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ガジェット(情報通信機器)の思い出、今、未来

関連アンケート(アンケート1:あなたの印象や思い出に残っている情報通信機器は何ですか?)

関連アンケート(アンケート2:今、あなたが「これを使っていてよかった!」と思っている情報通信機器は何ですか?)

関連アンケート(アンケート3:30年後までに実現してほしいと思う情報通信機器は何ですか?)

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2月17日 【開始の挨拶、テーマの提示、意見募集開始】
今年の全体テーマは、「ICTは私たちの暮らしや仕事をどのように変えたか」です。1985年の「通信自由化(注1)」から今年で30年になります。この間にわが国の情報通信は劇的な発展を遂げ、私たちの生活を大きく変化させました。そこで、この30年間を振り返りつつ、これまでの皆さんの暮らしを彩ってきた情報通信の思い出や、この先の情報通信に対する期待等について、あれこれコメントをいただければと思います。
昨年同様、Facebookでのご意見募集のほか、Twitterでも皆様からのリプライ(@ict_hakushoでの返信)を受け付けます。
また、昨年に引き続き、シニアネットユーザーのコミュニティサイトである「メロウ倶楽部」にご協力いただき、メロウ倶楽部の掲示板でもご意見募集を行います。メロウ倶楽部でのご意見募集は、3月からスタートする予定です。メロウ倶楽部会員以外の方も書き込みできますので、このFacebookページと合わせて、ぜひご参加ください。
さらに毎回のご意見募集と並行して、簡単な公開アンケートも実施します。どうぞ奮ってご参加ください。

注1:1985年の通信自由化では、それまで独占的に国内の電話サービスを提供していた電電公社を分割・民営化し、国内・国際電話事業に競争を導入しました。また、通信機器の製造・販売が自由化され、多くの機器メーカーが参入して、多様な通信機器が提供されるようになりました。

それでは、さっそく最初のご意見募集です。
1985年の通信自由化以降、多種多様な情報通信機器が登場し、私たちの暮らしの中に入ってきました。これまでにあなたが愛用してきた情報通信機器(電話、ファックス、携帯電話、液晶テレビ、等々)の中で特に思い出深いもの、強く印象に残っているものは何ですか。どんな機器に、どんな印象や思い出があるか、ぜひコメントをお寄せください。
2月17日 それはファックス!シェアさせていただきます。
2月17日 質問が意外とマニアでちょっとほっこりしたw
2月17日 10数年前、PDAにPHSのカード挿して使ってたころは変な人に見られてましたが、今日のようなほとんどの人がスマートフォンを持つ時代が来るとは想像できませんでした。
2月18日 自分が生きている間でも、いろいろな節目があり、たくさんの忘れられない思い出となっています。ICTには直接繋がらないものの、ワープロにオプションで購入し、フロッピーディスクからインストールして、初めて使用した表計算ソフト。セルに入力した数値が、一瞬で合計された時の感動は、今でも鮮明に覚えています。東芝Rupoシリーズ。丸みを帯びたそのフォルムには、今でも愛着を禁じ得ません。白黒の画面に表示された「セル」の概念は新鮮でした。
2月20日 旦那がヤフオクでゲットしようとしてたのは2000年前のヤツだったのね!!

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2月17日 【テーマの提示、意見募集開始】
今年の全体テーマは、「ICTは私たちの暮らしや仕事をどのように変えたか」です。情報通信は劇的な発展を遂げ、私たちの生活を大きく変化させました。そこで、これまでの皆さんの暮らしを彩ってきた情報通信の思い出や、この先の情報通信に対する期待等について、コメントをいただければと思います。
2月17日 最初のご意見募集です。
1985年以降、多種多様な情報通信機器が登場し、私たちの暮らしの中に入ってきました。あなたが愛用してきた情報通信機器(電話、ファックス、携帯電話、液晶テレビ、等々)の中で特に思い出深いもの、強く印象に残っているものは何ですか。ぜひコメントをお寄せください。
2月20日 ポケベル
2月20日 携帯電話
2月20日 PHS
2月20日 ポケベルですね。学生でもあまり金額的な負担にならずに個人で持ち歩ける初めてのコミュニケーションツールでした。公衆電話に並んだり、数字の暗号の解読をしたり、打ち間違いで読めないメッセージが来たり、携帯よりも沢山思い出が詰まっています。
2月20日 スマホかな?いや、ケータイだな。
2月21日 携帯電話でメールのやり取りが出来る事になった事ですね。
2月27日 【ご意見募集】コメント、アンケート回答とも多数お寄せいただき、本当にありがとうございます。2つ目のコメント募集ですが、「今」の皆さんにとっての情報通信機器についてお尋ねしたいと思います。
2月27日 【ご意見募集】今、あなたがご利用の通信機器で、「これを使っていてよかった!」とか「これがこんな時に役立った!」と思ったご経験がありましたら、ぜひ教えてください。あなたが今、大切にしている通信機器、あなたが感心した通信機器についてコメントをお願いいたします。
2月27日 そらもう、wavファイルがワイヤレスで送れるWUSB?とかいうワイヤレスUSB(=゚ω゚)ノ
ブルートゥースやwifiと干渉しない帯域らしく、音楽ファイルが非圧縮で送れて便利(=゚ω゚)ノ

メロウ倶楽部における意見投稿一覧

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3月5日 【挨拶・説明】
電話を引くのに、何年も待たされた時代。
やっと電話が引けた時の嬉しさは、忘れられません。
今は、子どもも、シニアも、スマホやケータイを 気軽にポケットに入れて歩いています。
便利になった反面、社用で外出したついでにちょっと寄り道をするのにも気を使わなくてはならなくなったことでしょう。
皆様、それぞれ、デジタル機器の思い出、将来に対する期待がおありと思います。
どうぞ、お気軽に、ここへ書き込んでください。
3月5日 【テーマの提示、意見募集開始】
メロウ倶楽部の皆様、大変ごぶさたしています。昨年お世話になりました。
今年も、情報通信白書と連動したご意見募集企画の会議室を設けていただくことになりました。どうぞよろしくお願いいたします。
今回のテーマは「あなたの暮らしや仕事とデジタル機器」ですが、30年前に通信自由化(電電公社がNTTになった!)があってから、電話やパソコン、インターネットなど、通信機器・デジタル機器はものすごく変化しました。その間、皆さんの暮らしに電話やパソコン、さまざまな通信サービスが関わったと思います。みなさんの思い出に残っている機器や通信サービスは何ですか?それは、どんな思い出につながっていますか?まず、そんな皆さんの思い出話をぜひぜひお聞かせください!
3月8日 【アンケートの案内】
「みんなで考える情報通信白書」は、フェイスブックでもご意見募集をしています。フェイスブックご利用の方は、こちらも覗いてみてください。
フェイスブックのページはこちら >>> https://www.facebook.com/MINNAdeICThakusho
また、オンラインアンケートもやってます!
簡単なアンケートですので、お時間のある時に回答してみませんか?
3月5日 昨年は、同じく「スマホなど通信端末とパソコン」の企画でお世話になりました。
http://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/14-semi1/wforum.cgi
平成26年度の情報通信白書(総務省)への要領いいまとめ、読みやすい報告になってましたね。楽しませていただきました。
今年は、又新しいテーマでの挑戦、どのように展開しますでしょうか。楽しみです。よろしくお願いします。
3月6日 (初めて買ったパソコン PC-8)
昔から、計算機(コンピューター)は、サイエンス関係では研究等に不可欠の機器(ツール)でした。
例えば、大学・研究機関では、大大学に大型計算機と称するものが置かれていて、その大学内だけでなく、共同利用として、他の大学、企業にも提供されていました。高い計算料を払って使わせてもらっていたのでした。
しかし、コンピューターの性能の発展で、間もなく、研究分野では、中型の計算機が登場し、もっと小さな機関でも使用できるようになりました。その多くは、UNIXベースだったと思います。
そのような時代ですから、30年前と言えば、計算機というものには特別な思い入れが誰にしてもありました。
もう既に、外国では、IBMなどによって、個人利用の計算機、パーソナルコンピューター(パソコン)が、既に世に出ていました。言うまでもなく英語です。
個人的にも、パソコンを持ってみたい、使ってみたいという欲求は強くなっていました。
そういう時に、初めて買ったパソコンがNECのPC-8801mk2でした。
1983年(32年前)のことです。
8ビットのパソコンでした(今は64ビットが普及している)。OSはCP/Mだったと記憶しますが、BASIC(N88-BASICなど)が実際には使用されていたと思います。又、5インチのフロッピーディスクが2基付いていた。
しかし、一番の特徴は、漢字すなわち日本語が使えるということだったと記憶します。
その記念すべき1台の写真を添付します。
3月7日 30年前でしたか、電子部品関連の仕事をしていた当時、大量のデータを整理するためにデスクトップタイプのHP社製のコンピューターを導入して、成果をあげました。
今でいうエクセルまがいのソフトをベーシック言語で開発して使っていました。
日本語のソフトがなくて、JISに乗っている書体を真似、XYプロッターで漢字や仮名文字などのソフトを開発して印刷していました。
XYプロッタ-というのは、ペンを付けたアームがXY方向に動いて、コンピューターの指示通りに動いて書くというものでした。
その後、日本語ワープロが出始めて、字が下手な僕はすぐに飛びついて使ったものです。
当時は仏教に興味があって、ワープロで写経をしてみたら、「帰命無量寿如来」と入れたたつもりが、「奇妙無料寿如来」と出てきて面食らったのを覚えています。もっとも今でもこれは同じですね。
3月8日 さっそく投稿ありがとうございます。
PC-8801!これ、本物ですよね。まだ持っていらっしゃるのですか!
すご~い!!感動です。
3月14日 やはり、ずっと昔から、コンピュータを使い込む関連のお仕事をされていたんですね。なんとなくそんな感じを持っていました。
> その後、日本語ワープロが出始めて、字が下手な僕はすぐに飛びついて使ったものです。

