政策評価フォーラムの概要(名古屋会場)
![]()
【ポイント】
【ポイント】
(高橋) 政策評価法施行後3年が経過した現在、評価制度は効果的に機能しているか、あるいは今後、国民にとってよりよい仕組みにしていくためにはどうすべきか等について議論を深めていきたい。 まず、パネルディスカッションからご参加いただく小出さんと水谷さんに政策評価に関する認識及びかかわり合い等について、発言をお願いしたい。 (小出) 新聞記者の立場から、日々の報道を取り扱う上で、紙面づくりとか取材活動を通じての政策の評価というのは当然あった。メディアの立場でいうと、政策が決定される情報回路と世論が形成されていく情報回路とが合致していれば問題はないが、往々にして別になる。政策決定の情報回路は、現在にかかわらず将来を見据えて、政策決定されていくが、世論というのは論理というよりむしろ社会心理学的要素を多く含んで形成されていく情報回路になる。両者の乖離又はぶつかり合いというのが紙面上では問題になるし、世論の情報回路から見た評価がこれまでの一般的なメディアの立場の政策評価であった。しかし、二人の先生の講演から、もう一つの、政策決定をする情報回路の側からのみずからの反省とか、もう一つ論理が入った、あるいは別の価値観からの評価というものが既に組み入れられていると聞き、非常に結構な現象で、私も大賛成。 ただ、これは基本的に英米からの思想、連合軍の思想だと思う。近代戦では常に連合軍が勝っているが、連合軍というのは、寄り合い所帯で一番効率が悪いにもかかわらず、常に勝っているというのはなぜかという大きなテーマがある。英国国防部が発行した連合軍の指令部内の模様を克明に書いた「太平洋戦争」という本によると、ある作戦で、まずアメリカがイニシアチブをとって作戦をやり、どうしても現実と合わなくなってくると、イギリス軍参謀が米軍の参謀に拳銃を突きつけて、作戦が結局変わる。どんな作戦も現実とのずれは必ずあり、最終的にストライクになるというのが連合軍の強みとの感を受けた。日本軍やドイツ軍は、作戦が決定されたら不退転の決意で遂行に当たって玉砕しているが、英・米というのは多民族国家で、もともと日常生活が連合軍だから、非常にフレキシビリティーというか、柔軟性が高い。取り入れるべきところは若干は取り入れて、だめだったら変えるという、そういう作戦計画が大切。政策評価制度を根づかせるには、神様ならぬ欠点だらけの人間同士でこの世が構成されているという精神風土がまず必要。日本の場合、「官は絶対で過たず」という明治以来の伝統があるが、官だって民と同じ欠点だらけの人間だというお互いの認識を持つことが評価制度を実効あらしめる上で最も重要。 (水谷) この評価制度ができる前には、行政監察局があって、行政というものを本当にきちんとやっているだろうかということを監視、監督していた。そこに行政監察懇話会があり私は、四、五年ぐらい出席して見てきた。国は結構きちんと監察していた。しかし、うまくいっているかというと、どうも不満足で、もう少ししっかりと効果を評価すべきであるということで、今日の制度になっているかと思う。 当時からいろんな問題が上程され、一生懸命行政を監察したが、指摘すると相手は抵抗するのが当たり前で、すべての評価には基準があるが、この基準にはいろんな尺度があり、かみ合わないということが多い。かみ合わせるために議論が細かくなり、結果的に見ると、細かい議論の末、ある程度の目的は達成するが、全体で見ると何かおかしいということになる。もっと大きな結果についてどうあるべきかという観点の方がはるかに重要ではないかという感じを持っている。これは現在における評価制度についても全く同じ。 国民への説明責任について、国民は微に入り細にわたった説明責任を求めるが、説明できるかと言うとできない。大きな問題について焦点を当てるのが大切。ただし、小さなことは無視していいのかということはあり、判然と分けられるものは分け、本当に評価すべき大きい問題を取り上げ、一方で小さな問題については監査も必要である。 (高橋) 丹羽さん、稲沢さん、先ほどの講演内容に補足する点があればお願いしたい。 (丹羽) 国民に対する説明責任の問題に関連して、メディアは順調に行っていることは余り報道しない。行政の問題でも企業についても同じ。ニュースというのは大体そのような宿命を持っており、一般の国民は、官庁や企業はみんな悪いことばっかりやっているというイメージを持ってしまう。それは、世間の常識というのが四、五十年前に比べ非常に倫理感の強いものに変わってきており、以前は何ともなかったことが今や大変な問題につながる。 以上のことから、国民に対する説明責任は、本当の本来の活動をみずからが絶えず国民に (稲沢) 総務省の実施している政策評価は、3年間で1つずつバージョンアップし、特に、縦割りの中で省庁横断的な政策の評価に取り組むというのは、私の行政経験からしても非常に難しいが、果敢に挑戦して、実績を上げている。また、事前評価、事後評価とも、ほとんど同じぐらい分量をこなしている。先ほど小出さんのお話で「過ってはいけない官」とあったが、「この評価では少し甘い」という苦言を呈さないと、実行肯定に陥りがちで、予算要求への反映状況等を見るとかなり労苦がしのばれる数字が出ている。 水谷さんから「評価では大きなことをやる」と、小出さんから「世論形成」というキーワードをいただいたが、世論形成という点から、今、一番国民が政策を意識するのは、やはり選挙のときであり、それがいかに実行されたかをしっかり評価して、わかりやすく説明することが政策評価の役割だと思う。つまり、選挙から始まって次の選挙が終わる4年間ないし2年間といった大きなサイクルの中での政策評価という位置づけ、これが国民の意識を政策評価に向ける一つのポイントになるのではという所感。 (高橋) 冒頭に、総務省の評価はバージョンアップしているという話があったが、評価法は1)国民本位で質の高い行政の実現、2)成果重視の行政への転換、3)国民に対する説明責任の徹底を目的としている。施行から3年以上経過し、当初の目的が十分達成されていないとすれば何が問題なのか、そうした課題について議論をお願いしたい。 (丹羽) 数値化にしても予算反映についても、まだまだ改善の余地がある。スピードを上げたいが、総合性、統一性というものに相当配慮しないと、1つの省庁だけやり玉に上げるわけにいかない。実際の評価の段階で我々がさらに気をつけるべきことは、コストを無視してもいいという話ではない。したがって今、順調に数値化が行われ、予算化されているということから、あと1年、2年後はそれなりの効果がもっとはっきりした形で出てくる。政策評価の基本方針は決して間違っていない。今の方向で、統一性、総合性、あるいは客観性という3つの視点を持って活動を続けていけば、必ずかなりの成果を上げることができる。 (高橋) マスコミとしてあえて苦言を呈す立場の小出さんは、成果をどのように見ているか。 (小出) この方向は、正しいと思う。ぜひ定着させる必要がある。イギリスの場合は、選挙独裁主義みたいな国で、すべてが選挙で決まる。例えば、予算案を大蔵大臣が発表したその日の正午からたばこが値上がるとか、発表と同時に発効する。議院内閣制だから、多数与党の大蔵大臣の原案は発表と同時に発効する。だから、有権者は選挙での政策で直接自分の生活にかかわるものは一生懸命読む。そのような風土から、マニフェストは非常にわかりやすい。選挙で自分が好まない政策を掲げる政党が政権に就いたら、次の選挙まで我慢するしかない。最近の日本の選挙を見ていると、徐々にイギリス型に近づきつつある感じ。 日本では、予算は、これまでは大蔵原案が出て、復活折衝をやって、政府原案が出て、国会議決がかなり先で、すぐ発効しない。これでは予算化された政策に対する関心が途中でぼやけるとともに、何度も新聞やテレビで報道されるため、わけがわからなくなることの繰り返し。 マニフェスト選挙が導入されてしばらく経ち、なかなか定着していないが、方向として決して悪くないし、選挙風土の方向と、政策評価の枠組みが合致すると非常に効果のあるものになるのではないか。 (高橋) 稲沢さんは、四日市市の行財政改革推進委員の他 (稲沢) 政策評価という言葉が行政評価という言葉に代えて、行政の世界に浸透してきたのは、 名古屋市や四日市市の例を見ると、予算への反映という形で、できる限り部局に予算配分権限を任せることで、自己の評価内容を予算要求、編成にまで反映させるところに進みつつあるのが現状。同じ政府、地方政府という立場からすれば、その政策決定、財源配分の原理に似通ったところはあるので、財務省の査定権限がどこまで守られるべきなのかということを考える時期に来ている。また自治体の立場からすると、三位一体改革を進めていく一方で、やはり中央省庁が直接執行している事業というよりも、補助金などの移転財源で多く執行している事業が多い。したがって自治体の政策評価制度と国の政策評価制度と結節する時期が来るのではないか。これから国の政策評価制度が進化を続けていく中で、そういった結節点が見出されれば、三位一体改革の成就と重ね合わせるべきと感じる次第。 (高橋) 政策評価の予算への反映の問題、そして、国と地方との関係の話だったが、水谷さん、これに関連してご意見を。 (水谷) 自治体も国もそうだが、政策の評価は、自分のやっていたことが果たして目的に沿っているか、どの程度効果を上げているか、それぞれが反省しながらやっているはずで、やっていないとしたらそれが問題。もしこれを一部門で、行政評価局でやろうとすると、これは莫大なエネルギーがかかり、実際にはなかなかその目的に到達しない。 そう考えると、細かくなり過ぎるのは問題。また、予算査定についても、細目にわたって査定すれば大項目について抜けてしまい大問題である。細目を詰めても詰め切れないので、全体では極めておかしいということになる。 先ほどの話で世代間の利益の評価という問題があったが、このことを本当に考えるべき。しかし、国民にそれを提示しても、国民の反応はない、あるいは後のことは余り考えなくて、自分たちの今の世代だけを優先しがちになる。そこで大きな枠を設けるべき。この枠について、一体借金はどうするのか。国の施策で、税金と借金によって財源が決まるとの話だったが、借金で財源を賄おうとするからおかしい。返そうとしない借金は、増大するだけ。借金は返済の義務をつけて国民に提示する必要があるが、そういう大きなところについて、一体だれが評価し、だれが本当に将来の国民のためを考えているか。そういう大きなことについて本当に焦点を当ててやっていかないと、国の将来がおかしくなる。 (丹羽) 水谷さんの指摘も、もっともだと思うが、政策評価が始まった3年前はまだまだ定着しなかったが、最近は非常に各府省庁の中で政策評価委員会の存在が重みを持ってきている。経済財政諮問会議とか小泉首相の指示とかが官僚にもかなり浸透。この各府省庁の政策評価の報告を総務省の行政評価局が受け、さらに統一性、総合性という横串を刺して各府省庁公平に評価して、各府省庁で着実に認識が広まりつつある。 もう一つの、財政改革の問題、行政の改革をどうするかという問題は、政策評価の現状とは別に考えるべき。政府税調を中心に議論されているが、将来のプライマリーバランスをどうするか、借金を一体どうするのかという議論は、税の問題と不即不離であり、増税の動きは様々な提言の形で今後出てくるだろうと思う。 (高橋) 国の政策評価について、会場の参加者にもより理解してもらうために、総務省が実施した統一性、総合性確保のための評価の実例や、各府省がみずからの政策について評価した事例を紹介し、各パネリストに感想・所感を述べていただきたい。 (以下、各府省による政策評価の実施例として未着手、未了の公共事業を対象としたもの、防衛庁の事前評価の例を、次に、総務省が複数の府省にまたがる政策について、政府全体として評価を行った「リゾート地域の開発整備」の例及び「湖沼の水環境の保全」の例について説明。) → パンフレット5ページ参照(PDF) (小出) 非常にわかりやすい事例。ただ、公共事業の中止はバブル期に計画されて、バブルがはじけてどうしようもなくなったというのがかなりある。本当にその政策を真摯に論議したのか疑問。