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福山市における戦災の状況(広島県)

1.空襲等の概況

 福山に対する空襲が始まったのは、昭和20(1945)年6月からである。市の南東に位置した海軍航空隊への機銃掃射が、グラマン戦闘機によって繰り返された。7月終わりにはB29が1機飛来し、宣伝ビラが散布されたが、福山は爆撃予定都市に入っていた。

 そして、昭和20(1945)年8月8日午後10時25分ごろ、1発の照明弾が船町上空で炸裂、市街は一瞬真昼のように浮かび上がった。間もなく南方海上箕島上空から北東に進路をとったB29の大編隊が市内に進入、沖野上、奈良津、木之庄方面に火柱が上がった。後続の敵機はやがて周辺部から中心部へと旋回攻撃を開始、瀬戸の波に火柱が散り、低空を飛ぶB29の銀翼が紅に染まる。

 約1時間にわたって焼夷弾が投下され、市中は火の海と化し、市役所、警察、駅を始め主な建物、学校は瞬く間に焼け落ち、国宝福山城天守閣もまた福山の悲しみを象徴するかのように崩れ落ちた。

空襲が始まると大多数の市民は市郊外に避難を開始したが、防火活動に従事して逃げ遅れた人々、原子爆弾に対する防禦として防空壕から離れなかった人々、凄まじい炎と煙にまかれて逃げ場を失った人々等、多数の犠牲者が出た。

 夜明けとともに、幹線道路の確保、被災者の救済、遺体処理作業などが始まった。その活動が終わったのは9月6日である。

アメリカ軍の資料から

 福山が空襲の目標となった理由としては、つぎの点が挙げられている。

  • 川西航空機の部品組立工場がある。
  • およそ1〜1.5平方マイルの住宅密集地域がある。
  • 陸軍歩兵第41聯隊がある。
  • 日本の5大染料工場の1つである帝国染料工場と多くの小規模な工場がある。

 また、アメリカ軍の作戦では当初、昼間の爆撃が計画されていたが、出撃時に事故があり滑走路が使用できなくなったため、夜間爆撃に変更された。

<福山市戦災死没者慰霊の像(母子三人像)> (福山市人権平和資料館所蔵) 福山市中央公園にも慰霊碑として建立されている。

「8月9日の朝、火照るように暑い市内に入り、住吉町の水田の中に、母子3人の焼死体を見つけました。 母親は四つん這いになり、胸にすがりついた赤ちゃんを片手でしっかり抱き寄せ、まるで乳を飲ませているようなかっこうでした。 そして、その母親の後ろ足を6才くらいの子が両手でしっかりつかまえて、ひざまずいていました。着物などは焼けてしまって、遺体はまるで、ろう人形のようでした。 水田の中に入っていれば、水があるので助かると思ったのでしょうが、稲は焼け、水は枯れて母子はむし焼きになってしまったのです。」(故 荒木計三さん:談)

  • 注)母子像はこの情景をもとに製作されたものである。
  • 注)昭和47(1972)年3月 今城国忠さん(府中市出身・日展評議員)制作

<空襲直後の福山駅>(昭和20(1945)年8月9日)

<焦土と化した市街地>(御船町より北を望む。昭和20(1945)年8月9日)

<福山戦災地図>

 

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2.市民生活の状況

概要

 戦時体制下で生活が統制される中、市民は空襲に備えていった。

詳細

 諸物資が戦争に集中された結果、生活必需品の全てが統制下におかれ「自由販売」は厳しく禁止され、配給制・切符制が実施されていた。特に食糧に対する統制は市民を苦しめた。軍用米の増大と生産力の低下が一層拍車をかけた。福山地区では、供出の成績が予想外に伸びず、欠乏を免れなかった。こうした食糧の欠乏に対し、節米と称して二食主義・代用食・玄米食・大豆食そして共同炊事が奨励された。

 一方、「1戸1品献納運動」などのスローガンのもとに金属や鉄・銅製品を中心に廃品回収が盛んに行われた。学校の二宮金次郎像は陶製に変わり、寺院の釣鐘も供出された。また燃料対策として、「ヒマは兵器だワシ(鷲=飛行機)の血だ」としてヒマの栽培が行われたほか、松根油や松の脂の採取が奨励された。

 昭和19(1944)年に入って本土空襲が日常化するとともに、大都市の国民学校3年生以上の児童は強制的に地方へ疎開されることとなった。

 広島県東部4郡(沼隈・深安・芦品・御調)では、大阪市福島区の児童 4,250人を引き受けることになり、同年9月21日の第一陣2,400人を皮切りに疎開児童が続々とやってきた。児童は終戦に伴い帰阪するまで、地元民とともに生活した。(出典:『福山市史』)