そういう人が多いですね。私もですが。(苦笑)
写経ですか。だと字体にも拘りがおありでは?
3月11日 始めて買ったパソコンは、iMAC(ボンダーブルー)です。
40年勤務していた、automation.image analyzerメーカーを退職(その頃の制御管理コンピュータはPC9801,MACーcpu68030,HPVectra-cpu386相当)後、1994年あまり関係ない24ページの月刊誌の編集の仕事に請われて就職。当時(今は知りませんが)は印刷関係はMAC・・・ソフトはPHOTOSHOP.illutrator。面白くて面白くてたまりませんでした。15年たった後、windowsに買い換えましたが、今でもmicrosoftは好きになれません。iPOD,iPAD,iPHONE・・・・と復活MACにエールを送ってます。
3月14日 MACでしたか? 1990年頃でしょうね。
制御関係のお仕事をすると、パソコンの中に深くコミットすることになりますね。
当時、MACのパソコンは独特の魅力を放ってましたね。(今でもそうかな)
デザイン、建築、お医者さんなどに人気が高かった記憶があります。
デザイン関係では、アドビの製品は不可欠で、出来上がりが素晴らしいですね。
私は、パソコンではMicroSoftが主でしたが、仕事ではむしろUnixが主でした。
そして、2000年代初頭に、コンピュータのダウンサイジングブームが起こりました(コンピューターの小型化)。この主役は、ワークステーションと呼ばれる、UnixなかでもLinuxのOSを使った小型コンピューターへの移行でしたね。
この変化は劇的でした。このは話は、重要でかつ長くなるので別途の話題ですね。
ところで、iPhone、iPadですか、なんとも綺麗なツールですね。
3月7日 (ワープロ専用機)
1980年代のはじめまでは、勤め先には、和文タイピストのという職種がありました。「和文タイプ」を打つということは、たくさんの文字が並んでいる板のなかから、一字一字 文字を拾い上げていくという、大変根気のいる難しそうな仕事のようでした。
1970の終わり頃、ある日の新聞に「ワードプロセッサーという機械が発明された。それまでのカナタイプとは違い、簡単なコンピュータ操作で『かな・漢字混じりの文』を書くことができる。和文タイプとは違い習熟に時間がかからず、少し練習すれば、シロウトでも使える」という記事がでていました。
当時から、悪筆に悩まされている私には福音でした。遠い将来、自分もそういう機械を手に入れられたらいいな、と密かに期待していました。

その時代は、以外に早く来ました。 
個人向けの、比較的安価な「ワープロ機」が登場したのです。
初期の製品は一行くらいしか画面に現れず、実用には適しませんでしたが、1980年代になると「書院」「OASYS」「文豪」「Rupo」などという、いろゆる「ワープロ専用機」が相次いで個人向けに発売されるようになりました。
私もその一つを求めました。
そのうち、パソコンが普及し始めましたが、ここにも「ワ―プロソフト」が入っていて助かりました。
少なくとも、私は「ワープロ」から大いなる恩恵を受けています。
よく「ワープロのおかげで漢字が書けなくなり嘆かわしい」とおっしゃる方がおられます。
私の場合は、どっちみち日頃、難しい漢字なんて書いていなかったので、漢字が書けないのはワープロのせいではありません。
むしろワープロのおかげで「自分には書けない字」でも、どんどん使って文章が書けるのは素晴らしいことだと思っています。
3月8日 ワープロのお話、ありがとうございます。
何をかくそう、私はかなり長い間ワープロ専用機派で、2000年ころまで富士通の「OASYS」を使っていました。パソコン通信を始めた時もOASYSを使って、「ワープロ通信」でニフティを始めたんです。ワープロ専用機は使いやすかったと今でも思っています。
3月8日 僕は30年くらい昔でしたか、会社では「OASYS」を、自宅では「Rupo」を使っていました。
「Rupo」にモデムを付けて、ワープロ通信をやっていました。
電話の呼び出し音が鳴って、ピーッガシャガシャと音がして回線が繋がりました。
3月8日 ワープロが消えたのは、いまもって残念ですね。起動が速やか、プリンターと一体、日本語の印刷がきれい、といったような利点が、ワープロからなくなってしまいました。
売れなければ撤退するのは民間企業として止むを得ないことでしたが、せめて、文書主体の官庁や企業が コンピューターへの乗り換えを忌避して、1社でも製造メーカーを存続させてもらいたかったです。
サラリーマンとして、600万円を超える初期のワープロから、個人として、最後の Rupo まで、各種ワープロのお世話になったひとりとしての感想です。
最後の Rupo は、まだ残してあり、最後のプリントは、わが家の郵便受けの表札でした。
熱転写で、色あせに強いから、というわけです。
3月9日 ワープロで通信を始めた方が何人もいらしてうれしいです。私もその一人でして、ニフティその他3社とともにパソコン通信を始めたとき、通信ができる機器を探して・・・300bpsのモデムでツーと音がして画面に文字が出てきたときには嬉しかったのを覚えています。
初期のワープロは第一水準の漢字しか変換してくれなくて使い物にならないと思いましたが、すぐに第二水準の漢字も変換してくれるようになったのは嬉しいことでした。即座にわたしは原稿用紙を捨てました(*^-^*) 翻訳の仕事をしていて、少しでも書き直したいとき、原稿用紙の頭から書き直さねばならなかったのですが、ワープロがその時間のロスを解消してくれたのです。
私は即座に出版社にワープロ原稿でとってほしいと交渉しました。フリガナをつけるのまでワープロ原稿できちんとできましたから専用機はよかったです。それに単語登録も文書毎にできるので、重宝しました。