バブルとその崩壊に対する国の責任が一体どこにどうなったのかというのは、わからないのが実態だが、何となく行政に対する不信みたいなものとして沈殿していることは事実。それだけに、これまではよくわからなかったが、これからはよくわかるようにするという、この政策評価というのはものすごく大事。 (丹羽) 全く指摘のとおりで、バブルのときにやった公共事業、それから、リゾート地域の開発整備、これは明らかに政策の失敗、それから、税金の相当の使用があると思慮。 湖沼の水環境の保全については、お金は使っているが、全然水質が改善されていないのではないかということから、政策評価委員会でかなりの議論を行った。そのほかにも昨年、少子化対策に対する政策評価を実施し、昨年 (高橋) 不断の見直しがされていくということ。水谷さんから何か。 (水谷) これは各省庁が自分で考えるべきこと。実際に考えていると思うが、是正しない大きな理由は過去のしがらみ。おかしいと思いながらやっているのを各省庁が是正した場合には大いに褒めるべき。 イギリスの例で、もう赤字国債をやめるということがあったが、大きな決断である。一方、日本では例外がずっと続いている。それは国民が認めているから。赤字国債出した方がプラスであり、返済しないから。もしすぐに返済する制度であれば、すぐ痛みがわかるので国民は認めない。国民にとって痛みがわかるような制度にすべき。 今は借金して、それを (高橋) ここで、国民本位で質の高い行政、国民的視点に立った成果重視の行政の転換など、政策評価制度をよりよい仕組みとするにはどうしていくべきかについて、ご意見をいただきたい。 (稲沢) 先ほど、国民の目が政策に向く時点とその政策を評価する時点がうまく合ってくればと申し上げたが、もう一つ、国民の目が向く時点をとらえるとすると、恐らくは官と民との障壁を感じた時点、1つは規制、1つは競争関係に入ったときだろう。規制に入るとき、競争関係に入るとき、ここに評価制度が存在していないと、制度そのものの信頼性が失われる。政策評価はこれからの行政改革に絶対必要なものだということを中央政府、地方政府すべてが理解することが必要。さらに地方自治体の立場から、国の補助金を受けているがゆえに、やめれば補助金返還という法律のしがらみがあるが、国からの補助事業で、「これ以上続けると国民の税金をむだ遣いすることになるから、過去の補助金を返さなくていいから止めたらどうか」ということで出せるものがあると思うので、政策評価にこのようなストップをかける動きが続けられるような仕組みをセットすることを提案。 (高橋) 今の点について、あるいはほかの視点からいかがか。小出さんお願いします。 (小出) 取材の直感みたいなもので、地方分権を本当は腹の中で面倒くさいなと思っているのが意外と地方自治体のお役人。例えば橋を造るとか道路を造るときに、国の補助基準が金科玉条になる。これが地方分権になると、政策立案は当然地方がやり、当然責任が伴う。政策評価の対象になり、まともに風当たりが強い、面倒くさいなという本音の部分があるような気がする。 政策評価は、国の政策の場合、まだ国民との距離が若干あるものの、地方自治体に下りた政策と国民とは非常に密着するので、住民の考え方が直接反映しやすくなる。 (水谷) どんな悪い地方財政よりも国の方が数段悪く、国が地方に補助金を出す、交付税を出すということは大体おかしい。国は、地方に対しても、民間に対しても「もう一切そんな余裕はない」とはっきりと言うべき。ところが、それを言うと信用不安が起こるので隠している。 しかし、国民を欺瞞するのも程度があり、実態をよく国民に知らせるべき。すると、国民としても「公務員、雇っておけないのか。給料、もう払えないのか」と納得したら、公務員の削減につながるし、地方も自分で行政改革すると思う。 (丹羽) 水谷さんの話は正論。ただし、国民のいろんな面で利害関係が多い問題だから、段階を追って進める必要。三位一体の改革は、中央政府の役割は一体何だ、地方自治体の役割は何だということを議論した上で、税源移譲にしろ、交付金にしろ、補助金にしろ考えないといけない。市場化テストや民営化は、何もかも全部民営化とか地方に移すというのが趣旨ではない。