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米子市における戦災の状況(鳥取県)

1.空襲等の概況

 昭和20(1945)年7月23日からは、山陰地方の本格的な爆撃が始まった。(米子市30周年史)

 米子市においても数回の空襲を受けるようになり、7月24日から28日にかけて艦載機の攻撃にさらされた。特に28日は、午前6時から午後4時過ぎまで、警戒警報、空襲警報の発令解除の連続であった。被害も28日に集中している。大谷町の変電所も攻撃され、駅前の旅館の家族4人と土間に逃げ込んだ3人はロケット弾により死亡した。
(鳥取県の戦災記録)


<防火訓練>

 


<勤労動員>

 

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2.市民生活の状況

 昭和17(1942)年、各官公庁、軍需工場では特設自衛団が結成され、昼夜を問わず抜打的に防空防火の訓練が実施された。8月13日からは、主食の配給が米1合8勺、麦6勺の混合配給となり、全ての物資は切符制ないしは配給制となって市民生活を圧迫した。

 昭和18年(1943年)には、簡素生活、更生生活に応える短袂(たんたべい)の実行、国民服・もんぺの着用運動、郷土食(代用食)や玄米食の励行を提唱した。満16歳から40歳までの男子、並びに25歳までの未婚女子は、全部職業能力を国民登録して徴用の対象におかれた。また、市役所職員も越冬用木炭自給のため、湊山公園の雑木を伐って露天焼に奉仕した。中小商工業者は、産業再編成の名のもとに転廃業を行わせられて時局産業へ動員され、小売業者の多い本市ではその蒙るところの打撃も大きく、商店街は全く火の消えたような寂れ方であった。

 昭和19(1944)年は、戦局もいよいよ苛烈となり、全学徒を動員して米川堤防、日野川河原や堤防に食糧の増産を試みた。この頃から集団疎開が計画された。日常生活はあるもので我慢する修理更生がはかられ、金属回収では、白金、金銀等貴金属、銅、鉄製品などを供出させた。分けても本市は、市庁舎の近代的な設備として誇った暖房放熱器まで供出した。勝田山を始め近郊要害地には、横穴式防空壕が掘られ、空手術や竹槍訓練が続けられた。

 戦局が最後の段階に突入すると、家財道具、衣料等が焼失しないように旧い縁故を尋ねて、日野郡や南部(法勝寺方面)の奥、畑などに疎開するようになった。

 昭和20(1945)年7月、緊急防空対策として重要施設への延焼を防ぐため、県は米子市に強制疎開地域を決定し、7月14日より軍の圧力を加えて施行を断行した。また、8月上旬には、第2次の準重要施設周辺の建物強制疎開が発表され、家屋の引き倒し作業は終戦当日まで行われた。その数は居宅、その他合計すると691棟であった。
(米子市30周年史)

 また、昭和20(1945)年4月県は、米子市校長会に「教職員ハ戦闘配置ヲ完備スベシ」「教育決戦運営ヲ断行スベシ」等の内容の「教育決戦指令案」を内示した。さらに7月には、「時局緊急対策ニツキ」1.二部授業を行う2.宿直強化3.学童疎開を指示した。米子市でも、宿直者を5、6名に増員し、女教師にも宿直させた。疎開児童を受け入れていた米子市が、所を変えて疎開を奨めなければならなくなった。(米子市初等教育百年史)

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3.空襲等の状況

昭和20(1945)年7月28日の米子市の被害

 昭和20(1945)年7月28日は特に空襲の被害が大きく、航空隊に勤労動員に出ていた生徒1名が機銃掃射によって死亡した。旧富益村では機銃掃射で1人が死亡。大篠津駅、弓ヶ浜駅も襲撃され2名の負傷者が出た。逓信省の航空機乗員養成所があった三柳飛行場も、激しい攻撃を受け負傷者が1人出た。「西部の空襲の主目標は大篠津の海軍航空隊であり、28日は早朝からロケット弾による兵舎炎上の黒煙がたちのぼり、艦載機は悠々と編隊を組んで日本海の上空を旋回していた。」「米子市内も28日はいたるところが攻撃され、米子駅、日本曹達米子工場を目標にロケット弾投下、機銃掃射が繰り返された。」「駅前の柏木旅館はすでに疎開になっていたが、その裏に住んでいた旅館の家族4人全員と、その土間に逃げ込んだ3人の計7人が死亡した。一家4人死亡は、本県被災中、その例を見ない悲惨事であった。駅舎をねらったロケット弾がそれたのだと、多くの証言者はいう。」
(鳥取県の戦災記録『米子市とその周辺の戦災』)

 同じ攻撃隊によって、山陰本線大山口駅では上り列車が遭難、切り割りに待避はしたが爆撃・銃撃を執拗に繰り返したため大きな被害を受け、その災害車2両を米子駅に曳行し、遭難死体43体をトラック2台に積んで火葬場に運び仮埋葬した。
(『米子市30周年史』)

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4.復興のあゆみ

食糧事情の悪化・失業・住宅難を乗り越えて

 出征者の復員、引揚者、疎開者の帰還などで人口が急激に増え、大凶作も重なり食糧事情が悪化したため、農村部へ買い出しに行ったり、市民の一部は大山原野で開拓をおこなったりした。また、失業や住宅難に苦しんだ。

 市は、建物疎開中途で放棄された家屋を買い入れ、市営住宅として応急対策を立てるとともに、213戸の新住宅を建設した。

 さらに、昭和25(1950)年には40年ぶりに県と市の共催で「鳥取県産業観光米子大博覧会」を開催し、戦後の混乱に久しく停滞していた世上の景気に大きな活力の源泉を与えた。これにより活気がもたらされた。
(『米子市30周年史』)

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5.次世代への継承

米子市英霊塔と米子市戦没者慰霊祭

 昭和41(1966)年10月、米子市飯山山頂に、米子市出身戦没者の霊を永遠に鎮め祀り、世界の恒久平和を祈願するため、米子市英霊塔が建設された。

 また、毎年10月頃に米子市福祉保健総合センターで、米子市主催による米子市戦没者慰霊祭を行っている。

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