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太平洋戦争延岡空襲殉難碑

基本情報

所在 今山公園内 弘法大師像前
住所 宮崎県延岡市山下町2−3998(JR延岡駅 徒歩15分)
連絡先 今山大師 0982−32−5290
建立者 延岡空襲殉難碑建立委員会
建立年 昭和53年6月29日

※H25.11発行「平成25年度 全国の戦災の追悼施設・追悼式」より
(調査時期H25年度/情報提供元は、今山大師)

施設の写真

写真1

写真2

写真1

碑文

【表】

太平洋戦争
延岡空襲殉難碑


【裏】

昭和十六年十二月八日勃発した太平洋戦争はわが軍の 真珠湾
奇襲作戦により 前半には勝利をおさめたが 米軍の物量と科学戦
による攻撃で逆転 昭和二十年八月十五日遂にわが国の敗戦に終った
この間本土への空襲は激化し軍需工場群を擁した延岡市に於いても
二十年三月四日から終戦前日まで十数回の空襲をうけ とくに
二十年六月二十九日午前一時十五分から三時間にわたるB29爆撃機
四十余機による油脂焼夷弾攻撃は投下約五十万発 市中心部は
一瞬のうちに火の海になり その劫火の中を市民は阿鼻叫喚辛う
して五ケ瀬大瀬河原に避難したが まさに戦争が生んだ悲劇であった
恐怖の一夜が明けると市街地の大半は一木も残さず焼きつくされ
一望焦土と化しているのを市民は茫然と眺めながら肉親をもとめて
右往左往するのみであった この焼夷弾攻撃による被害は別記の通り
であるが 銃後を護る市民をはじめ学徒挺身隊 産業報国隊など
非戦闘員の殉難者は実に三百名を越えた 終戦后三十三年を経た
今日各方面の浄財によって 新しくこの延岡空襲殉難碑を建立
その霊を弔うとともに悲惨なる戦争の絶滅を期し世界の永久平和
を祈念するものである

昭和五十三年六月二十九日
延岡空襲殉難碑建立委員会


【裏下部】

延岡市の戦災に於ける損害

戦災死者
三百余名
重軽傷者
多  数
戦災面積
九十二万坪(三千四十一平方粁)
被災人口
一萬五千二百三十二人 当時の人口
(七萬二千六百人)
被災戸数
三千七百六十五戸 当時の戸数
(一萬四千三百)

戦災地域

川中地区
新町 柳沢町 本町 南町 中町
北町 船倉町 天神小路 並に本小路
櫻小路の一部
川北地区
紺屋町 元町 博労町 祇園町の東側
瀬之口 並に萩町 北小路の一部
恒富地区
川原町 春日館通り 第二下出口
三ツ瀬 新小路 並に出口 西小路
本村の一部
南方地区
大貫の一部
軍需工場
日室化学工業株式会社
(薬品部 ベンべルグ部 プラスチック部
雷管部 レーヨン部 ダイナマイト部)
間野航空株式会社等に被害甚大
橋  梁
五ヶ瀬橋 須崎橋 大瀬橋の各一部焼失

恒富地区南方地区の水田に焼夷弾多数投下

西口玄豊謹書
施工者 福原明

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