総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 岡山市における戦災の状況(岡山県)

岡山市における戦災の状況(岡山県)

1.空襲等の概況

 昭和20(1945)年6月29日未明、岡山市上空に現れたB29は、寝静まる街をめがけて無数の焼夷弾を投下。空襲は警戒警報も発令されないうちに始まり、2時間にも及んだ爆撃の間、ついに一機の迎撃機も飛び立つことはなく、一発の高射砲の応戦もなかった。繰り返し波状攻撃を受けた市街地は猛火につつまれ、混乱した市民は逃げ惑うしかなかった。(以上、『写真で見る岡山の戦災』参照)

<焼け残った丸の内の民家 昭和20(1945)年>
内山下一帯は、焼失がひどく、多くの死傷者を出した地区である。
写真は、内山下・丸の内地区にありながら、奇跡的に焼け残った民家である。
注)参考文献 『岡山市史 戦災復興編』 岡山市史編集委員会

<焼け残った丸の内の民家>
(平成17(2005)年3月29日撮影)
焼跡に残った数戸の民家も現在では周囲に家が建ち並び確認できなくなった。
写真中央の岡山城は昭和41年に再建された。
木造ではなく、鉄筋コンクリート工法だが、外観はほぼ旧状どおりに復元され、岡山城は昔日の威容を取り戻したのである。

<公会堂筋(現在の県庁通り)から西を見渡す> (昭和20年8月撮影)
焼け野の町の向こうに焼け残った洋館が廃墟のように並ぶ。
左端が天満屋、その前の黒いのが日銀支店、中央に中国銀行、右端に日赤支部病院、天満屋と中銀との間に郵便局と電話局が見える。
手前右手の焼跡は市立女子商業高校。中国銀行については、数発の焼夷弾が命中するなどして、書庫は焼き尽くされたものの、鉄筋コンクリート造りであったことと、宿直行員らの懸命の消火活動によって軽微な被害で消し止め、焼失をまぬがれたとのことである。
注)参考文献 『岡山市史 戦災復興編』 岡山市史編集委員会

<公会堂筋(現在の県庁通り)から西を見渡す> (平成17年3月29日撮影)
現在の県庁通。左手に県庁、右手には市立女子商業学校の跡地で、戦後、その敷地は、丸の内中学校として使われ、平成16年9月に岡山県立図書館が新築開館した場所である。

<天満屋>(昭和20(1945)年8月撮影)
旧日銀岡山支店屋上から天満屋をのぞむ。
繁華をきわめた中央商店街の焼跡に立つは廃墟のような天満屋だけ。
天満屋の資料によると、被害総額は、約600万円で、当時の資本金220万円の約3倍にものぼっていた。
こうした状況の中、昭和20(1945)年9月1日には、復旧工事にとりかかり、10月10日には、1階南半分を売り場として、営業再開にこぎつけた。
注)参考文献 『岡山市史 戦災復興編』 岡山市史編集委員会

<天満屋> (平成17年3月29日撮影)
手前にビルが建設され、確認しにくくなっているが、現在でも輪郭などに当時の面影を残している。

<田町橋>(昭和20(1945)年8月撮影)
『田町橋は、明治43年はじめは木橋としてかけられ、昭和5年に現在のコンクリート橋となりました。
しかし、昭和20年6月29日未明の岡山空襲により田町橋周辺は特に大きな被害を受け、西川でも多数の人々が亡くなりました。』
(岡山市ホームページから転載)

<田町橋>(平成17(2005)年5月25日撮影)
『田町橋はかろうじて焼け残り、欄干に深い傷跡を残して、かつての大惨事の記憶を今に伝えています。』
(岡山市ホームページから転載)

<旧日銀屋上から南方向を見る> (昭和20(1945)年8月撮影)
日銀支店屋上から南方を望む。ただ一望の焼け野原。太い白線が内山下電車通。やや手前に栄町に入る筋が見え、上方の左に焼け残った三菱銀行支店がある。
市内電車については、6月29日の空襲により、電車3両の焼失や架線のほぼ全線使用不能により、全面運行休止となっていたが、必要な資材を京都まで買い出しに行くなど職員の尽力により、9月9日の岡山駅-東山間を皮切りに運行を再開していった。
注)参考文献 『岡山市史 戦災復興編』 岡山市史編集委員会