ワープロ専用機はよくできていました。私は新しい機種がでるとすぐに「ニフティ」の通信ボードの「売ります・買います」のところに古い機種を「売る」というアナウンスが出るのです。それで私は大変に安価に手元のワープロを更新していくことができたように思います。
最後に使ったワープロはまだ手元に置いてありますが、これを使うことがあるかどうかわかりません。でも、ワープロ専用機のほうがよかったと思います。
3月9日 私もぴったり一緒です(^O^)/
OASYSは少なくとも3台は買い替えました。
今も,器械はありますが、リボンがないので、感熱紙でしか印刷できませんね。
たまに、ワープロと一緒に印刷リボンも売っていることがあるみたいですね。
新聞広告で見た気がします。
3月9日 ワープロ若い人は知らないでしょうね。
初めて職場にワープロが設置されてずいぶん書類作りに助けられました。
そのうちPCに変わってエクセルでテンプレート(請求書、領収書、見積書)作りました。(業者にソフトを依頼すると高価なので)
事務作業の効率も良くなりました。
個人でも欲しくなってIBMを購入。セール品
OSはWindows95でした。
セットアップ~インターネット接続と毎夜難解なPC用語と格闘したものです。

IBM ThinkPad
OS/Windows95/MS-DOS 6.20
CPU/Pentium75MHz
メモリ/16MB
HDD/810MB
14インチCRTディスプレイ一体型
フロッピーディスクドライブ
3月14日 いつ頃だったかその時期は思い出されませんか、東芝がワープロを展示したのを見に行った事があります。
カナで打ち込んだら漢字が打てると聞きました。 大きなデスクで、6~700万円と聞きましたから仰っているワープロのようですね。 
最初に買ったワープロは名前を覚えていませんが、漢字二文字の名前でした。
熱転写式のプリンターも内蔵していました。
それまでは、見積仕様書・取り扱い説明書に至るまで、提出を要する書類は全て鉛筆で書き、散々に修正・加筆の後、馴れた事務員に清書をさせていました。
それがワープロになってから、自分で修正・加筆まで自分のワープロでやるようになって、大変な事になりました。
自分の仕事時間の殆どがワープロに向かっているのです。 トータルで見て事務合理化の逆行です。
鉛筆を舐め舐め、窓の外を眺めて設計の構想を練る時間が無くなりました。
今でも管理職が一日中パソコンに向かって、ピコピコとキーを打っている見ると、何だか侘びしく感じます。
3月16日 当時は個人的にはとても買えないしろものでした。
それでも、作曲家の団伊久磨さんは、レンタルで使っていたそうです。
3月17日 小松左京だったか誰かが、自分の原稿をフロッピー・ディスクで出版社に渡した頃からが実用化の時期でしょうか?
母が亡くなったとき、父にファミコン・ゲームの「スーパーマリオプラザーズ」とワープロをプレゼントしました。
ファミコンゲームは、それがあったら、あちこちの孫達が親の目を盗んでも祖父の家へ遊びに来てくれるかと思ったのは当たりでしたが、父も孫達に負けないくらい上手になったのには呆れました。(~o~)
1985年でしたからもう30年前ですね。 父は80才を少し越していましたが、どちらも一通り遊べるようになり、良かったと思いました。
クラス会の時、みんなで歌う歌の歌詞などを自分のワープロで打ち込み、いそいそと持って行きました。
20才以上も若い昔の生徒達に自慢したのだろうと思います。
3月7日 (デジタル?との付き合い)
私のデジタルとの付き合いです
ここの主催者はデジタルをどんなものと考えてるかわかりませんが、デジタルとはdigit(指)を語源として「飛び飛び」と解釈して私の「デジタル機器」を書きます。
私は50年くらい前勤務する工場ラインの省人化機器の制御装置の保守と新作を担当していました。
制御素子として有接点の継電器を使っていました。
15秒に一回動作すると一年連続で動くと動作回数が200万回になり有接点継電器の一般の物では短寿命です。
丁度そのころ「無接点継電器」としてトランジスタを使ったフリップフロップ回路が主体の素子を有名メーカー数社が売り出しました。
有接点を無接点に置き換えるのが私の広義のデジタル機器との関わりの最初です。
有名メーカーといえども安定性の悪いものもあり泣かされました。(メーカーのハード設計力?)
その後集積素子(IC)が出現し機器制御はシーケンサーになりラダーでシーケンサーを使うようになりました。
かの有名なインテル社のシーケンサーも使ったことがあります。
パソコンのCPUもON-OFF回路の高度な集積素子だと思います。
私の最初のパソコンは富士通のFM-8です。記憶装置はカセットテープでした。
これはF-BASICで自分でソフトを書く必要があり遊び70%仕事30%でしたが頭の体操になりました。
アセンブラーも使えましたが私の手に負えませんでした。
このパソコン有償で引き取ってくれるところがあり一昨年引き取ってもらいました。
3月8日 (親の世代も大変だった)
戦後、生産ラインのオートメーション化が一段落すると、次は、オフイスオートメーションの時代になり、事務系の人たちがヒーヒー言いながら「コンピューター」の勉強に取り組まされていました。
1970-80年代には、鉄道の自動改札、銀行のATMも普及して、いよいよ消費者も「自動化」に付き合わされることになりました。
1905年生まれの母も、そのひとりでした。
はじめて「自動改札」を通り抜けたときは怖かった、と言っていました。
また、ATM機の前に並んで順番を待っているときは「ちゃんと操作ができるか」が心配で緊張したそうです。
しかし、そういう先輩たちの努力で、鉄道会社も金融機関も合理化を進めることが出来たのでしょうね。
そして今度は、今のシニアがデジタル機器と苦闘する時代になったのですね。
さて、次の世代には、なにが待っているのでしょうか。
3月8日 貴重なお話、ありがとうございます。
メロウ倶楽部には、何と言いますか、パソコン黎明期の語り部の方が大勢いらっしゃるようですね!
FM-8、懐かしいです。私は当時学生でしたが、親友が貯金をはたいてFM-8を買っていたのを憶えています。なかなか、カッコいいパソコンだったと記憶しています。
ところで、当時はまだパソコン通信とかインターネットとかなかったですが、皆さんはパソコンについて、誰とどのように情報交換していたのでしょうか?パソコンクラブなどに入っていらしたのですか?
3月8日 FM-8を購入したころは40歳代になっていましたが新入社員にパソコンでいじめられるのがしゃくなので購入しました。モトローラ系のCPUで性能は高かったと思います。
当時パソコン通信はカップラーに電話の送受話器をのせる方法だったと記憶しています。
速度も遅くメロウのような集まりもみつかりませんでしたのでパソコン通信はやらずBASICのソフト作成で遊んでいました。
3月8日 無接点といえば、トランジスタの他にサイリスタがありますね。
電車の制御にサイリスタを使い始めました。
当時のサイリスタは信頼性がそれほど高くなかったので、もしこれが壊れても大丈夫なように、バックアップとして継電器と併用したりしていました。
3月8日 某社の技報の記憶では電車電動機の制御にサイリスタを使い始めたのは近鉄さんだっと記憶しています。一般用の誘導電動機のサイリスタ制御もゲート遮断が不用意に働き困りました。
知人の設計屋さんに聞いたのでは無接点素子が不安定なのはマージンのとり方が不十分とかでした。
この話は表題から外れそうなのでほどほどにします。
3月14日 「デジタル?との付き合い」と云うと、グッと遡るのでこの部屋の趣旨からはみ出しますが、ちょっとだけ触れておきます。
卒業間近、友達などとの雑談の中で「フリップ・フロップ」と云う単語が出て来ました。
双3極真空管で入出力を襷掛けにした電子回路です。
その直後(H30年)、就職した職場で、それを使ったアメリカ製のデジタル回転計に触れることになりました。
試験装置のモーター回転数を刻々と数字表示する装置で、この威力には驚きました。
4桁の回転数(RPM)がパッチリと2秒周期の実時間で表示されるのです。
アナログ式だったら、故障したり操作が下手だったら少し計測値が狂うので、次の検定時まで気が付かないのですが、デジタル式は、少し異常があったら無茶苦茶な表示になるので忽ち気が付きます。
これは目の覚めるような革新事でした。
真空管式で、良く誤動作もしましたが、それが幸いして、しょっちゅう真空管を交換したり他の部品を交換したりしたのが電子回路へ近付く切っ掛けとなりました。
職場でリレー式のデジタル電圧計を買ったのはその5年後ですが、これは不安定で故障も多く実用にはなりませんでした。
3月11日 (コンピュータの端末)
私の勤務先(米軍)にコンピュータが入ったのは日本の一般の会社よりかなり早かったようです。
床や天井をはがして大がかりな配線工事をすると、みんなのデスクに一台づつのコンピュータの端末(ターミナル)が置かれました。配線はすべてコンピュータ室につながっていて、そこでコントロールするシステムです。
それからは、タイプライターがコンピュータの端末に代わり、プリントアウトするものはすべてコンピュータ室にある共同のプリンタを使用・・・使っている紙は現在一般的に使われているA4サイズとは違うレターサイズというもの。それが連続して出てくるのだが、まぁ、紙の無駄になることといったらタイヘンなもので、「ペイパーレスの時代が来ると言っていたのに紙の大量消費だね」とつぶやくことしきり。
いずれにしても、各人のデスクにあるターミナルは時間がくると元の電源を切られ、勝手にアクセスできないようになっていたので、日本のオフィスでのセキュリティはどうなっているのだろうかという疑問が生じたものです。
退職してもう25年、今はどうなっているか?
3月12日 (使い込んだパソコン PC-9800シリーズ)
NECの8ビットパソコンPC-8800シリーズの寿命は短かかった。
少し遅れて発売されたNECの16ビットのパソコンPC-9801に移った。1983年頃から出始め、Windows95が出る1995年頃あるいはそれ以降まで使用した。
パソコンと言っても個人の家庭内だけではなくて、むしろ、勤務先での方が使用頻度は高かった。
仕事上の種々の機器の管理制御に一番よく使われた。いわゆるオンライン使用である。
事務用にオフライン用として、ワープロ、表計算などに使った。
自宅では、事務用と、ゲームにもよく使われた。又、パソコン通信に使われたが、これは別途述べたい。
気がついてみたら、仕事用に、個人用に、もはや、パソコンなくして何もできない状態になっていた。
PC-9800シリーズは、その意味で忘れられないパソコンであるが、手元に残っている一つ、PC-9801VX(1986年頃)をアップしておきます。
3月13日 (パソコン通信)
「パソコン通信」をご存じの方も多いが、もはやご存じのない方も少なくないのではないでしょうか?
これは、パソコンやワープロ専用機が普及してから始まったサービスなので、1980年代後半に始まり1990年代が最盛期でしょうか。1990年代後半にはインターネットが普及始めたので次第に衰勢期に入っていった。
私が、NIfty-Serve(現@niftyの前身)に入ったのは1990年代前半だったと思う。主要なサービスはフォーラム(交流のための会議室)であった。
多くのフォーラムがあったが、その一つメロウ倶楽部の前身とも言える、「メロウフォーラム」にも、もちろん入らせていただいた。
パソコン通信は画期的なサービスだったと思う。特に、自宅にいながらにしてネットワークを介して、世界と交流できたことがすごいことだったと思う。
つまり、加齢と共に体力が落ちてくるシニアは、外出が難しくなり、人との交流(コミュニケーション)が乏しくなる一方で、このパソコン通信のツールはとんでもない授かりものだったのでした。
3月14日 僕がパソコン通信を始めたのは、1993年6月からでした。
東芝のワープロRupoに通信用モデムを付けて、Nifty-Serveや朝日ネットなどに繋いで楽しんでいました。
当時、女性は一般に体裁に気を遣う傾向があると書いて、ある女性からけしからんと、しつこくからまれて参りました。もっともあなたの仰るとおりだとの別の女性からのコメントもありましたけれど・・・
通信費用がかさむので、ストップウオッチを手元に置いて通信をしていました。
現在は、定額なので時間は気にせず、世界中との通信ができるのはありがたいですね。
3月16日 私は、1995年に入会しました。
まだ、Windows95 は発売されていませんでしたが、パソコンを買ってお弁当箱くらいの大きさの外付けのモデムをつけて通信していました。
電話代とニフティーさんへの支払いで月4000円くらいかかりました。
そのころ、メロウフォーラムには「還暦を過ぎた方の部屋」というのがありました。
今でしたら「傘寿を過ぎた方の部屋」になるのでしょうね。
当時は「ビデオ」や「サウンド」はおろか「静止画」もアップできなかったので「文章表現力」がないとどうにもなりませんでした。
3月17日
 