地方でやるべきことを国がやっていることもあり、その議論が先で、それから、税源の移譲等の問題がついてくる。 政策評価をこれからよりよいものにするには、今までの評価制度の手法をさらにグレードアップしていく必要。極めて重要なことは、政策をやる上において各府省庁の基準が合っていないこと。予算書、決算書のいろんな項目を勝手に作っているので、そこからやっていく必要。もう一つは、各府省における政策評価の重点化、効率化を図りメリハリをつける。全部の政策を評価するのは限界。規制の事前評価の義務づけについても評価手法の開発を進めていく必要。課題はいっぱい残っているが、皆さんの意見を参考にしながら、一層効率的な評価方法を確立していく必要。高橋さんが言われた国民本位、成果重視、説明責任、この3つを基本にして、グレードアップを図っていく必要。 (高橋) 会場の参加者からの質問にもお答えいただきたい。まず、丹羽さんへ「大企業の経営者としてさまざまな経営改革に取り組んでこられた立場から、現在の行政のあり方についてどう改革していくべきと考えるか」ご意見を伺いたいとの質問。 (丹羽) 企業の経営者としてこれからの行政改革をどうするんだということについて、一番根幹は、行政の効率的な仕組みをどうつくるかということ。まず、中央政府の役割を議論。道州制の採用、首相の公選制、あるいは政治と行政のかかわり、あるいは公務員経費の5%カット、等等さまざまな議論が出ているが、今までずっとパッチワーク的な改革で極めて複雑でわかりにくい。したがって、今後1年ぐらいかけて国の行政を根本的に見直す、特に財政の改革についてもパッチワーク的な税体系の問題も含めて議論をしていく必要。改革は、長期的に段階を追う必要。これからの改革すべき道筋はきちっとしたものを提示しようと、今、やっているところで、これが民間の経営者としての今の私の考え。 (高橋) 稲沢さんへ、「政策を為政者が政治を行う上での戦略と考えたとき、為政者が定期的に選挙という手段で、納税者の審判を仰がなければならない以上、政策を評価することは不可能ではないか」という質問。 (稲沢) 政策を示す時点がいつかということが一つある。突発的なことがない限り4年という期間があり、示した政策をどこまで達成するかは、やはり選挙の形で見る。そのとき、住民選挙の時に情報提供することが大切。もう一つは、ローカルマニフェストと政策評価をある程度連動させる形が自治体では必要。さらに、もう一方の住民の代表である議会からの政策評価ということも大切な部分。 (高橋) 最後に、政策評価をよりよいものにするためには何が必要かについて、各パネリストからまとめを。 (小出) イギリスでの数値化するということについて、ある大学の学外評議会で、大学の先生の勤務評定を論文の数で評価するという学長先生のポリシーが問題となり、教授会が「論文というのは量じゃなくて質である」と主張したことに関連し、新聞社の中で見ている限り、すごくいい記事を書く記者は必ず記事の数も多い。ほとんど書かずに、ときどき実にいい記事を書く記者はほぼ皆無。量と質は比例する。政策でもある程度数値化した評価は可能。だめならやさしい言葉で表現できる判断基準というのをぜひ進めるべき。 (水谷) 評価をざっくりやるべき。反論があっても、ざっくり聞き流すぐらいの気持ちでやるべき。それを見るのは国民。自信を持ってやるべき。 (稲沢) 評価を担当するのは各府省庁の職員であり、自治体の実務を担当している職員。評価によって、みずからの仕事が変化し、予算等も大分これまでよりもゆったりと考えられるようになってきたという、何らかのフィードバックが仕組みの中に入ることが必要。次の段階の話かと思うが。 (丹羽) 政府や地方自治体のすべての政策にかかわることだが、やはり国民の納得、理解、支援を得られないと、本当の政策の実行は難しい。その意味から、政策評価について、もっと面白く、分かり易く、具体的に国民に説明するという努力を続けないといけない。
(注) この概要は、事務局(総務省行政評価局政策評価官室)の責任において取りまとめたものであり、事後修正の可能性があります。 |