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函館市における戦災の状況(北海道)

1.空襲等の概況

函館空襲

 第二次世界大戦の敗戦間際の昭和20(1945)年7月14日・15日の両日、東北・北海道はアメリカ海軍機動部隊による攻撃を受けた。函館は古くから北海道と本州を結ぶ交通の要衝で、道内産出の石炭や食糧の本州向け積出港となっていた。このため、輸送手段の中心であった青函連絡船やその関連施設が攻撃対象となり、青森や函館港内、津軽海峡の各所で運航中の連絡船12隻のうち、沈没・座礁炎上が10隻、損傷が2隻、旅客・乗組員合わせて負傷者72名、死者・行方不明者425名(『青函連絡船50年史』)の被害を出すなど、輸送網は壊滅的な打撃を受けた。物資の輸送に当たっていた他の船舶にも被害は及び、149隻の小型機帆船、17隻の貨物鋼船が沈没又は損傷している。

 それに比べると、陸上の函館市街での被害は少なかったが、市内も各所が攻撃を受け、機銃掃射や爆弾の投下によって、西部地区の一部、現在の弥生町周辺では火災が発生して、約400戸の住宅が罹災し、全市で少なくとも79名の死亡が確認されている(『函館市史』統計史料編、「函館空襲に関する米国戦略爆撃調査団報告」『地域史研究はこだて』第10号、「〈ルポタージュ〉函館空襲を追って−埋葬許可証の発見から−」『地域史研究はこだて』第6号)。

 これらの戦災によって被害を受け、家族を失った連絡船船員家族、焼け出された市民は、戦後も苦しい生活を余儀なくされることになった(記述の内容は主に『函館市史』通説編第3巻によった)。

<爆撃を受ける連絡船>
(米国国立公文書館蔵、青森空襲を記録する会提供)

<爆撃を受けた函館駅構内>
(米国国立公文書館蔵、青森空襲を記録する会提供)

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2.市民生活の状況

 昭和12(1937)年7月日中戦争が勃発すると、治安維持が強化され、「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」を目標とする国民精神総動員のスローガンが掲げられ、13(1938)年5月には戦争協力強化を目指して国家総動員法が施行された。その後も続々と米穀配給統制法、国民徴用令、生活必需物資統制令などの統制が実施され、国民生活にも大きな犠牲と窮乏を強いる総力戦へと向かっていった。

 戦時体制を支える組織として、昭和14(1939)年12月には、数戸から30戸程度で「家庭防火群」が、昭和15(1940)年12月には、内務省の訓令によって57町会(さらに約100戸の隣保部、約10戸の隣保班が置かれる)が結成されて、これらを通じて、バケツリレーでの消化活動を行う防空訓練などが実施されるようになった。

<警防団による防火訓練>
(三瀬哲秀氏提供)

 また、市民レベルでの浸透を図るため、昭和14(1939)年には市民戦時対応生活刷新実践要綱が制定されている。この要綱は 「第1 家庭精神に関する事項」をはじめ全15項に及ぶもので、その内容は「一、白米食を、胚芽米・七分搗米、或は玄米食等に改めること」、「三、戦時中は特に間食をやめ、子供又は老人のために已むを得ないものには衛生上善いものを考へ、而も安価なものを選ぶこと」、「酒・煙草の類は、今までより少なくとも二−三割程度節約すること」などであった。当初は、努力目標的であったが、戦局の悪化とともに、次第にその実質化がすすみ、商店の深夜営業の禁止(昭和13年)、商店街のネオンやイルミネーション、広告塔、屋外投光器の設置が廃止(昭和15年)、デパート・商店初売りも休止(昭和16年)となり、商店街の活気も失われていった。