「パソコン通信」が始まるということで、まず機械を入手することにして、すでにワープロのオアシスを使っていたからニフティーサーブを選んで入会・・・最初は入会するだけで「イントロパック(と言ったと思う)」を購入するのにお金が必要でした(¥1,000だったかな?) 繋がって嬉しかったけれど、画面はそのまま読めるくらいの速度(300bps)でした。メロウ倶楽部の全身のFMELLOWがまだ形をなしていないころです。フォーラムごとに20会議室があり、そのほかに「教えてください・教えます」とか「あげます・ください」など各種各様の会議室があり、とても活発でした。
私はキリスト教の話ができるFLORDや健康の話ができるFHEALTHなど、いろんなフォーラムに入っていました。メロウ倶楽部の前身FMELLOWができるとすぐに、会員になりました。夢子さんというすてきなシスオペ(フォーラム・マネジャー)がいらして上手に采配をふるってくださいました。そのほかお名前はあげませんが何人ものすてきな方たちがリーダーシップをとってくださいましたが・・・
アメリカのシニアネットの方たちとの交流があったのもこのころです。
そして、通信はインターネット時代に突入・・・メロウ倶楽部も編成しなおして今日の形になりましたね。そして今日のように通信機器が発達して誰もが気楽にインターネットを使いこなすようになり、気楽に情報を発信したり手に入れたりすることができるようになると・・・メロウ倶楽部の存在意義が大きくなったか、小さくなったか? この疑問はどんな答えがでるのでしょう?
3月17日 朝になって読み返してみて、ちょっと補足を:-
ニフティ・サーブにはいろんなフォーラムがあったことは書きましたが、「教えてください・教えます」という会議室ではタイヘンに助けられた思い出があります。
まだ海外渡航もままならず、海外の情報も入手しづらいころの話です。私はオランダが舞台の小説の翻訳にとりかかって、地名やオランダ語で書かれた物の表記に行き詰って、この「教えてください・教えます」の会議室に書き込んだのです。
そしたら幸運にも、私の書き込みが商用で何度もオランダに出かけているという男性の目に留まり、地名その他をすっかりカタカナ書きで教えて下さったのです。
今なら地図だろうと旅行案内だろうと何でもありますし、オランダなど旅行して詳しくご存じの方も数多くいらっしゃいましょう。でも、そんな情報が一切なかった時代ですから、「パソコン通信をしていてヨカッタ」の筆頭にあげられる事柄でした。通信をしていてヨカッタことでした!(^^)!
細かなことはまだまだありますが、今日はとりあえず以上で終わります。
3月21日 (携帯電話ーパソコンとの合体は必須か?)
携帯電話はどうだったかな。
固定電話はアナログの一般加入電話を随分長いこと便利に使いました。
携帯電話は、まず自動車電話に導入されたのでしたか? 高かったし(貧乏だった?)、着けようなどとは思いませんでしたね。
一般の携帯電話も出ましたが、まだ触手は動かなかった。
ただ、職場では、ポケットベルを持たされた。呼び出されるのが余り嬉しくなかったが。呼び出されれば、近くの電話、公衆電話など使った。
最初に使った携帯はデジタルのNTTのムーバーでした。NTTから始まったので以降はずっと変えずじまい。
FOMAに変わったが、携帯は電話とメールが使えればというので、ぎりぎりまでムーバー。iモードなるものもわずかしか使わず。
パソコンを縦横に使っているので、iモードはかったるくて。
結局、7,8年はFOMA。ついに、もう電池は売り切れと言われている。つまり、古いガラケーを保有している。。
Xiになって、買わずにいたが、これを買うならもうスマホですよと言われるが、その通り。でも、この高価格のを買う気は起こらず、それでなくても、パソコン、テレビ関係で、通信費用の負担が大きく、どう減らそうかと四苦八苦していた。価格体系も気にいらず、2年しばりが我慢出来なかった。
で、SIMフリーのスマホが出るのをじっと待った。で、やっと出た。
すぐに購入。SIMフリーのiPhoneに、NTTの回線を入れること。
結局、機体本体さえ別途買えば、月維持費は1700円くらいで済む。
音声電話は、受信はするが、送話には使わない。skypeのような、IP電話を使う。送話は、ガラケー。
スマホは、音声電話にパソコンを合体したものだが、ほんとにこの方向はいいのか? 
電話は受信待ちが必要なので電源を入れっぱなし。パソコンは必要な時、入れればよい。これは相性が悪い。
又、高額になるのは、電話の送信が高いから。
こんなことを考えていつも堂々巡り。
ここらに抜本的な改善策はないのでしょうか?
4月4日 自動車も同じですが、ガラケイ、スマホ、タブレット、バソコンを道具と考えるかファッションと考えるかによって違います。
道具ならばその人それぞれで必要な機能を持たすような機器を持てば良いはずです。
外で歩きながらスマホ、タブレットを操作するのはファッションでやっている人が多いような気がしています。
私は道具派で今の生活ではパソコンとガラケイで充分機能しています。
3月23日 (インターネット)
この30年間で世の中に最も大きな変化をもたらしたものは何かと問われれば、私は「インターネット」ではないかと思う。
社会革命と言っていいほどの影響を与えたと言ってもあながち間違いでもないのではないだろうか?
日本では1993年に公開された。シニアにとって、新しい世界を切り開いてくれたあの「パソコン通信」に代わって、更に大きな世界を現出させてくれた。この影響はとてつもなく大きい。
インターネット、これは若い世代のための新しい手段と思う人が多いかもしれないが、とんでもない、これはシニア(や身障者)にとってこそ、長く待ち望んでいた、不可欠なツールなのであった。
空間の制限を超えて、つまり居宅しながら、世の中に参加できる。
時間の制限を超えて、すなわち、自分の手の空いた時間に参加できる。
その体験を是非語り合ってみませんか?
3月23日 まさに、そのとおりと思います。
ところが、クラス会などで同年代の人たちと顔を合わすと「インターネットの世界を知っている人」と「インターネットに触れたことのない人」がいるのです。
そして「知っている人」と「知らない人」では、世界観が違うように思います。
しかし「知らない人」は、そんなものを知らなくても少しも不自由ないと思っておられるようです。
3月24日 仰せの通りだと思います、私も同窓会、同期会に出席すると全く関心の無い方も多く、何の不自由も感じないと言っております。
せっかく自分の世界が広がる機会がありながら、もったいないと思うのですが。
3月26日 みなさんが仰るとおり、私の年齢(84)になるとほとんどがインターネットの世界とは無縁のようです。少しでも知っている人は「息子が・・・、娘が・・・」或は「孫が・・・」という話になります。
そうでなくても「メールは・・・」という感じで話になりません。
インターネットにアクセスして何かを調べるとか、知己を得るとかいうこととは無縁の世界とは無縁のようです。
3月14日 米軍ですか。それは早かったでしょうね。日本では日本語表示の問題がまずネックだったと思います。
勤務先(企業、官庁、大学研究機関など)では、一つの大型の汎用計算機が置かれ、それに、専用の端末機がぶらさがって仕事をしてましたね。
パソコンが出ると、当時は最初マイコンと言ったでしょうか、パソコンは、汎用の計算機の端末になると同時に、独立してパソコンとしても使えるようになっていましたね。
3月31日 いえ、私がいたところは「情報」を取り扱っていましたので、各部署の日本人スタッフは日本語で報告文を書いていました。それが班長から翻訳部に回される仕組みでした。(私はその日本語や英語をチェックして・・・)それで日本語の表示や変換が問題でした。最初のころの日本語ソフトがなんだったか忘れましたが、日本の文部省令など完全に無視したものでした。
 
