総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 室蘭市における戦災の状況(北海道)

室蘭市における戦災の状況(北海道)

1.空襲等の概況

1-1.北海道庁立室蘭女学校(現室蘭清水丘高等学校旧校舎)の防空壕

 昭和16(1941)年10月から12月にかけ、女学生の手で、用材の伐木(裏山や測量山)構築にあたった。学校の裏山に造成した防空壕は第1号から第5号まであり、緊急時、天皇皇后の御真影、勅語、謄本などは第4号防空壕へ移転することになっていた。昭和20年3月の決戦教育措置要綱で1ヶ年の授業停止になると女学生も総動員体制へ。4年生・専攻科生は大工場・病院、陸運関係企業へ。3年生は援農1、2年生は留守部隊として、軍衣の洗濯、補修、軍用たばこ代用の「いたどり」の採集と乾燥等(各学年250人)、特に2年生の学校近辺の生徒は学校防護隊員として警報と共に登校、解除で下校の日々を送った。昭和18年からは4年生が室蘭飛行場造成作業にも従事している。

 なお、御前水(ごぜんすい)、輪西(わにし)、御崎(みさき)、中島地区の民間の防空壕は昭和20(1945)年7月15日の艦砲射撃によって全滅の状態であった。

ページトップへ戻る

 

1-2.室蘭飛行場

 昭和20(1945)年7月10日、米機動部隊は関東地区を攻撃した後北上し、7月14日東北、北海道を空襲。攻撃は殆ど奇襲に近かった。室蘭地区では午前7時30分頃から、室蘭港上空に侵入した艦載機約40機(白老監視哨報告94機)は、港内の海防艦2隻、汽船4隻、機帆船5隻、電信浜沖を航行中の大型汽船3隻を撃沈させ、市街地中心部を機銃掃射し洋上の母艦に帰投。米空母「シャングリラ」「ヨークタウン」の資料には500ポンド爆弾を投下とある。陸上では函館船梁(ドック)室蘭造船所で岸壁にけい留され、修理中の戦時標準貨物船「永歴丸」(6,850t)は真二つに裂け座礁、構内の倉庫、工場に4発直撃し、仕上機械工場は鉄骨の枠のみ残った。

 室蘭市民頼みの室蘭防衛軍は、艦船や市内ビル屋上、機帆船からの機銃による対空砲火は熾烈(しれつ)であったが、丘陵地区の防衛陣地は沈黙、室蘭飛行場からは1機も飛び立たなかった。この日の人的被害は死者12人負傷7人であった。

ページトップへ戻る

 

1-3.室蘭飛行場(八丁平飛行場)

 昭和10(1935)年、八丁平(現高平町)の市有地に延長300M、幅11.5Mの滑走路を造成していたが、地ならしのままであった。昭和18(1943)年に入ると陸軍は室蘭防衛のため、拡張工事を始めた。軍人だけでは労力不足のため、小学校高等科生、中学生、女学生、市民の勤労奉仕が頼りであった。滑走路は長さ550M、幅20Mに拡張。スコップ、ツルハシ、モッコなどでの造成は大変な苦労であり、特に、町内会は毎日、男女を問わず、強制的に割り当てられ、食糧難の中、空腹に耐えての土木作業はきついものであった。同18年、飛行第63戦隊の「九七戦闘機」の一部が一時駐屯したが転戦、その後、第一飛行師団、第20飛行団に所属する飛行第54戦隊の「一式戦闘機2・3型」いわゆる「隼戦闘隊」は丘珠に主力をおき、室蘭飛行場には分遣隊、即ち第二中隊が防衛の任に当たっていた。尾翼には折鶴のマークがついていたので、折鶴部隊と呼ばれていた。この滑走路は最初板張りで飛行機が飛び上がりパイロット泣かせであったという。後に芝生となる。終戦時には「九七式戦闘機」が3機(うち2機は故障)、軍用トラック約100台、航空ガソリンドラム缶が残存していた。7月14日、15日の空襲、艦砲射撃には一機も飛びたっていない。現在は高等学校、住宅の文教地域に変身している。(写真は「丸」昭和52年12月特大号より)

ページトップへ戻る

 

1-4.「陸軍一式戦闘機=隼」の残がい

 昭和20(1945)年7月14日の空襲時、第54戦隊は14日早朝米機動部隊の迎撃態勢をとるため、羊蹄山上空4、000 Mの位置に集合する予定であったが丘珠の司令部からの命令で出撃中止。搭乗員は、近くの壕に退避中、1機が被弾破壊された。室蘭市民は管制下、「隼」が室蘭飛行場に配置されていたことは全く知らなかった。ここは戦後、米軍が管理し、昭和22(1947)年3月解除、市はローカル飛行場としての運動を進めたが実現しなかった。(写真は「丸」昭和52年10月特大号より)

ページトップへ戻る

 

1-5.艦砲射撃による中島町日鉄社宅街の惨状

 砲弾の落下地域は、日鋼の近辺の御前水(ごぜんすい)、御崎町(みさきちょう)の民家、日鉄近くの輪西町(わにしちょう)市街地及び誤爆と考えられる中島町日鉄社宅を巻き込み、防空壕もろとも飛散したり埋没したり、木造家屋は、簡単に吹き飛ばされ破壊された。現在、中島本町の新日鉄社員アパートの一角にある小公園には、同社社宅民和会の手で昭和34年に慰霊碑が建立され、碑文にはこの近辺で192人の犠牲者があったと記されている。室蘭八幡宮神社の境内に建立されている空襲、艦砲射撃犠牲者の碑と共に毎年7月15日には多くの人々の参拝が続いている。

ページトップへ戻る

 

1-6.艦砲射撃・昭和20年7月15日

 「アイオア・ミズーリ・ウイスコンシン」の戦艦3隻を中心に巡洋艦2隻、駆逐艦9隻からなる米海軍機動部隊は、7月15日朝室蘭沖28KM前後の海上に現れた。目標は、日本製鋼所室蘭製作所と日鉄輪西製鉄所(現新日鉄)で戦艦から攻撃した砲弾は860発であった。16インチ砲弾(高さ170 CM・重量1225KG)は9時36分から10時30分まで約1時間にわたり室蘭の両工場のみか、周辺の御前水・御崎・輪西・中島町の市街地や社宅を襲った。米国戦略爆撃調査団の報告によれば総数427人が死亡、109人が重軽傷とあるが(日鉄構内で75人、日鋼構内では14人の死亡者)、犠牲者の大部分は一般市民であった。

ページトップへ戻る

 

1-7.16インチ砲弾の穴

 日鉄から東側は湿地帯であった。固い土地で爆発しようものなら10mもの大穴が残る。湿地のため広さは余りないが、この地区には、写真のような穴がいたる所にあり、水が溜り戦後は子供たちの遊び場になった。現在は埋め立てられて市街地に変化している。

ページトップへ戻る

 

1-8.日鉄の鋳造工場の破損状況

 日鋼に次いで標的になった日鉄の被害は大きかった。日鋼では被害を最小限にとどめるため前もって用意していた油に火をつけ、煙幕を張った。上空を飛んでいた偵察機と戦艦の交信記録には「日鋼は全滅の模様」とある。そのあと日鉄の攻撃に移った。各工場のスレート製の屋根や側板が粉々に吹き飛ばされ、日鉄で作製した鉄製防空壕の中に砲弾の破片が飛びこみ、中に避難していた10数人の従業員は寸断され、目を覆う惨劇を現出した。

 鉄を過信した1つの悲話である。

ページトップへ戻る