 教育現場も、国体に基づく修練の場とされ、昭和16(1941)年、国民学校令によって、小学校が国民学校に改められた。昭和13(1938)年には、庁立函館中学校が柏野総合運動場内プール造成基礎工事への奉仕作業に従事など、市内各校で集団勤労奉仕が開始され、昭和18(1943)年に「学徒動員体制確立要綱」が閣議決定されるなど、食糧増産、国防施設建設、緊急物資生産への動員が強化されていった。この間庁立函館中学校での例を挙げると、五稜郭操車場土木工事、亀田村援農、港湾荷役などへの勤労動員が実施され、昭和20(1945)年には、教育機能は停止したまま遠くは道北の名寄の製材作業、枝幸郡中頓別町、道央の上川郡新得町、道東の厚岸郡浜中村などで援農が実施されている。市内の函館船渠(株)などの造船、鉄工所といった軍需産業では、19(1944)年3月には、労働力不足が深刻となり、女子挺身隊、中等学校生徒、国民学校高等科生徒が動員されるようになった。日魯造船所の場合は、従業員295人中、自社従業員85名、動員学徒140名(高等経理学校20名、的場国民学校40名、追分国民学校80名)、女子挺身隊員30名、男子徴用工40名であった。

<勤労作業>
(函館白百合学園『百周年記念誌』)

<軍需工場で働く遺愛女学校の生徒>
(昭和20年3月11日付「北海道新聞」)

 さらに昭和19年以降、アメリカ軍機による空襲の激化に伴って大都市部での疎開が実施されている。函館では昭和20(1945)年7年の空襲前後から学童の疎開が実施されるようになった。柏野国民学校の疎開状況を見ると、昭和20年7月25日から8月19日までの短期間であったが福島町の吉岡で行われているが、「勉強よりも食料調達(山菜や海草取りなど)が主だったこと」、「下痢など体調を崩すものが多かったこと」、「シラミやノミに悩まされたこと」、「はじめはものめずらしさに心が弾むものの、数日後に逃げ出す者が出るなど帰りたい思いは皆共通だった」という(『道南女性史研究』第9号、『証言日本最後の学童集団疎開』浅利政利、などに証言が収録されている)。

<疎開先の高盛国民学校の児童たち>
(昭和20年8月7日付「北海道新聞」)

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3.空襲等の状況

 昭和20(1945)年7月14日、北海道の太平洋沿岸に接近したアメリカ艦隊の第3艦隊第38機動部隊から発進したグラマン50余機が早朝午前5時ごろ、横津岳方面から飛来して、午前11時ごろまで波状攻撃を繰り返した。函館を襲ったのは、同隊の第3任務軍の空母「ランドルフ」、「モントレー」、「バターン」の艦載機で、アメリカ軍の主な狙いは、港内および津軽海峡を航行中の連絡船であったが、一部市街地にも爆弾が投下され、機銃掃射も行われた。

<来襲したアメリカ軍の艦載機>
(米国国立公文書館蔵、青森空襲を記録する会提供)

 さらに午後1時43分頃にも第2波の攻撃によって、警戒警報、続いて空襲警報が発令され、午後4時20分に空襲警報が解除されるまで、グラマン約30機による攻撃が続けられた。午後3時ごろには、駒止町(現弥生町付近)に投下された爆弾によって家屋12、3棟が破壊されて火災が発生し、満足な消火活動ができない当時の状況や、家屋が密集していたこともあって火は燃え広がり、駒止町、旅籠町、天神町、船見町、鍛冶町の各一部(町名は当時)など、全市で397戸の住宅が被害を受けた。多くの市民が函館山山麓に逃げ込んでいたので死傷者は少なかったが、この時に重傷を負った市民は、

「2階の窓から函館湾、津軽海峡を見ていると、アメリカ軍の飛行機の爆弾が命中して、青函連絡船があっという間に海中に沈んで行くのが見えるのです。あ!連絡船が沈んだ。どうしよう!と言って見ていたのも束の間、自分の家から5〜6メートル離れた道路に物凄い音がしたかと思うと同時に爆弾が落ちて家を倒してしまったのです。」

さらに、
「アメリカ軍の飛行機が2階建の家すれすれに低空に飛んで来て、機関銃で人の姿めがけてダダダーと打ちまくってくるんです。」
「爆弾の破裂で家が一瞬のうちに倒れてしまったんです。」、
「アッと声をあげたが、その後、十数分気絶して何一つ意識していませんでした。」

気が付くと、
「右肩の骨がグチャグチャに砕かれて、垂れ下がり、左の腕は肉がエグリ取られ」

血だらけの重傷を負い、市立函館病院へ運ばれて行ったこと、その後、家財一切を失い、生活が厳しかったことを語り、また、自らも機銃掃射での被害を受けた市民は、逃げる時間もなく、

