所在 | 圓應寺 |
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住所 | 福岡県福岡市中央区大手門3−1−7(福岡地下鉄 大濠公園前駅 徒歩5分) |
連絡先 | 圓應寺 092−761−1454 |
建立者 | 圓應寺 |
建立年 |
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※H25.11発行「平成25年度 全国の戦災の追悼施設・追悼式」より
(調査時期H25年度/情報提供元は、圓應寺)
【表】
南無阿彌陀佛
昭和二十年六月十九日、さらに過酷な運命が待ち受けていた。福岡大空襲である。アメリカ軍の戦略爆撃計画が実行されたのだ。マリアナ諸島を出発したB29爆撃機の巨大編隊二百三十九機が九州を北上、背振山系から福岡上空に到達すると23時11分、容赦ない焼夷弾投下が開始された。日本側が応戦するも高射砲はほとんど命中せず、なすすべもなかったと聞く。赤や黄色の閃光を周囲に放ちながらアイスキャンデーのような形状の焼夷弾が「ヒューシュルルー」と不気味な金属音を立てて暗い夜空を切り裂いた。
(中略)
博多や天神を中心に爆撃は約2時間にわたって行われ、東西は御笠川から樋井川まで、南北は博多湾海岸線から櫛田神社・大濠公園までの一帯が焼失した。実に福岡市の3分の1の家屋が戦火に焼かれたのである。市内でもとりわけ奈良屋、冷泉、大浜、大名、簀子5校区の被害が激しく、特に簀子校区はわずか数軒を残してすべての家屋が全焼したと記録がある。
(中略)
当時の発表では、簀子校区の死者百七十六名、そのうち小学校児童二十四名であった。ムシロが敷かれただけの墓地の一角に真っ黒に焼け焦げた死体がズラリと並んだのである。あまりにも無残な姿に発する言葉は見つかるものではない。まもなく墓地と校庭で荼毘に付され、今その場所には慰霊塔が建っている。
出典:三木和信著「ひまわり」より