(4)デジタル経済における豊かさとは何か GDPはデジタル経済における豊かさを評価する指標として有効か デジタル経済が進化する中で、豊かさをどのように捉えていくべきであろうか。無料で利用できるサービスが拡大・増加していくことは、たとえGDPには反映されなかったとしても、可処分所得の増加につながることになる。また、これらサービスの利用による様々な体験や人とのつながりは、人々を豊かにするだろう。 まず、前述のシェアリングエコノミーの把握のように、国民経済計算の捕捉技術を向上させることにより、デジタル経済に即したGDP統計へと改善していくという考え方がある。現在、様々な国際機関等において、この点の議論・検討が行われている。 他方、GDP自体がデジタル経済の中で豊かさを評価する指標としてもはや有効とはいえないのではないかという見方もある23。この点については、GDPは当初からあくまでも生産量に関する指標であり、人々の豊かさを評価するための指標としてGDP統計が作成されているのではないという点に留意すべきであろう。 GDPの源流は、1930年代の大恐慌時代にある。当時の極めて厳しい経済状況の中で、米国政府は国の経済状況をより正確に把握することで、不況から抜け出すための方策を見つけ出す必要に迫られていた。このような政府からの依頼を受けて、後にノーベル経済学賞を受賞する経済学者のサイモン・クズネッツは、国民所得計算の推計を実現した24。クズネッツは同時に、この指標には政府の支出である軍事費等が含まれており、人々の幸福の指標としては不備であることを指摘していた25。この点が、デジタル経済の進化の中で、より顕在化しているとみることができるだろう。 それでは、GDPではない指標として、どのようなものがあるだろうか。その一つに、消費者余剰がある。これは、消費者が支払っても良いと考える価格と実際に支払う価格との差を意味する。例えば、無料サービスであっても、消費者が1万円支払っても良いと考えるのであれば、1万円の消費者余剰が発生することとなる。デジタル経済の中でのGDPに関する論点の多くが、GDPが消費者にとっての価値を十分に反映していない可能性に基づくことによることからすれば、このアプローチは適切にみえる。しかしながら、消費者余剰については、現時点で確立された計測方法があるとはいえず、政策立案等の前提とする指標にはなり得ていない状況である。 このような中で、GDPという単一の指標により経済を見るのではなく、様々な指標を総合的に見ることが重要という考え方もある26。デジタル経済において、何によって豊かさを評価するのかという点についての議論は、当面続いていくものと考えられる。 デジタル経済の中で、人は何を豊かさと感じるのか 伝統的な経済学の原理では、利潤を最大化するのは、価格が限界費用と等しくなるような生産量の場合であるが、デジタル経済においては、限界費用がゼロに近付いていくことにより、資本主義自体が成り立つ基盤が損なわれているのではないかという考え方が存在する。仮にあらゆるものの限界費用がゼロとなれば、価格もゼロになることとなり、企業が利潤を追求するという資本主義の前提が成り立たないというものである。複製・伝達の限界費用がほぼゼロとなっているデジタルコンテンツを巡る知的財産権は、早い段階からこの試練に立たされてきたといえる。そして、代わりに他者と結びついてシェアしたいという欲求が原動力となり、協働しながら運営する「協働型コモンズ」が市場資本主義に代わりつつあるという見方である27。このような見方は極論であるかもしれないが、少なくとも、産業革命以降確立されてきた資本主義の様々な原理がデジタル経済の進化の中で大きく変化している可能性はある。 実際に、人々の行動原理が多くの金銭を得ることを目標とするものではなくなってきているという見方がある。例えば、SNS上に様々な情報をアップし、「いいね!」をもらおうとすることは、多くの人々の行動を動機付けていると考えられる。また、GitHubのようなオープンソースのコミュニティでの活動は、良い評判を得ることが原動力の一つになっているだろう28。人々は、より多くのつながりと、その中での評価を豊かさに大きく関係するものと感じてきているのかもしれない。 また、人と企業との結びつきがゆるやかになることで、自らの積極的な選択により働くことや社会に参加することが、より大きな生きがいとなることも考えられる。第1章第3節で述べたとおり、AIによる雇用喪失の可能性を巡る議論があるものの、柔軟な働き方の中で、仕事を失うのではなく、余暇の創出となり、余暇を巡る活動に関連して新たな産業や雇用が産み出されるといった好循環が生じることも考えられる。 デジタル経済の進化による資本主義の変化が、人々が豊かさと感じること自体も変えていく可能性があることに引き続き留意する必要がある。 23 例として、ブリニョルフソン(2015)『ザ・セカンド・マシン・エイジ』や森健他(2018)『デジタル資本主義』がある。 24 ダイアン・コイル(2015)『GDP〈小さくて大きな数字〉の歴史』 25 エリック・ブリニョルフソン、アンドリュー・マカフィー(2015)『ザ・セカンド・マシン・エイジ』 26 例えば、経済同友会は、GDP統計という一つの指標に過度に依存するのではなく、様々な統計を複眼的に分析することがより必要になるとして、2016年9月に「GNIプラス」の政策提言を行っている。(https://www.doyukai.or.jp/policyproposals/articles/2016/pdf/160928a.pdf) また、『GDP〈小さくて大きな数字〉の歴史』の著者のダイアン・コイルは、複数の指標を一覧にする「ダッシュボード」のメリットに言及している。 27 ジェレミー・リフキン(2015)『限界費用ゼロ社会』 28 もっとも、このような活動は、人と企業の関係にゆらぎが生じている中で、転職活動を念頭に置いた能力向上や売り込みという側面があるとの見方もある。