戦争が進展するとともに、防空対策として、燈火管制が敷かれたほか、家屋の白壁には空から見えにくくするために、黒や茶色のペンキが塗られた。市民は、町内会あるいは各戸ごとに防空壕や防火水槽を造り、土嚢を用意した。そして、日常的に消火訓練、避難訓練及び竹槍訓練など、実戦さながらの訓練を行った。

 また、家屋の強制疎開といって、特定の家屋を強制的に解体して跡地を避難場所や貯水槽にした。昭和20(1945)年に入ると、衣料切符が交付されなくなり、衣料疎開が行われ、福山市から神辺に抜ける大峠街道は、連日連夜、衣料をのせた車や人の列が続いた。

 戦争が進展するとともに、防空対策として、燈火管制が敷かれたほか、家屋の白壁には空から見えにくくするために、黒や茶色のペンキが塗られた。市民は、町内会あるいは各戸ごとに防空壕や防火水槽を造り、土嚢を用意した。そして、日常的に消火訓練、避難訓練及び竹槍訓練など、実戦さながらの訓練を行った。

 また、家屋の強制疎開といって、特定の家屋を強制的に解体して跡地を避難場所や貯水槽にした。昭和20(1945)年に入ると、衣料切符が交付されなくなり、衣料疎開が行われ、福山市から神辺に抜ける大峠街道は、連日連夜、衣料をのせた車や人の列が続いた。

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3.空襲等の状況

概要

 昭和20(1945)年8月8日、福山はB29の爆撃により市街地の約80%が焼失し、1,000名を超える死傷者がでた。

詳細

罹災日時 昭和20(1945)年8月8日午後10時25分から約1時間
爆撃機数 B29 91機
焼夷弾の数量 約556トン・5,700発

出典:いずれも『第20航空軍戦術作戦任務報告書・米国戦略爆撃調査団』による

死者 354人
重傷者 122人
軽傷者 742人
市街地焼失面積 314ヘクタール
焼失比率 約80%(市街地に対する比率)
焼失家屋 1万179戸
罹災者数 4万7,326人(当時の人口5万8,745人)
罹災比率 約81%(全人口に対する比率)

出典:いずれも『福山戦災復興誌』

主な被災建物 福山駅、警察署、郵便局、市役所、消防署、税務署、裁判所、保健所、電話局等の官公署、南・霞・深津・引野・春日宇山分校の各国民学校、増川・門田・盈進・県立高女の各実業学校、女学校、福山城

被災地名

壊滅的な被災 笠岡町、今町、大黒町、桶屋町、上魚屋町、下魚屋町、鍛冶屋町、米屋町、府中町、深津町、船町、藺町、中町、大工町、奈良屋町、医者町、新町、神島町上市、神島町中市、神島町下市、紅葉町、桜町、新馬場町、築切町、東霞町、中霞町、西霞町、住吉町、西町、延広町、東堀端町、古宮町、三之丸町、福徳町、南町、寺町、東町、御船町、入船町、明治町、光南町、地吹町、御門町、古野上町、道三町、吉津町
大きな打撃 松山町、本町、三吉町、野上町、松浜町
一部焼失 胡町、天神町、桜馬場町、沖野上町、本庄町、木之庄町、北吉津町、奈良津町、東深津町、手城町、草戸町、多治米町、川口町、新涯町、深安郡引野村、深安郡春日村、深安郡市村、深安郡御幸村、深安郡千田村、沼隈郡水呑村
焼夷弾が投下されるも被害なし 芦品郡駅家村

注)被災当時の地名で表記

<炎に包まれる市街地 >(絵:藤原邦子さん:三吉町)「敵機、夜明けの空をゆうぜんと帰っていくのをこの目で見ました。」(原文のまま)。

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4.復興のあゆみ

概要

 昭和20(1945)年の戦災により、市街地の約80%が焦土と化したが、旺盛な市民の復興意欲と都市計画事業の推進などにより、急速に目覚ましい復興を果たすことができた。

詳細

 市民は、焦土の中から立ち上がり、復興に向けて力強く活動を始めるが、その活動を妨げたのが生活物資の欠乏であった。対応策として、市は昭和21(1946)年1月に生活必需物資総合配給所の設置を計画し、翌2月に建物が完成した。

 しかし、当時は配給物資の価格が一般市価を上回ったり、配給が円滑を欠いたりすることがあったため、円滑な流通を図るためには、信用ある商人に事務を委ねた方が良いということになり、配給所は、用途変更の後、福山市公認市場としてスタートした。

