新潟市においては、第二次世界大戦末期の昭和二十年
新潟港を中心として、艦載機による銃爆撃や触雷により
連絡船「鉄工丸」、軍用船「宇品丸」、佐渡連絡船「おけさ丸」
などの多数の船舶や工場民家などに大きな被害を受け
勤労動員の生徒をはじめ、工員・乗客・船員など
多くの尊い生命や貴重な財産が失われました。
さらに、新潟市出身の軍人軍属並びに市民の多くが
ひたすら祖国の安泰と家族の幸せを念じつつ
戦争の犠牲となり尊い命を亡くされました。
また当時、市内の捕虜収容所に収容され
あるいは強制連行されて来ていた外国の人々の多くも
異国である新潟の地で亡くなっております。
あれから五十年余りが経過し、新潟市は今
市民のたゆみない熱意と粘り強さによって
中核市として目覚ましい発展を続けております。
しかし、私たちは、今日の発展が
多くの尊い犠牲の上に築かれていることを忘れず
戦争の悲惨さと平和の尊さを
後世に語り継いでいかなければなりません。
市域で最も激しい戦禍にあった
新潟港を望む水戸教公園の丘に、平和の祈念碑を建立し
戦争の犠牲となられた方々のご冥福をお祈りするとともに
世界の恒久平和を願うものであります。
平成十年八月十日
新潟市長 長谷川 義明