究極の自己満足を求めて

漆畑 有浩(平成10年入省)
情報通信政策局総合政策課企画係長
情報通信政策全体の取りまとめ、企画立案


I1  社会を「よく」する
  動物と人間の違いを考えると、大きな違いの一つは、幸か不幸か人間は「自己の存在」について考え「存在意義」について考える事ではないかと思います。
  それでは、「自己の存在意義」とは?と考えると、私は、自分が生まれた事により、皆が少しでも幸せになれば、それは自分が存在した事の意義と言えるのではないかと思います。
  以下では、人々を幸せにするかについての一つの方法としての、役人が社会を「よく」するという事について、少し考えてみたいと思います。

II2  役人が社会をよくすることの是非
  役人が「社会をよくする」と言った場合、さっそく難しい問題が立ちはだかります。如何なる意味で「よい」のか?誰にとって「よい」のか?自分にとって「よい」のか?役人にとって「よい」のか?独善じゃないのか?そもそも役人が社会をよくすることが良いことなのか?果たしてよく出来るのか?

○   「民主主義+自己責任」に対して
  この問題に対し、解決するのは「民主主義+自己責任」だと、逃げ込んでしまう人もいるでしょう。多数決で皆が良いとする事が「よい」こと!制度として選挙があり、皆が選んだ議員が、議会の場で決めた事が正しいんだ!役人はただ決められた事を忠実に実行するだけ!結果は、選んだ人の自己責任でしょ、と。

  しかしながら、大多数の人には、専門性もなく、そもそも時間もない。人々にとっては「電子政府のあり方云々」という話よりも、明日の飲み会の方がきっと大切でしょう。さらに言えば、民主主義の「民」には未来の世代が入ってこない。他にも、利害の明確な声の大きい少数の意見が通り易くなってしまうという問題、少数派の取り扱いの問題、選挙制度自体の問題(短期間の選挙、ムード、時的拘束性、1票の格差等々)などもあり、全ての責任を選挙に還元してしまうのは、実際問題として無茶なのではないでしょうか!?

○  「市場至上主義+自己責任」に対して
  また何が「よい」かは、競争原理に基づき、市場によって決定されるべきだ!全ての価値判断は、自由な競争によりマーケットによって決められるのだ!と、市場に全てを委ねてしまう人もいるでしょう。 

  昨今の役人の不祥事、旧来型の日本経済の不調によって、多少振り子が逆に振れ過ぎている感があります。善悪二元論的な論調が目立ち、全てを解決する究極のドグマを求めて飛びつこうというのは、調子の悪い時特有の現象なのかも知れませんが、この市場至上主義には、独占、フリーライド等のよく言われる「市場の失敗」、さらに標準の問題などに加え、次のような大きな問題があるように思えます。

・  人間の合理的な判断
  まず、個人の合理的な判断への疑問です。
  例えば、広い土地があり、需要と供給に基づき人々が自由に道路を引いて良いという事を考えてみます。皆、好き放題に道路を作り、家を建てる事でしょう。色々な所で様々な商売をするでしょうし、場当たり的な袋小路や安いその場しのぎの細い道等により、無秩序に街が出来上がってしまうでしょう。そのような所では、問題が起こる事は火を見るより明らかで、極め付けに大火事が起こり、消防車が入れず、全員が焼け死ぬような事も起るかも知れません。その後で「どうして国はこんな無茶苦茶な都市計画を許したんだ?」と、人々は怒るかも知れません。市場至上主義の国はそれに対し「自己責任でしょ!」とだけ言えば良いのでしょうが、本当にそれで良いのでしょうか?
  我々の判断は、どうしても短期的な日々の日常の利益に感心が集まりがちです。