> パソコンが出ると、当時は最初マイコンと言ったでしょうか、パソコンは、
> 汎用の計算機の端末になると同時に、独立してパソコンとしても使えるよう
> になっていましたね。
 
私はこのパソコンの設置に驚きました。私がいた米軍ではパソコンはあってもそれは外部との通信などに使うのに限られ、内部の通信などにはターミナルを使うように指示されていましたし、上からの指示も各人のデスクのターミナルでなされたように記憶しています。
3月31日 40数年前でしたか、コンピューターが出始め、ミニコンなどでデータや機器の制御などが流行だし、それに関連してICなども使い始めました。
ところが、ICなるものがどういうものなのかさっぱり分からなくて困り果てました。
ちょうどそのころ、NECからマイコンなるもののキットが発売されました。
CPUは、インテルの8080で、機械語でプログラミングしないと使えない代物。
四苦八苦してゲームをやったり、楽譜を勉強して音楽の自動演奏などをプログラミングして楽しんだ、いや苦しんだものです。
また、アメリカから輸入したパソコンまがいももので、統計計算などに使いました。
これは、カードにパンチを入れてプログラミングするもので、データの入出力は小型のプリンターに出力していました。
ミニコンも出始めて、色々な種類の資材管理も始めましたが、バグが多くてあまり成果は上がらなかったと記憶しています。
そのうちに、ヒューレットパッカード社からパソコンが出て、ベーシックでプログラミングして、データ処理や機器の自動制御ができるようになりました。
当初のものの取説は非常によくできていて、これを読めば素人でもすぐにプログラミングできました。
それに較べて、国産のパソコンの取説は、素人には難解でどうしようもありませんでした。
当時は、一般に国産品の電機機器の取説は、パソコンに限らず、多くのメーカーが難解なものが多く困ったものです。その道のプロが使うのが前提なのでしょう。
現在はどうなのでしょうか?
3月31日 さすが、これは先進的な感じですね。導入されたのは、いつ頃なのでしょうか?
多数のリモート端末から同時にセンターコンピュータを使っていたわけですね。当時の言葉でいう「TSS」というやつでしょうか。
ところで、米軍関係だとすると、相当早い段階から電子メールなどが使えたのではないでしょうか?ご記憶にありませんか?
3月31日 「TSS」が何だか? 検索するとCIA関連の略語にも使われているようですが、私にはお答えのしようがありません。
電子メールと言ってもどの段階のものを言うのでしょうか?
私たちのデスクにターミナルが置かれてからは、上部からのコンタクトはメールで来ることもありましたが、私が退職したのはもう20数年も前のこと、二昔以上過ぎていますので、すべて実験段階だったと思います。参考にもならないでしょう。
ただ、コンピュータ関連には予算は無制限だと言って、あらゆる努力をしていたのが印象に残っています。
4月3日 すみません、TSSとはTime Sharing System の略で、ひとつの大きなコンピュータを複数の端末から同時に利用できるシステムのことです。
やっぱり、当時からメールは使われていたんですね。このコメントから推測すると、組織内だけのメールのようですが。
3月15日 (ISDNとADSL)
この30年間にアナログからデジタルに劇的に変化した機器は電話(特に電話回線)だと思います。事務局からの問題提起にピッタリの機器(回線)かもしれません。
1989年にISDNの商用サービスが開始されたとされていますが、我が家で利用可能になったのは1990年代に入ってからでしょうか?
パソコン通信は、一般加入電話回線(アナログ)を使っているので、遅くてやきもちきていましたが、ISDNで64kbpsの回線速度が得られてほっとしたものです。接続方式もダイヤルアップ接続に代わり常時接続が可能になったと記憶します。これも嬉しいことでした。
これは、NTTの電話回線をアナログからデジタルへの変換作業が進んだからでしょう。デジタル化により、音声だけでなくデータ通信も可能になったのでした。1997年には全国の電話回線がデジタル化されたんですね。
一方、インターネットが1993年には商用化されました。1995年のWindwos95の発売は、このブームを加速しましたね。
こうなると、ISDNでは、その遅さが我慢できないものへとなってきました。
2000年にADSLが登場します。音声通話しながら、インターネットも使えます。これは又画期的な進歩だったと思います。ADSLの回線速度もどんどん上がって来て、3,40Mbpsには割に早く達したのではないでしょか。
3月30日 ご指摘のとおりで、1990年あたりのパソコン通信は、2400ボーとか9600ボーというスピードでしたが、その後のスピードアップは劇的でしたね。
ISDNでみんながつないでいた頃、夜になると混雑してなかなかつながってくれないという問題も起きていたように思います。
3月30日 そうでした。当時はbps( bit per second )のことをボーと呼んだのでしたね。
で、アナログでは14.400ボーくらいまで行きましたかね。
 