<旧日銀屋上から南方向を見る>(平成17(2005)年3月29日撮影)
一面焼け野原だった市街地も復興し、現在は遠方を見渡すことが出来なくなった。

ページトップへ戻る

2.市民生活の状況

 軍の防御も防空訓練も、米空軍の強襲を防ぎ得ないことを身をもって知った上に、今後も、焼け残り地域をしらみつぶしに空から焼き払うという流言まで広がった。空襲後5日目の7月4日、竹内寛市長は次のような実践即応の「緊急防空対策」を決め、市民の実行を促した。

  1. 家庭物資は日常必要品を残し、市外地へ移転させる。
  2. 各家庭防空要員(男女)は必ず残り、老幼者はできるだけ市外地へ転出 すること。
  3. 防火用水は直ちに三倍に増やし、水槽、バケツその他何でも水を入れる ものを用意すること。
  4. 各家庭に物入れ壕を至急に掘り、大火事で施す手段がなくなった場合 は、必要品を入れて土を被せて置くこと。
  5. 残留町内会・隣組では、防空監視哨を作って監視員をおき、敵機来襲の 状況を正確に伝達し、避難の場合は誘導に努めること。
  6. 初期防火に敢闘、特に付近に広場のある場合は、徹底的に防火に努め ること。(以上、『岡山市百年史・上巻』参照)

ページトップへ戻る

3.空襲等の状況

 この空襲により亡くなられた方は、1,700名以上、市民の100人に1人以上の割合で犠牲になったことになる。主な死因は、直撃弾によるものや火災による焼死のほか、防空壕や下水溝暗渠のなかでの窒息死も少なくなかった。負傷者は、6,000名以上、これは収容され治療を受けた方だけで、自ら手当をした人は含まれていない。被災者は10万人を越えた。

 また、中心市街地の70%近くが焼失し、県庁、市役所は全焼、各官庁の出先機関もほとんどが全滅し、岡山城を始め寺院等の文化財・建造物も多くが灰となった。(以上、『写真で見る岡山の戦災』参照)

ページトップへ戻る

4.復興のあゆみ

 焦土の中から出発した岡山市は、力強く復興への道を歩み始めた。昭和27(1952)年の10村合併により20万都市になり、市政発展の基礎を築いた。昭和34(1959)年頃からは岡山駅周辺整備、商店街の不燃化、市民会館落成、旧岡山空港の開港等、近代的都市づくりが急ピッチで進んだ。

 昭和37(1962)年には、第17師団の練兵場跡に造られた運動公園を主会場として、第17回国民体育大会が開催された。また、同師団兵営跡には新制岡山大学が置かれた。

 戦後半世紀の星霜を経て、市民の着実な努力により、岡山市は人口60万を越え、地域の中核都市として成長を続けている。
(以上、『岡山市史・戦災復興編』及び『岡山市百年史・上巻』参照)

ページトップへ戻る

5.次世代への継承

 昭和20(1945)年8月11日、戦災死没者慰霊祭が執り行われた。

 昭和29(1954)年に「平和像(西川緑道公園内)」、同30(1955)年に「岡山市戦災死者供養塔(門田本町三丁目)」、同55(1980)年には「戦災の碑(下石井公園内)」、同62(1987)年には「平和の像(石山公園内)」を建立した。

 平成2(1990)年からは岡山市主催による戦没者追悼式を無宗教献花方式により実施している。

 また、日本国憲法の恒久平和の理念に基づき、平和な社会の実現を目指して、昭和60(1985)年に「平和都市宣言」を行い、平成元(1989)年には、岡山空襲のあった6月29日を「岡山市平和の日」と定め、平和講演会・岡山戦災の記録と写真展の開催、被災建築物説明板の設置等、様々な平和祈念事業を行っている。戦後50年にあたる平成7年度には、世界の恒久平和を祈念し、「おかやま平和の灯」として約5,000基の行灯を点灯した。平成17年度は、戦後60周年という節目に当たっていることから、市民協働で「戦後60周年記念事業実行委員会」を組織し、シンポジウム・講演会の開催、戦争・戦災体験記の募集、戦後60周年記録映像「戦災と復興・発展 岡山の60年」や戦災体験の紙芝居「コッペパンの思い出」の作成を行うなどの事業に取り組んでいる。
(以上、『写真で見る岡山の戦災』参照)

ページトップへ戻る