「しゃがみ込む位にするのが精一杯です。危険だ!私はしゃがみ込んで、息をこらしていた。すると玄関の近くにいた友人が、逃げ出したんです。外の方へ後ろ向きに走ったとたんに、爆弾で一瞬のうちに、友人は、首が吹っ飛んでバラバラになる程の体に変わって、血だるまになって倒れていました。」

そして家々が押しつぶされ、
「火災が発生して、家から家へどんどん燃え広がり、煙がもうもうと立ちこめていました。あっという間に火が移っていました。」
と語っている。

(『教えてください、函館空襲を』浅利政俊)

 この他、松風町交差点付近や連絡船の桟橋構内の待避壕などにも爆弾が投下され、郵便物積み出し作業中の多数の郵便局員が死亡するなど、埋葬許可証からは市内で79人の死亡が判明している。

 また、2日間にわたる攻撃によって、青函連絡船や桟橋などの関連施設は大きな被害を受け、14日の時点では唯一無傷であった第一青函丸も翌15日に撃沈されて壊滅した。被害状況は表1のとおりであった。

表1.戦災連絡船一覧

船名 日時 種別 位置 乗組員数(人)
死亡 負傷 生存
翔鳳丸 7/14
15:55
沈没 青森港第2号浮標より北東2マイル 47 10 38 95
飛鸞丸 7/14
15:40
沈没 翔鳳丸沈没点の東方100メートル 17
14
5 75
42
97
56
津軽丸 7/14
15:10
沈没 北海道上磯郡狐越岬東方4マイル 75
52
 
1
24
17
99
70
松前丸 7/14
7:20
座洲炎上 函館港第3防砂堤北西方1,000メートル 22 5 68 95
第一青函丸 7/15
14:40
沈没 青森県東津軽郡三厩港入口灯台の東方1,000メートル     76 76
第二青函丸 7/14
15:30
沈没 青森港第2号浮標より北20度東1マイル 21 11 33 65
第三青函丸 7/14
7:30頃
沈没 北緯41度28分東経140度28分矢越岬の南南東3.8マイル 64 9 4 77
第四青函丸 7/14
6:18
沈没 北海道上磯郡葛登支岬灯台より真方位125度3.9マイル 54 3 21 78
第六青函丸 7/14
14:00頃
座洲炎上 青森県野内港北緯40度51分36秒東経140度49分36秒 32 18 23 73
第七青函丸 7/14 損傷 函館港内     80 80
第八青函丸 7/14 損傷 函館港内     80 80
第十青函丸 7/14
7:30
沈没 函館港防波堤灯台の北北西約600メートル     76 76
亜庭丸 8/10
10:30頃
沈没 青森県東津軽郡茂浦島真方位57度3分3.7ケーブルの点  
27
 
10
106
72
106
109

『青函連絡船50年史』より作成

  • 注)1  死亡者には行方不明者も含む。
  • 注)2  飛鸞丸乗組員のうち太字は船員養成所教官を、亜庭丸乗組員のうち太字は警戒隊員を示す。
  • 注)3  津軽丸の太字は、旅客を示す。
  • 注)4  亜庭丸は、本来稚内・大泊間の定期連絡船で、たまたま函館ドックに入渠中であった。

連絡船の船員や軍人、一般市民など被害を受けた人たちが運ばれた市立函館病院では、医療器具や医療従事者の不足によって、満足な治療も出来なかったようで、

「重傷者を乗せたトラックが何台も横付け」になって、「次々に下ろされる患者は、外来診療室病室のベッド、そのベッドの下の床面、動けない重傷者で埋まっていました。足の踏み場もないのです。鮮血の患者をまたいで、救急措置に歩いたんです。」、
「死亡者を置く霊安室や、その近くの廊下にも何十人もの死体が山のように並べられました。」

という状況で、空襲にあって重傷を負った市民の治療もすぐに行われず数日後であったという。

(『教えてください、函館空襲を』浅利政俊)

 戦後、函館を訪れた米国戦略爆撃調査団の報告によると、このとき市街に落とされたのは、爆弾21個、ロケット弾13発で、被害地点は図1のとおりであった(詳しくは「地域史研究 はこだて」第10号)。

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