デジタルのISDNになって、やはり速くなって、56kbpsになって安定したでしょうか。
確かに、接続の時間で混み具合が大きく変わりました。夜の寝る前の黄金時間はとりわけ込みました。
で、真夜中や、夜明けの込まない時に接続する人が出て、お蔭で、それ以来夜型人間になってしまった方もあったような。
それに、回線使用の課金は接続時間に比例したので、いかに、接続時間を短くするか工夫したものです。
自動巡回ソフトも、そのために生まれたのでしたね。NifTermとかAirCraftとか。
3月31日 ADSLが出たときは衝撃でした。
それまでは、たとえば人物の像を受信すると、頭の上から少しずつ出始めて、全体が写るまで、数分掛かっていたのが、即全体の像が受信できるようになりました。
今でも下り12MbpsのADSLを使っていますが、光にすれば瞬時に出るのでしょうか?
3月31日 当時、公衆電話に「グレ電」というのがありまして「どうしても外出先から送信したい時」はその「グレ電」のある電話ボックスへノートパソコンを持ち込んだものでした。
それが「モバイルWifi」などが出来て、まあまあ一応どこへ旅行しても「ネットが使える」状態になってきました。
海外も同様です。
メロウ倶楽部の世話役同士、旅行をするときは「何時からいつまでは旅行するからその間はアクセス出来ない」とあらかじめ断って出発していたのですが近頃は「全コース・アクセス不能」の旅なんてなくなりました。
たまには、デジタル機器から離れてリフレッシュするほうがいいのでしょうが。
4月2日 私が最初にワープロで通信していた頃は、たしか300ボーと言うのだったと思います(^^ゞ
その頃は、オンラインで書き込みをするなんてとんでもない頃で、オフラインでしか書き込んだことはありません。
Niftyの課金が1分20円という頃から始めたので、節約には努力しました(^^ゞ
そのうち10円になって、チャットも盛んにするようになりました。そう言えば、あれをリアルタイム会議とか言って,通常、RT(アールティー)と言っていましね。
4月3日 この頃は、課金が接続時間によるようになっていたからだと思います。
オンラインで、チャットでは、料金がいくらになるか、考えるだけでもぞっとしませんか?
パソコン通信の時代は、niftyユーザーでしたが、課金がいくらだったか、全く記憶にありません。
ISDNで、確か課金が接続時間に無関係になったはずですが。
3月30日 先日、電車に乗ったら、座席の横でワープロらしきもので一心に文書を打ち込んでいる女性がいたのです。そのワープロのブランド名を盗み見ておき、帰ってしらべてみたら、その機種は現に販売されている入力専用のワープロでした。
商品名は、デジタルメモ 「ポメラ」。2秒で立ち上がり、アルカリ乾電池2本で、20時間使えるとか。
海外でも同種の製品を作りたいと考えている人たちがいるようです。
http://ascii.jp/elem/000/000/947/947075/
3月31日 おお、ポメラ! 知っています。確かにあれは、往年のワープロ専用機っぽいですね。
意外と(?)売れていると聞いたことがあります。
4月3日 (国際電話料の節約)
今も昔も「電話代を安くしたい」という気持ちには変わりありませんが、それでも、今は総体的に電話料は下がっていますし、LINEやスカイプなどでも、電話ができるようになり、以前よりはラクになりました。
20年前ですと、国内の長距離電話の電話代は高く、海外ですと更にものすごく高かったのです。
そんな訳で、海外に支社や出張所などを持つ会社では「どうやって国際電話料金を節約するか」が大きな課題でした。
当時、関西の会社の方が、海外の支社へ電話する内容を予め、テープレコーダーに録音しておき早回しにして電話をかけているという話を聞きました。早回しにしますと「キャッキャッ」と聞こえてそのままでは内容がわからないのですが、受けた側でも、それをテープレコーダーに録音して通常の早さに戻して内容を聞いた、と得意そうに言っておられたのを覚えています。当時のハイテクですよね。
4月5日 いや ほんとですね。
長距離電話を掛けているときは、時計をみながらできるだけ早口で用件を話しました。
国際電話は大分安くなって、あまり料金は気にせず使えるようになりました。
電子メールを使えばタダで用件が済みます。
便利になりました。
4月5日 私など自分の一人住まいに電話もないころ、アメリカに電話をするのにわざわざ電話局まで出かけて、公衆電話で「5分だけ」などと時間を切って電話をかけたのを思い出します。5分だけでも5千円かそれ以上くらい払ったのを覚えています。
通信費が安くなって助かると思ったら、自分の年齢も重ねて、もうかつてほどの必要もなくなった昨今です。
4月13日 いろいろおもしろい話をありがとうございます!
確かに、この30年で激変したのが「電話料金」ですね。国際電話のように激安になったものもあれば、携帯電話のように高いのか安いのかよく分からない料金になったものもあり・・・。でも今は「無料通話」が広がっているから、やっぱり安くなっているんですね。
それにしてもこの話はすごい。早回しのテープの音声を元に戻せるプレイヤーがあったんですね。ちなみに、私もカセットテープ世代です(笑)。エアチェックもしてましたし、今でも手元にテープもデッキもあります。
4月9日 当時、使っているオンラインコンピューターには2種類はあったような。(オフライン使用のコンピューターはもちろんあり)
大型・中型のオンラインコンピューターは、これは個人では手に余り、専門のメーカーに発注し、メンテも同じメーカーにという風でした。
パソコンが出たので、小型のシステムがが、個人で制作・メンテできるようになったんですね。
例えば、温度モニター、これはそれまでは、アナログ式で、記録計というのは、紙を常に流して巻き取っていて、その紙にペンで打点するような仕組みです。データがいくつかあるときは、ペンのインクの色を変えてました。これは、後での利用は大変です。
これが、パソコンに繋がると、データをフロッピーディスク、後にハードディスクなどの記録媒体に記憶できます。後で、整理ができ、あるいは、アラーム発生、あるいは、適当な操作も簡単に可能になりました。
データは、普通、パソコンの後ろに用意されているRS-232Cというコネクターを使用しました。
この類のものは、色々ありました。もっとおおがかりなものへと発展もしていきました。簡単なオートメーション化も可能になりました。
4月13日 わかりやすい解説ありがとうございました。
なるほど、今風に言うと、各種センサーをパソコンにつないで計測をしていたわけですね。確かに、パソコン登場以前ではなかなか実現できなかったシステムだと思います。
ところで、解説を読んでいて思い出しましたが、最初の頃のパソコンって、ハードディスク積んでなかったですよね!
4月14日 そうです。初めて私用に買ったパソコンが、Commodore VIC-1001。プログラムは、カセットテープに入れて走らせました。
4月8日 (カメラ今昔)
幼稚園児のころ、長兄はカメラを持っていました。古ぼけた革のケースに入っていました。ライカだったと聞いています。そのカメラの行方は存じません。
戦争中・戦争直後の写真というものは殆どありません。それどころじゃなかったのと「カメラを持ってウロウロしていると特高に捕まる」という噂があったりしたためではないでしょうか。
戦後、長兄が買ったのは「リコー二眼レフ」というカメラでした。
大きな重い箱でした。これは流行ったようです。
1980年代の後半になると「写ルンです」のような「私にも写せる」カメラがテレビのコマーシャルに乗って華々しく登場して、我々メカに弱い人間も写真が撮れるようになりました。
21世紀初頭には、ケータイにカメラ機能が搭載され、一億総カメラマン時代になりました。
一方、デジカメの機能も向上し、一万円で買えるカメラも、1000万画素を超えましたし、スマホのカメラは更に高性能になってきました。
そうなると、カメラは「立派な写真を撮るためのもの」と「常に携行していて記録としての写真を撮るための道具」の二面性を持ってきたような気がします。
噴火・竜巻などの異変、ひき逃げなどの事件現場の写真は「たまたまそこに居合わせた人」によって捉えられた「決定的瞬間」が大切であり、カメラの性能やカメラマンの腕とは関係がなくなります。
日常生活の中でもケータイやスマホのカメラは「記録用の道具」になりつつあります。
バスの時刻表が書き換えられると、何人もの人が、ケータイやスマホで時刻表を写していますし、外出先で珍しい花を見た時も、あとで調べるためにとりあえず写真をとっておきます。「子どもの腕によく出る発疹をカメラで撮影し定期健診のときに医師に見せる」というおかあさんもいます。
カメラの変遷も私達の日常生活に変化もたらした、そんな気がします。
4月8日 カメラの話ですが、父がカメラを趣味にしていて、商売はしていないのに自宅を「カメラ店」として郵便物などを受け取っていたようです。そんなこんなで、記憶にある限り、自宅にあるカメラは4台くらい、フィルムの現像や写真の焼き付けも自宅でやっていました。そして、暗室で写真の焼き付けや引き伸ばしを見ていたものです。
ですから戦中戦後の写真もかなり・・・家族だけでなく親戚も含めて、父がみんなの「写真屋」さんでした。大学入学(昭和23年)のために家を離れるときには家にある一番安いカメラ(ベビーパール)とフィルムを差し出して、現像と焼き増しはうちでやってあげるから持って帰りなさい、ということでした。それで、私はいつも仲間のカメラマン役。現像や焼き付けも簡単になりましたが、値段は今からするとかなり高かったと記憶しています。その後カメラはべビーパールがオリンパスシックスに代わり、その後また何かに代わりましたが・・・
戦後、父が定年退職で(母の許可を得て)買ったカメラがコンタックスで、これはいろんな歴史を経て今は私の手元にあります。
でも、カメラの値段も昔のことを考えると格段に安くなりましたし、昨今は誰もがカメラを持っておられるので私はカメラマン役を返上しました!(^^)! そして、もっぱら身近な記録マシンとして自分が写したいものだけを映したいときにだけ撮ることにしています(^_-)
4月10日 30数年前でしたか、これとそっくりなのが売り出されました。
懐かしいので買ってしまいましたが、それは、なんとメイドインUSSRでした。
一応は動きますが、まだ一度も撮ったことはありません。棚に飾っています。
4月10日 20年位前でしたか、デジタルカメラが出始めた頃のものです。
パソコンに取り込んだり、テレビに映し出したりする機器が付属していました。
めっぽう高かったように記憶しています。
4月10日 うわ~懐かしいフレックス・タイプのカメラ!
オリンパス・フレックスやマミヤ・フレックスを使ったことがあります。
どちらも6X6で引き伸ばししなくてもいいから・・・という理由で、父が写真の焼き増し代が高い時代に重宝していたようです。
4月13日 カメラの歴史って、なかなか興味深いですね。
コメントにあるように、「写るんです」って画期的だったんですね。
私の母が「学生の頃、仲間うちでカメラにフィルムを装填できる女性は私だけだった」と自慢していたのを思い出しました。
フィルムカメラからデジタルカメラへの世代交代も劇的でしたが、考えてみると携帯電話とカメラをくっつけたのも画期的ですよね。
調べてみると、これは2000年にJ-フォン(今のソフトバンク)が始めた「写メール」が初めてらしいです。が、PHSではその1年前にカメラ付きPHSが出てるんだとか。
いずれにしても日本製が世界初なので、なかなかすごいなあ。
4月11日 (私とパソコン)
私が初めてパソコンを買ったのはシャープのMZ-80Kでした。
確か1980年ごろだったと思います。
記憶装置がカセットテープでBASICやマシン語で動かしていたと思います。最初に動かしたのが見よう見まねで入れたマシン語のインベーダーゲームでした。
 
