(2)我が国における「情報の産業化」 次に、我が国における「情報の産業化」61すなわちICT産業の動向について振り返る。 ア 通信事業を核に広がった我が国のICT産業 日本電信電話公社を中心とする「ファミリー」の形成 我が国では電信が1869年、電話が1890年に開始され、国営・独占事業として展開された。電話の利用は現代の電気通信事業と比較すると限られた規模であったものの、積極的にネットワークの拡大が行われた。 図表1-1-2-6 1890年代の電話サービス販売状況 (出典)武田晴人編(2011)『日本の情報通信産業史』 図表1-1-2-7 1950年頃の電話加入者総数 (出典)武田晴人編(2011)『日本の情報通信産業史』 1890年の電話事業の開始当初、電話機は沖電機工場(現沖電気工業)が製造したが、交換機は米国ウェスタン・エレクトリック(WE)社からの輸入品を使用していた。その一環として、WE社と同社の代理人を務めていた岩垂邦彦により、1899年に日本初の外資系企業として日本電気(NEC)が設立され、WE社製品の保守等を行った。他方、交換機の国産化の動きもあり、沖電機工場が国産交換機の製造に成功したほか、日本電気も自社製品の開発という方針に転換した。また、1923年には、古河電気工業とドイツのシーメンス社の資本・技術提携により、富士電機製造62(現富士電機)が設立された。同社は1933年に電話部の所管業務を分離し、富士通信製造(現富士通)が設立された。 第二次世界大戦後の1952年には、旧逓信省の電信電話事業の流れを引き継ぐ形で日本電信電話公社(現NTT)が発足した。日本電信電話公社は、加入電話の積滞解消、全国自動即時化を二大目標として、インフラの整備を進めていった。この中で、日本電信電話公社が通信機器の仕様を提示し、前述の日本電気、沖電気工業、富士通や日立製作所等がその設計・製造を行うという役割分担が確立していき、これらメーカーは「電電ファミリー」と呼ばれるようになった63。 このほか、電話架設を迅速に進めるため、後に通信建設会社と呼ばれる企業の組織化も行われた。1952年には、日本通信建設(現日本コムシス)が全国初の線路・機械・伝送無線各1級業者として日本電信電話公社から資格認定を受けた。1958年には、全国各地の通信建設工事会社を会員会社として、社団法人電信電話工事協会(現情報通信エンジニアリング協会)が発足した。 1985年には、日本電信電話公社の民営化により日本電信電話株式会社(NTT)が発足するとともに、いわゆる通信自由化が行われ、通信市場においてはNTTを含む複数の事業者が競争する体制となった。これにより、我が国の電気通信事業は、様々な事業者による活発な競争を通じ、人々の利便性を高めるサービスを生み出しながら、大きく発展することとなった。他方、通信事業者を中心とする「ファミリー」のような仕組みについては、その後も引き続き残っていたとされる64。 通信機器からコンピューターへ 通信機器を製造する「電電ファミリー」のメーカーを中心に、コンピューターの開発に向けた動きも出てきた。また、日本電信電話公社自身も、交換機や料金計算等に使用することを視野に1953年からコンピューターの研究に着手した。このように、多くの日本のメーカーのトランジスタ式コンピューターの開発動機が通信機あるいは交換機にあったことは注目に値するとも指摘されている65。 SIerの登場と独自の発展 前述のとおり、1960年代から70年代にかけて、ICT利用産業において情報システム部門を子会社化する動きが現れた。また、コンピューターの製造を行っていたメーカーも、情報システムの構築・運用の事業へと参入していった66。更に、日本電信電話公社も、富士通等との協力により、1966年から全国地方銀行協会のオンラインシステムの開発を行うとともに、1967年にはデータ通信本部(現NTTデータ)を設置し、この事業への進出を本格化させた。このほか、商社においても、海外から輸入した情報通信機器販売を起源として次第に計算機の時間貸し業務やソフト開発や保守等も手がけつつ、情報システム子会社を設立する動きが見られた。例えば、1969年には住商コンピューターサービス(現SCSK)が、1972年には伊藤忠データシステム(現伊藤忠テクノソリューションズ)が設立された。 1980年代以降も、例えば1980年に新日鐵(現日本製鉄)が子会社として日鐵コンピュータシステム(現日鉄ソリューションズ)を設立するとともに、1988年には情報システム部門との統合を行った。また、前述した1980年代末から1990年代にかけての情報システム関連業務の外部委託の拡大の中で、情報システム部門の子会社化の動きが進展した。 これにより、情報システムの構築・運用を主な業務とするシステムインテグレーションという業態が成立することになった。我が国において、この業界に属する個別の事業者(システムインテグレーター)は、SIer(エスアイヤー)という和製英語で呼ばれることも多く、国際的には独特の構造を取っているとされる。 その一つが、受託開発型中心の情報システム開発である。