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品川区における戦災の状況(東京都)

1.空襲等の概況

 昭和7(1932)年10月1日、品川町・大井町・大崎町・荏原町は、東京市と合併し、新しく品川区・荏原区に生まれ変わった。第一次世界大戦前後から、資本主義の急速な発展につれて、首都東京への資本や人口の集中・集積が著しくなり、隣接町村へも次第に都市化の波が浸透してきた。特に関東大震災は隣接町村の宅地化・都市化を一挙に推し進める最も大きな契機となった。こうして東京市はここに新しく20区を加え計35区、人口497万人となり、ニューヨーク市に次ぐ世界第2位の大都市へと躍進した。

 品川・荏原両区における被害状況は、罹災面積では、品川区で10.16km2のうち3.90km2(罹災率38.39%)、荏原区で3.8km2のうち3.68km2(罹災率95.78%)となっている。特に荏原区は35区中最高の罹災率で、区のほとんど全部が焼き尽くされた。罹災者は昭和20年6月15日現在で、品川区で48,668人、荏原区で70,399人であった。

 また、品川・荏原両区の戦災者は20万人以上、死傷者は約5,000人にのぼった。

 人口の推移を見ると、品川区は昭和19(1944)年2月が214,274人、11月が166,376人、20年2月が149,853人、5月が126,937人、6月が98,064人、荏原区は昭和19年2月が181,497人、11月が146,736人、20年2月が127,706人、5月が93,993人、6月が59,673人と記録されている。(品川区史より)

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2.市民生活の状況

学童疎開

 学童疎開は、昭和18年後半から縁故疎開が行われていたが(昭和19年4月1日現在、品川区3,460人、荏原区2,268人)、昭和19(1944)年6月30日の「学童疎開促進要綱」の閣議決定を受け、東京・大阪の国民学校3年生以上6年生までは、保護者の申請を受けて集団疎開させることとなった。

 品川区の学童は、対象児童が13,647人、疎開児童概数8,500人、疎開先は東京都市部、荏原区は対象児童が14,140人、疎開児童概数6,700人、疎開先は静岡とそれぞれ割り当てられた。
こうして、全体では9月までに約20万人の学童が親元を離れることとなった。

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3.空襲等の状況

 昭和17(1942)年4月18日、アメリカの空母から発進したB25爆撃機13機が東京を初空襲した。さらに昭和19(1944)年11月24日にはサイパン島発進のB29爆撃機が東京を空襲し、以後B29による各都市への空襲が本格化した。

 東京に対する空襲は、終戦までに122回に及び、多くの被害を出した。

 品川・荏原両区において最大の被害をもたらした空襲は、昭和20(1945)年5月24日のものであった。この日の空襲では、品川・荏原両区のほとんどの地域が火に包まれ、品川区では死者68名、重傷者573名、全焼家屋9,540戸、罹災者34,459人にのぼり、荏原区は死者184人、重傷者1,712人、全焼家屋15,000戸、罹災者60,000人にのぼった。(東京都戦災誌・品川区史より)

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4.復興のあゆみ

 荏原区と品川区が合併し、新しい品川区が誕生したのが昭和22(1947)年3月15日。同年4月には区長公選が実施された。この時期に品川区がまず取り組んだのは、戦災で焼失した学校の再建だった。しかし、増え続ける児童の数に学校建設が追いつかず、やむなく二部授業が行われた。また、道路の修復や立会川・目黒川の橋の修復など、戦災で荒れた基盤整備が進められた。

 高度成長期へと向かう昭和30年代には、品川区の人口も増えつづけ、昭和35(1960)年には40万人を突破。このころの品川区は、膨らみ続ける人口に対応するため、20年代に引き続き、施設建設と基盤整備に追われる日々が続いた。また、昭和37(1962)年からは住居表示の変更が行われた。一方、東京湾の埋め立てに伴い、品川の伝統的産業だった漁業や海苔づくりが姿を消していくこととなった。

 共働きの家庭が急増した昭和40年代には、保育園の増設とともに都内で初めての0歳児保育を実施。さらに、児童センター・学童保育クラブの整備や児童遊園建設も急ピッチで進められた。一方、昭和47(1972)年には、23区で初めて、区長の「準公選」が実施された。また、新しく建設された総合庁舎に大型コンピューターが導入され、電算化時代の到来を告げた。

 「区長公選」で始まる昭和50年代は、財政危機に見舞われる一方、長期的展望にたった計画的な都市づくりのために、長期基本計画の策定を行った。そして、重点施策として、都市再開発事業や、女性・障害者・高齢者対策の充実が図られた。また、「区民憲章」が制定され、八潮団地では入居が始まった。

 昭和60年代に入ると、少子化・高齢化が進み、平成8(1996)年には、65歳以上の人が15%を占めるまでになった。この間、高齢者施策の充実が図られ、特別養護老人ホーム建設や在宅サービス等が推し進められた。また、50年代から始まった市街地再開発が形になって現れ、特に天王洲や大崎駅前の大規模再開発により、街が大きく変わった。

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5.次世代への継承

 品川区は、昭和60(1985)年3月26日に「非核平和都市品川宣言」を制定した。この宣言は、区民の願いである核兵器の廃絶と恒久平和の確立を、世界のすべての国に強く訴えるとともに、その実現に寄与するために、区を非核平和都市とすることを内外に表明したものである。

 また、その事業を継続的に推進していくことを目的に、宣言1周年である昭和61(1986)年3月に1億円の平和基金を設けた。その後増額し、現在では2億円となっている。

 現在、非核平和都市品川宣言の趣旨が区民一人ひとりの心に届くよう、青少年平和使節派遣事業(広島・長崎)、宣言普及記念事業(講演・コンサート等)、平和資料コーナー開設、非核平和記念品の頒布、平和のシンボル(「平和の誓い」像・「誓いの灯」)設置等、多くの事業を実施している。

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