・  マッチポンプ(「欲望→供給」ではなく、「供給→欲望」へ)
  さらに、特に現代において顕著な問題は、社会がマッチポンプ化している事です!資本主義自体、欲望を原点に発展してきたのでしょうが、フロンティアが少なくなる中、人間の自然な欲求があり供給があるのではなく、供給側が彼らに都合の良い刹那的な欲望、即ち「需要」を無理やり作り出す事が頻繁に行なわれ、少しばかり不「自然」な社会になってきているような気がします。人間が主体ではなく、経済などと言う良く分からない抽象的な概念がのさばり、その概念の為に人間の活動あるというような主客の逆転が加速しているように感じられます。
  このような不自然さは、外から冷静になって我々の生活を見れば明らかでしょう。皆で同じようなスーツと窮屈なネクタイを着て滑稽な格好をし、行列を作らせるラーメン屋でおいしいものを食べた気になり、ヤラセの番組に大笑いし、買物に行ってはマイナーチェンジに踊らされ、なんの役に立つのか分からない資料を一生懸命作って、その徒労感に仕事をした気になりと、虚構の上に成り立った不自然な生活が蔓延してきている気がします。

  このように、確かに市場を利用する事は重要なのでしょうが、善悪を判断する事を放棄し、全てを市場に任せてしまって本当に良いのでしょうか?

○  国民のために
  日本にいる以上、憲法の価値観という大きな枠組、そして民主主義、市場主義の枠を大前提とする必要があるのでしょうが、例え人から価値観の押し付けと言われようとも、また、思い上がりと言われようとも、国民のためになるという信念のもと「社会にとってよい」と思う事を実現する責務が、やはり役人にはあるのではないかと思います。

III3 人間としての究極の自己満足
  社会をよくするということは大変難しいことなのでしょうし、突き詰めれば所詮自己満足なのでしょうが、そのために努力し、それにより、人々が少しでも幸せになれば、自分が存在した意義というのも少しはあったという事になるのではないでしょうか。
  日々に流され、生きているから生きる、生きるために生きる、という何も考えない動物人生ではなく、もちろん動物である事は忘れてはならないのでしょうが、少しは人間らしく、自己の存在する意義を考えながら、自分が信念を持って国民のために「よい」と思う事に没頭し、人生の最期に自分が本当に満足できれる心境に到達できれば、それは存在意義正について考えてしまう人間としての究極の自己満足であり、幸せな事ではないかと思います。
  考えすぎると、往々にして、ニヒリズムの世界に迷い込みそうになります。しかし矛盾するようですが、「所詮、自己満足、独善にすぎない」というさめた心を持ち合わせながら、情熱を持って世の中が「よく」なるよう頑張りたいと私自身思っています。

IV4 情報通信政策
  さて、別に業務にまじめに取組んでいなことから業務と関係ないことを長々と書いてきたわけではありませんので多少なりとも業務と関係ある事を最後に少し。
  ドイツ留学から帰ってきた翌々日、時差ぼけの中、さっそく辞令をもらい、私の情報通信政策局総合政策課での生活が始まったわけですが、辞書を片手に難解なドイツ語と格闘した日々から開放されたと思ったら、今度は、IT用語集を片手に次から次に飛び交う情報通信のマニアックな世界と格闘する日々が始まりました。出向者でなおかつまるっきり文系の私は、日々、高村さん(http://www.soumu.go.jp/joho_tsusin/wakate/takamura.html)には容赦の無くコテンパに詰め倒され(笑)、安藤さん( http://www.soumu.go.jp/joho_tsusin/wakate/ando_m.html)の高笑いを背中に聞きながら(笑)、竹内さん( http://www.soumu.go.jp/joho_tsusin/wakate/0309_01.html)には、作業の期限を待ってもらい、なんとか業務をこなしてきました(笑)。妥協を許さない厳しい人達と楽しく充実した1年半を送る事ができたと思っています。

  情報通信の世界との悪戦苦闘もあと半年ほど続きそうですが、人間らしく、日々悔いの無いよう生きていきたいと思っています。



 


漆畑 有浩・執筆者近影
執筆者近影
漆畑 有浩・執務風景
執務風景
漆畑 有浩・職場の風景
職場の風景