第2節で見るとおり、例えば米国においては一般的なパッケージソフトの利用が多いものとなっているが、我が国においては、企業が情報システム構築をSIerに外部委託する中で、各企業における業務フローや社内文化等に合わせた形でソフトウェアを開発することが多いとされている。 もう一つの特徴が、多重下請構造と呼ばれるものである67。具体的には、企業が情報システム関連業務を外部委託する際に、直接的にはプライマリーと呼ばれる大手のSIerに委託し、プライマリーは更にセカンダリーと呼ばれるSIerに、そしてセカンダリーは更に他のSIerにという風に次々と業務を委託する多重構造となっているということを指す。このような仕組みは、新規システム開発案件数の変動等により、その時々で変化する業務量に合わせた人員の確保・調整を行うことを可能とするものとされる。 図表1-1-2-8 システム開発企業の多重請負構造 (出典)paiza開発日誌 図表1-1-2-9 多重下請け構造と開発プロセスの対応 (出典)paiza開発日誌 このようなビジネスモデルにあって、提供するシステムの質ではなく、何人がどのぐらいの時間をかけてシステムを構築したかで料金が設定される、「人月商売」と呼ばれるような労働集約的な産業となっているとされている68。このことは、情報システムに関する我が国企業の国際的な競争力にも影響していると考えられる。 イ 我が国のICT関連製造業を巡る変化 ICT関連製造業は、昭和時代の「電子立国」から平成時代に大きく縮小 我が国のICT関連製造業の生産額、輸出額、輸入額等69の推移を概観すると、1985年頃までは、生産額・輸出額共に増加傾向にあり、「電子立国」とも称されるほどであった。いわゆるプラザ合意が行われた1985年以降は、急速な円高も背景に、生産は一時期を除いて引き続き増加傾向にあったものの、輸出の増加は減速することとなった。そして、2000年代に入ってからは生産額が減少傾向に転じ、年代後半には輸出額も減少傾向となった。他方、輸入額については、インターネットが普及し始めた1990年代後半から大きく増加し、2013年には輸出額・輸入額の逆転により貿易収支も赤字に転じている(図表1-1-2-10)。 図表1-1-2-10 電子産業の生産・内需・輸出・輸入・貿易収支 (出典)電子情報技術産業協会(JEITA)提供資料(経済産業省機械統計、財務省貿易統計を集計)を基に作成 このうち通信機器をみると、元々生産額に比べて輸出額は大きいものではなく内需主導の産業であったといえ、1990年代半ばまでは一時期を除き生産額は増加傾向にあった。しかしながら、インターネットの普及が開始した1990年代後半から減少傾向に転じ、2000年代に入ってからは急速に縮小している。また、2000年代後半からは、スマートフォンの登場を背景に輸入が急激に増加している(図表1-1-2-11)。 図表1-1-2-11 通信機器の生産額、輸出額、輸入額 (出典)経済産業省機械統計、財務省貿易統計 変化はなぜ起こったのか このように、平成時代には昭和時代の「電子立国」の姿は大きく変貌することとなったが、変化はなぜ起こったのだろうか。 まず、1985年が一つのターニングポイントであることを踏まえると、特に輸出面については、プラザ合意以降の急激な円高等を背景に、我が国の企業が生産拠点を海外に移す流れが強まったことが考えられる。これにより、例えば海外で現地生産を行い国内に輸入を行う形となると、貿易収支は赤字になる。ただし、貿易赤字は各企業又は一国にとって直ちに問題となるものではなく、我が国の企業が出資した海外子会社からの配当金等は、国際収支上第一次所得収支に計上されることに留意が必要である。 次に、1990年代後半も一つのターニングポイントであることを踏まえると、インターネットの普及開始が挙げられる。特に、通信ネットワークにおいては、前述したPSTNからIPネットワークへの移行が始まり、これまで国産中心であった交換機等が、海外製品中心のルータ等に代替されていくこととなった。 更に、前述したような通信事業者を中心とする「ファミリー」体制が、特に通信機器においては我が国のICT関連製造業による海外展開を積極的なものとしなかったという見方がある。例えば、携帯電話端末については、メーカーは通信事業者という安定的な大口顧客が存在する中で海外展開の必要性が薄かったことや、通信事業者の意向に応じた機能等の開発を行うことで製品が我が国に特殊なものとなったこと等が指摘されている70。現在では、多くのメーカーが携帯電話端末製造から撤退するとともに、2000年代後半からは海外製のスマートフォンの輸入が急増している。 その一方で、より構造的な問題を原因とする見方がある。西村(2014)は、20世紀後半以降の世界のICT産業に起こった構造変化として、4つの圧力を挙げている。すなわち、@半導体集積回路は、ムーアの法則による価格低下圧力をもたらす、Aプログラム内蔵方式は、付加価値の源泉をソフトウェアに移す、Bプログラム内蔵方式では処理の対象も手続もデジタル化される、Cインターネットは、企業間取引コストを下げ、分業を促進するとしている。そして、「電子産業の衰退は日本特有の現象」71とした上で、「4つの圧力に日本企業は対応せず、伝統的垂直統合と自前主義に立てこもった。これこそが衰退原因の本質」と指摘している。 