その後、NECから発売されたPC-8801を購入、ハンドヘルドコンピュータEPSONHC-20。
そしてその当時MS-DOSが主流だった時代にアイコンを使ったMacintosh Plusを購入しました。1980年半ばだったと思います。
この当時Macは高価で買うのに決心が必要でした。
その為、ユーザークラブは社会人が主で専門的知識を持った人も多く色々な事を教わりました。
パソコン通信もNIFTY-Serveを使い電話回線であの懐かしい繋がるまでのピージージーという音も思い出します。
メールやフォーラムの閲覧、すべてが感動でした。(そんなに詳しくない私にとってはです。)
 
その後仕事にパソコンが入って来て業務ソフトばかりを使う日々が続き個人で楽しむことから遠ざかって来ました。
 
退職を機に無趣味の私が唯一興味のあるパソコンを購入、また一から勉強することにしました。
当初、マックから始めようと思いましたが慣れ親しんだWindowsからすることにしました。
その後、NECのノートとMacMiniを購入ぼちぼち勉強しています。
 
先日、Macのユーザー会のメンバーと再会する機会があり、いろいろを話をするなかで彼らはあれからずっとMacを使い続けてきたみたいで話す内容にとてもついていけませんでした。(もともとレベルの差はあったのですが・・・・。)
対外的にはメロウ倶楽部にも入れていただき、みなさんにいろいろ教えてもらて楽しんで過ごしています。
これからももっと勉強してレベルアップをしていきたいと思っています。
4月13日 MZにHC-20ですね!私は当時は貧乏学生で、あこがれの的でした。
中でもHC-20は小型プリンタと液晶ディスプレイ内蔵で、ちょっとワープロ専用機っぽくて、パソコンとしては斬新でした。ほしかったなあ。
4月14日 あのころは欲しいものがあれば、あとさき考えずに購入して後でしんどい思いをしたものでした。
新しいものがすきなのは、いまだになおりませんが・・・。
現在もiPhone6 PlusやiPadを使いこなせていないのに所有しています。
年金ぐらしなので購入するときはいろいろ考えるようにしていますが、他に楽しみがないのでひっしに嫁を説得しています。
昔のなごりでわが部屋には、いまだにHC-20とMacintosh Plusが鎮座しています。
次はApple Watchかな?・・・・・
4月14日 マザーボードを木製の箱に入れ、その箱の手前上部にキーボードを取り付け、側面の端子にテープレーコーダーを繋ぎデータを出し入れし、ディスプレイは10インチ位の画面が緑一色のグリーンモニターで最初にインベーターゲームを動かしたのが初めてです。
いわゆるアップルコンパチブルなる物です。
そのうちBASIC言語を覚え今で言うエクセルの表なんかを作り売上集計に活用しだし、今まで売上伝票見て電卓で集計していた業務が飛躍的に改善され、当初は単月のみだったが、累月でも集計できるようにして(エクセルの串差し計算)趣味と実益を両立させたのを憶えています。
データもテレコからフロッピーディスク、ハードディスクと変遷していきました。
HDが40MBのIBMマシンが入った時、40MBはOSが管理できないので20MBにパーテーションを作ったのを懐かしく思い出します。
個人でパソコン買ったのは随分あとでNECのディスクトップ型(機種?)でした。今は3台目でDELLのディスクトップを使っています。
4月18日 なるほど、昔はアップルコンパチブルの自作パソコンがあったんですね。
私はアップル製品はマッキントッシュ以降しか知らないんですが、マック以前のアップル製品は何で動かしていたんですか?やっぱりベーシックなんでしょうか??
4月19日 自作パソコンはこれだけで当時は何も解らずにゲームをした記憶はありますが、その他に使ったかどうか記憶が定かではありません。
その後メーカー名、機種名etcは不明でBASIC言語で遊んでいました。
OSはMS-DOSでCUI環境で使っていたのは憶えています。
4月16日 (時計も変わった)
戦前の我が家では、柱に掛け時計がありました。父だけが「腕時計」をしていました。
どちらも、しょっちゅうネジを巻かなくてはなりませんでした。
戦争直後、腕の良い「時計屋さん」だった伯母の連れ合いは、引揚者で店を持つお金はありませんでしたが、戦争直後、郷里に近い漁業の町で「時計修理業」をやっていました。
当時でも、漁師さんたちには腕時計は必需品でした。
が、今とは違い防水が完全な時計はありませんでしたから、修理の需要は多く結構流行っていました。
 
