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船橋市における戦災の状況(千葉県)

1.空襲等の概況

 船橋市域での戦災は、散発的な空襲のみであり、大規模な空襲はなかった。ただし、東京に近いため、東京空襲に付随すると思われる爆弾・焼夷弾の投下が不特定の場所に延べ10回以上もあった。その多くは、海上や田畑・山林へ落下したものであったが、中には工場近くや市街地に爆弾・焼夷弾が落下したものもあり、建物の倒壊・焼失等の被害を受け、死者も出ている。

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2.市民生活の状況

2-1.概要

 市内には軍需工場が進出し、東京からの疎開者の集落も形成された。

2-2.詳細

 現船橋市域の内、昭和10年代に市街地であったのは本町通り一帯、漁師町一帯、船橋大神宮周辺、国鉄及び京成船橋駅周辺、下総中山駅周辺、京成中山駅周辺等の一部地域で、他は農業地帯と軍用地であった。昭和16(1941)年から昭和18(1943)年にかけて東京等から市の海神郊外に移転した機械工場等が軍需工場に指定され、その中で最大の日本建鉄では航空機の部品を製造した。そのため、工場労働者等が流入し、昭和12(1937)年の日華事変勃発時に4万3000人であった市の人口は、昭和17(1942)年には6万人余に増加した。

 その軍需工場や陸軍軍医学校中山出張所、水産化学の工場等へ県立船橋中学校生や船橋高等女学校生等が学徒動員された。

 また、夏見台地には工場労働者等の住宅団地が造成され、海岸の埋立地には現東京都江東区から強制疎開による移住者の集落ができ、都疎浜と呼ばれた。

 なお、市域の大半を占めた農業地域は比較的戦禍の影響を受けずに終戦に至った。

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3.空襲等の状況

3-1.概要

 昭和19(1944)年から昭和20(1945)年に散発的な空襲があり、建物が倒壊・焼失等の被害を受け、死者も出ている。

3-2.詳細

 建物等の被害の出た最初の空襲は昭和19(1944)年12月20日夜のもので、行田町(現在、山手2丁目)の日本建鉄社宅2棟4世帯が焼失した。昭和20(1945)年2月25日午後には小栗原町1丁目(現在、本中山1丁目)に空襲があり、5軒が焼失した。同日宮本町4丁目(現在、宮本6丁目)にも空襲があり天理教船橋分教会建物と隣家物置が倒壊し、本郷町(現在、西船5丁目)では焼夷弾により民家2軒が焼失した。同年3月10日夜半の東京大空襲の際、当時の二宮町役場(現在、二宮出張所)周辺が空襲を受けて役場が全焼し、他に滝台で5軒、前原で3軒、田喜野井で1軒等延べ十数棟が焼失した。同年7月に海神天沼(現在、本町7丁目)付近が空襲を受け病院と民家が焼失したが、日時等は未確認である

 昭和20(1945)年11月第一復員省発行「大東亜戦戦災被害状況概見図」によれば、船橋市の死者は2人とあるが、これは昭和20(1945)年2月25日に海神町北1丁目で爆弾により女児死亡とする市民からの情報と、同年7月ころ国鉄船橋駅北方で子供1人焼死とする当時の船橋駅助役からの情報によるものと推定される。

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4.復興のあゆみ

4-1.概要

 軍用地の開拓や宅地化が進み、鉄道網の発達と団地の造成により人口が急増した。

4-2.詳細

 市域で散発的な空襲はあったものの、中心街は被害を受けず、大戦中に海岸埋立地に疎開者集落が出来るなど、船橋市は人口増加が継続し、昭和21(1946)年の人口は7万7000人となった。

 一方、軍用地の習志野演習場は開拓地として開放されて畑作地に転化した。

 また、漁業集落と近隣農村を擁する船橋中心街は食糧・物資の豊富な街として知られ、東京の大規模市場が本格稼働するまでは"日本の上海"と称されるほど闇市で賑わった。

 昭和28(1953)年に二宮町、昭和29(1954)年に豊富村を合併した船橋市は面積が倍増した。その中の二宮町の旧軍用地は急速に宅地化が進んだ。

 戦後の船橋市域は、東京圏の拡大に伴う鉄道網の発達によって、昭和30年代以降人口が急増した。昭和30年代半ばから50年代にかけて8か所の公団団地が造成され、民間団地も多数造成された。人口は昭和39(1964)年に20万、昭和44(1969)年に30万、昭和49(1974)年に40万と爆発的に増加し、昭和58(1983)年に50万を突破した。

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5.次世代への継承

5-1.概要

 昭和61(1986)年に平和都市を宣言し、世界の恒久平和を願う。

5-2.詳細

 船橋市では、昭和61(1986)年12月19日に「平和都市」を宣言した。この宣言を記念し、毎年8月に平和の集いと題して平和講演会や平和映画祭を開催し平和に関する啓発事業を行っている。
また、毎年10月には、先の大戦で亡くなられた御霊(みたま)の冥福を祈り、このような悲しみを繰り返さないよう戦没者追悼式を行っている。

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