 また、緊急を要する課題として挙げられたのが、住宅の建設であった。昭和22(1947)年度までに簡易住宅1,624戸、翌昭和23(1948)年に分譲木造住宅130戸が建設された。
(出典:『福山市史』)

 復興への歩みが進められる中で、市は昭和21(1946)年4月、復興計画の立案に着手した。当初の「復興5ヶ年計画」の大要は、次のようなものであった。

  1. 人口 人口規模を当時の市域で6〜10万人と想定し、できれば隣接町村との合併によって20万人をめざす。
  2. 産業構造 工業中心の産業構造に再編する。
  3. 商業地域 駅前区域に商業地域の形成を図る。
  4. 交通・工業配置
    • 福山港を整備し、周辺に工業専用地域を配備する。
    • 福山駅の東方1.4km地点へ貨物駅を設置し、港や工業地域へ結びつける。
    • 市街地の西側にも染色工場など地場産業育成のための西方工業地域を設定する。
    • 国道を南に下げて奥地からの道路をこれに入れ、さらに港を経て市街の南側を囲む南方環状路線を建設する。

 この計画は「戦災復興特別都市計画」に指定され、開始から30年を経た昭和50(1975)年に完了した。

<戦災後の福山市街> 昭和21(1946)年

その後の福山市のあゆみ

 福山市は、昭和31(1956)年に隣接10町村と合併し、国道などの基盤整備を進めて、山陰、山陽と四国を結ぶ産業・文化・交通の要衝都市として急速に成長を遂げた。

 福山は、古くから地場の繊維産業を基盤とする地方都市であったが、昭和36(1961)年の単一工場としては世界最大といわれる製鉄所の立地決定により、都市のあり方が大きく変わった。昭和39(1964)年には備後工業整備特別地域の指定も受け、わが国経済を担う重工業都市へと転換した。

 昭和37(1962)年に深安町と、昭和41(1966)年に松永市と、昭和49(1974)年に芦田町と、昭和50(1975)年に加茂町・駅家町、平成15(2003)年2月に内海町・新市町と合併を重ね、今日では、市域430.28平方キロメートル、人口約41万人を擁する、中国地方では4番目の都市となっている。

 1980年代には都市化の進展に合わせて、道路・公園・清掃工場などさまざまな都市機能の整備を進めるとともに、平成6(1994)年のふくやま芸術文化ホール(リーデンローズ)、平成7(1995)年の緑町公園屋内競技場(ローズアリーナ)など文化・スポーツ面の施設整備、平成12(2000)年のリサイクル工場・プラザ、平成13(2001)年の福山すこやかセンターの開館など環境・保健福祉面の施設整備、平成5(1993)年の山陽自動車道の開通や広島空港の開港など高速交通基盤の整備も進展している。

 また、平成5(1993)年には福山地方拠点都市地域の指定を受け、さらに平成10(1998)年4月には中核市へと移行する中で、福山市を中心とした中核都市圏の形成に向け、「50万都市」が有する都市機能の整備を目指し、さまざまな取り組みを進めている。

 このように都市の成長とともに、21世紀にさらなる飛躍を遂げるため、福山市は備後地域の中核都市として、「人間環境都市」を基底に、「輝く瀬戸内の交流拠点都市・個性豊かなばらのまち福山」を将来都市像として位置づけ、その実現に向けて取り組んでいる。

<現在の福山駅前>

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5.次世代への継承

概要

 福山市では、戦災で亡くなられた方の冥福を祈るとともに、平和の大切さを後世に伝えるために、原爆・福山戦災死没者慰霊式、市民平和のつどい・市民平和大会を開催している。

詳細

  1. 原爆・福山戦災死没者慰霊式

     昭和20(1945)年8月8日の空襲により、戦災死された市民の方々の冥福と平和を祈念するため、昭和29(1954)年から毎年8月8日に原水爆禁止運動福山推進連盟の主催で慰霊式を開催している。

    また、昭和44(1969)年当時の福山市議会議長から慰霊碑建立の発議があり、市制55年記念事業として建設することとなり、昭和47(1972)年福山市中央公園内に母子3人像(福山戦災死没者慰霊碑)を建立し、以後、同碑前で慰霊式を行っている。
  2. 市民平和のつどい・市民平和大会

     「福山空襲の日」の8月8日、平和の尊さを市民総ぐるみで考える1日とするため、福山市・福山市教育委員会及び原水爆禁止運動福山推進連盟の共催で、毎年、市民参加の音楽祭や講演会などのイベントを開催している。

    また、この日と前後して平和や福山空襲に関する企画展も行っている。

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