私も高校入学の時はじめて「腕時計」をもらいました。
戦後、日本の時計産業は素晴らしい発展を遂げ「東京オリンピック」では大活躍しました。
そして時計の値段はどんどん下がり、子どものお小遣いでも買えるようになりました。
 
20世紀の終わり頃には「テレビ」「パソコン」だけでなく「炊飯器」にも「カメラ」にもあらゆる電機・電子器具が時刻を表示してくれるようになりました。
いまスマホのなかの時計は「目覚まし」「ストップウオッチ」「世界時計」などの機能を備えるようになりました。
そしてスマートウォッチの登場です。時計とコンピュータが合体しました。
確かに便利です。
寝過ごして遅刻することもなく、気がついたらお鍋が真っ黒焦げ、という悲劇も防止出来るようになりました。
その結果、秒単位で表示されるデジタル時計を見ていると気ぜわしくて落ち着かない、時差ボケのような、体内時計と精密な時計との時間差に振り回される、など時間の奴隷になりつつあるような気がします。
友人は「私の最後の時刻に向かったカウントダウンのようだ」といいます。
4月21日 時計も変わった?
私は腕時計を昭和50年に買った、自動巻き兼手動巻きを現在も使い続けています。私の頭脳の進化と同じ・・・
爆買いで日本の高級時計メーカーは潤っているようですが・・・
千円位の安物を毎年買い替えれば常に新しい腕時計が使えるのに・・・
電波時計・・・あれは日本国内だけで、外国では使えない・・・
失敗した経験があります・・・
4月22日 掛け時計(柱時計とも言った)は戦前から我が家にも、近所のお店にも、伯父の家にもありました。ただ、毎日ネジを巻かねばなりませんでしたね。一週間巻きとか10日巻きとかあったように思いますが記憶が定かではありません。
腕時計は進学のために一人の生活を始めた昭和23年に父に買ってもらいました。
その後、腕時計はかなりの種類を楽しんできました。日本製なら「セイコー」か「シチズン」で正確さを競ったように思います。防水だとか自動巻きだとか、いろんな時計が次々と・・・スイス製などというと、すごく上等のものだと思っていましたが、いろんな種類のものがあって・・・ピンキリ・・・今昔の感があります。
それからパソコンなどに組み込まれている時計。
(現在の自分の身の周りには時計と言えるものだけでもいくつあるか? 腕時計のほかに置時計や掛け時計、懐中時計、ブローチ時計等々、数え切れません。)
4月22日 戦後でも、実家も婚家も柱時計がかけてありましたよ。
もっとも、いつごろまで現役で利用していたかは不明です。
 
> 掛け時計(柱時計とも言った)は戦前から我が家にも、近所のお店にも、伯父の家にもありました。ただ、毎日ネジを巻かねばなりませんでしたね。
 
私の記憶では、ネジを巻く穴が、右と左の2ヶ所にあったような気がするのですが、記憶違いでしょうか?
あの2ヶ所のネジ巻き穴に、カギを突っ込んで両方とも巻いたような気がします。
長針短針を合わせるのは、手で針を直接に動かしましたっけ??
今のように、時刻の性能は良くなかったですよね?
おまけに、だいたい、5分くらいは先へ進めていたような・・・・(^^ゞ
 
> (現在の自分の身の周りには時計と言えるものだけでもいくつあるか? 腕時計のほかに置時計や掛け時計、懐中時計、ブローチ時計等々、数え切れません。)
 
ありますねぇ。置時計なんかは何個あるやら。もらい物が多いです。引き出物とかお祝い品とか。オルゴール時計もあるのですが、時計としての機能は壊れてしまいましたが、人形の形の置物として飾っています(^^ゞ
考えたら、時計って、もらい物が多くないですか? 自分で買ったもののほうが私の場合少数です。記念品としてでも貰いますね。
4月24日 時計は、高校卒業して会社に入ってから消費組合ってところで初めて買いました。
時計は一生ものなんていわれて石が入ってるモノじゃなければといわれて。
石入りの時計って今でもあるのかなぁ。
5,6千円で、給料の半分以上で月賦でかった筈です。
4月24日 そうですよね。当時としては高価な買い物でしたよね。
「石入り」というと7石とか、「防水」とかちゃんと表示をしてありましたね。
昔と比べると質がすごく良くなったように思います。
4月18日 (ドライブ・カウンタ)
聞き慣れない単語かと思いますが、10日程前からそれを車に付けて走っています。
某自動車保険会社の一ヶ月無償試供品です。
この会議室ではちょっと趣は変わりますが、これもデジタル機器で、車の運転性向が変わると思います。
車運転の『優しさ(or乱暴さ)』をデジタル評価する装置で、その成績のいい人には保険料をキャッシュ・バックをするとの触れ込みですが、私はゲーム感覚で遊んでいます。(^-^)
急加速/急減速を×と考え、スムーズな加減速を○と考えると「現在」カウンターが○の連続回数を表示し、×があるとそのカウンターは0にリセットされます。
リセットされる毎にそれまでの計数値の「平均」も表示され、その「平均」値から「成績」値が算出されるようですが、その演算式は判りません。
この方式の良い点は、○と×の比率の表示では無く、連続した○の回数を表示することだと思います。
例えば「現在」値が100点を越えていても、ちょっとした不注意で×があると、計数値は一瞬に0にリセットされますから、もう一寸、もう一寸と常に意識して運転することです。
テニスやピンポンでもラリーが何回連続出来るかと頑張りますね? それと似た心境です。
試供期間は1ヶ月なので、間もなく返却しますが、ちなみに今までの最高「現在」値は126,「平均」値は24,「成績」は45ですから、かなり悪い方だと思っています。
町中だけを走っていた時は「平均」が74でしたが、峠道は極端に悪くなりますね。
もう少しゆっくり走って加速/減速を減らせば良いことはよくよく判っています。(^^)
一旦停車や車庫入れなどの短時間停止/発進には反応しません。
この器械のセンサーは加速度計で、演算処理のアルゴリズムにも興味があったのですが、大体解明出来ました。
使っていらっしゃる方がありますか?
4月18日 「車保険会社の一ヶ月無償試供品」ですか・・・面白そうですね。
興味津々ですが、婆さんは断られるかな?
私はこの5月に車検を迎えます。
でも、最近はあまり走っていないし、年齢も年齢なので断られるかも?
使ってみた~いです(^_-)-☆
4月18日 年齢制限は無いと思います。ご遠慮なく!
実は私も昨日車検を済ませました。5月末頃が保険の更新時期です。
現在もどこかの任意自動車保険に入っていらっしゃると思います
が、その切り替え時期が近くて、且つ一ヶ月以上の余裕のある人が優先的だと思います。
向こうは自社へ切り替えて欲しいのだと思いますが、私のように「成績」の悪いドライバーにとっては切り替える意味が無いと思っています。(;_;)
先だってチャレンジ講習は通りましたよ。しかし『優しさ』とは別の次元です。(^_^)

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