ傾斜していくなか、働き手を兵隊や工場に取られる一方、物資の不足は深刻となり、配給制は日用品のほとんど全てに拡大されていった。2度の大地震と空襲に見舞われたこともあって、敗戦までに482戸(800世帯)の家屋が強制的に疎開させられた。

<全壊した家屋>(山方新田)
昭和19年12月7日東南海地震>

<艦上攻撃機「天山」>
800kgの魚雷を抱く3人乗り、全長10.8m、1,850馬力、
最大時速482km半田製作所で968機生産された。

<艦上偵察機「彩雲」>
3人乗り、全長11m、1,990馬力、最大時速610km、379機生産された。

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3.空襲等の状況

 半田市への本格的な初空襲は、昭和20(1945)年7月15日、硫黄島から進発して来た小型機P51十数機によって行われた。7月24日には、半田の中島飛行機を78機のB29が爆撃した。

 第一波は武豊町北部の上ケ付近から爆撃を開始し、半田市の康衛町・中島の山方工場・本工場・乙川住宅地の順で爆撃を行い、2千発の250キロ爆弾が雨のように投下された。数波に分かれてのB29の爆撃の直後から、小型機多数が来襲し、機銃掃射を浴びせて死傷者を増大させ、救援活動を妨害した。小型機の攻撃は午後に至るまで続いた。

 「半田空襲と戦争を記録する会」の調査によれば、7月24日の空襲で264人以上の死者が確認されている。その主目的だった中島飛行機半田製作所は、本工場へ81発、山方工場へ35発の爆弾を投下され、壊滅的な打撃を受けた。

 戦時体制が強化されていく中で昭和18年に発足した中島飛行機半田製作所は、従業員の数が最高で約2万6千名であったが、そのうち正規従業員は、9千名、約1万7千名は、国家総動員法にもとづいて強制的に動員された徴用工、動員学徒、女子挺身隊などであった。

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4.復興のあゆみ

 地震と空襲により大きな被害を被った半田市は、敗戦、占領という新しい条件のもとに再出発をする。敗戦直後の極めて困難な条件の中で、住宅の建設、病院や学校など公共施設の充実が行われた。都市づくりが進められ、まず、道路の整備が図られた。農地改革が進められるとともに、軍需産業から平和産業への転換が進行した。中島飛行機は輸送機工業として鉄道車両、織機などの生産に転換し、川崎製鉄とともに金属・機会工業の中心として出発した。それとともに、地場産業としての繊維工業と醸造業を中心とする食品工業が復活し、急速な展開をとげていった。30年代に入ると、経済の高度成長が開始され、衣浦大橋、衣浦干拓、愛知用水などの産業基盤整備の諸事業が次々と完成し、さらに衣浦港の整備も進み、産業構造の変化が進行していった。

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5.次世代への継承

 半田市とその周辺では、軍需工場での地震による死亡者154人、空襲で272人以上、動員中の労災死亡者6人以上、合計432人以上の戦災死亡者を出している。これらの判明している人たち全てを追悼するとともに、半田市の戦争の歴史を後世に伝え、平和を念じようという趣旨で、戦災犠牲者の名を刻んだ碑が、平成7(1995)年7月雁宿公園内に造られた。

 また、半田市は昭和33(1958)年6月6日、市議会で「原水爆実験禁止、並びに核兵器持込み反対核非武装宣言」を決議した。そして、平成5(1993)年には、半田の平和都市としての歴史と伝統をさらに確認し、具体化するために、3月5日の市議会で「半田市非核平和都市宣言」を全会一致で可決した。

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