第2章第1節で述べるとおり、デジタル経済の進化によるコスト構造の変革等に伴い、製品のモジュール化とグローバルな分業が進展している72。ICT関連製造業においても、製品の企画・設計のみを行うファブレス企業と、機器の受託生産を行うEMS(Electronics Manufactureing Service)73の分化が挙げられ、AppleのiPhoneはこの構図を有効活用している例とされている。 また、ICT産業全体としてみれば、インターネットの発展・普及に伴い、スタートアップ企業から始まったICT企業がデジタル・プラットフォーマーのような形で世界市場を席巻する動きが米国を中心に出てくることとなった。我が国においては、このような企業が登場しなかったことも、平成時代の振り返りに当たって重要な点であろう。スタートアップ企業を巡るエコシステムの問題については、第2章第3節で述べる。 図表1-1-2-12 情報の産業化に関連する主な出来事 (出典)総務省(2019)「平成の情報化に関する調査研究」 61 篠ア彰彦(2014)『インフォメーション・エコノミー』P.64においては、「情報の産業化」とは、「産業の情報化」に伴って情報関連のサービス提供が独立した産業を形成し発展していくこととしている。本項では主に情報の産業化に関しては、通信業、通信関連建設業、情報通信関連製造業及び情報サービス業の供給する情報通信関連の財・サービスに着目している。 62 同社の社名の由来は、富士電機製造(株)の社名の由来である、古河の「f」とドイツのシーメンスの「S」を組み合わせたものである。 63 戸田 巖・松永 俊雄(2003)「電電公社のコンピュータ開発」IPSJ Magazine Vol.44 No.6, P631-639 ( http://museum.ipsj.or.jp/guide/pdf/magazine/IPSJ-MGN440612.pdf ) 64 例えば、フィーチャーフォン時代の携帯電話端末の開発においても、通信事業者が主導する形が見られた。 65 武田晴人(2011)『日本の情報通信産業史』P.45 66 1974年に、日本電気(株)情報処理データセンター本部から分離独立して、日本電気情報サービス(株)(後のNECネクサソリューションズ)が設立された。 67 武田(2011)は、「地銀オンライン・システム開発において、電電公社は、利用者である地銀協と話し合い、仕様を決め、富士通に発注し、そして富士通は、電電公社と富士通の技術者によってプロジェクトを編成し、その仕様にしたがってシステムを開発していた。(略)電電公社が、ユーザーから要求を聞き取り、それを設計仕様書にまとめ、その仕様書に沿って下請け企業が作業を進める。もし問題が生じた場合には、設計仕様書に立ち戻り解決するというものであった。その手法は、現代日本のソフトウェア産業におけるNTTデータ、富士通、日立、あるいは日本電気などを頂点とした下請構造を想起させる。(略)本章において指摘したい点は、電電公社との取引から、日本電気および富士通などがその手法を学習し、それをシステム開発に適応して展開したのではないだろうか、ということである。その結果、日本のソフトウェア産業の下請構造を形成したのではないか、ということである。しかしながら、この点についても指摘するに留め、今後の研究課題としたい。」としている。 68 我が国の情報システム開発を巡る課題については、例えば経済産業省(2018)「DXレポート」において詳しく指摘している。 69 具体的には、「民生用電子機器」、「産業用電子機器」、「電子部品・デバイス」の生産額等を集計している。 70 例えば、北俊一(2006)「携帯電話産業の国際競争力強化への道筋−ケータイ大国日本が創造する世界羨望のICT生態系」がある。 71 ただし、通信機器製造業については、海外においても、米国AT&Tの機器製造部門に源流を持つルーセント・テクノロジーが2006年にフランスのアルカテルと合併した後、2016年にはフィンランドのノキアに買収されるといった動きがある。 72 この背景として、ボールドウィン(2018)は、「大いなる収斂」として、19世紀初め以降に貿易コストが下がり工業化が進んだ一部の先進国のGDPのシェアが高まったが、1990年を境に潮目が変わり新興国のGDPのシェアが高まったことに触れつつ、グローバル化を移動のコストに着目して分析している。これによると、モノの移動コスト、アイデアの移動コスト、ヒトの移動コストの3種の移動コストがあり、蒸気船と鉄道が登場して長距離貿易のコスト(モノの移動コスト)が下がると生産と消費が切り離されるようになり(第一のアンバンドリング)、1990年以降ICTが革命的に進歩してアイデアの移動コストが下がると複雑な生産プロセスを国際的に分散させてもそれを調整することが可能になった(第二のアンバンドリング)としている。 73 代表的なEMS企業として、台湾の鴻海(ホンハイ)が挙げられる。 74 日本電気株式会社(2000)『NECの100年 情報通信の歩みとともに』 75 協和エクシオ(2004)『協和エクシオ50年史』 76 協和エクシオ(2004)『協和エクシオ50年史』