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板橋区における戦災の状況(東京都)

1.空襲等の概況

1-1.昭和という時代

 東京の城北に位置する板橋区は、昭和7(1932)年、板橋町・上板橋村・志村・赤塚村を合併して板橋区となった。当時の板橋区は、現在の練馬区を含んだ区域であり、東京市35区中最大の大きさであった。

 昭和7(1932)年の人口は12万人、15(1940)年には23万人と増加していったが、太平洋戦争末期の昭和19(1944)年末には13万人に減少している。この数字はそのまま、戦争と板橋区の関わりを明確に現しているものである。

 板橋区は大正時代から昭和初期にかけて、中山道や川越街道の拡幅、東武東上線の開通など、東京圏が膨張する形で発展を続けた。一方、板橋区には明治の初期から軍需工場が存在していたが、人口の増加にあわせ、周辺に下請けとなる中小の機械工場が林立していった。区内の工場数は昭和8(1933)年には186ヶ所であったが、同15(1940)年には1,980ヶ所と10倍に急増している。


<昭和10年代の川越街道>

1-2.戦争と板橋

 昭和6(1931)年の満州事変以降、戦争の足音が身近な区民生活にも忍び寄ってきた。昭和7(1932)年の板橋区の成立は、文字どおり板橋区を単位とする徴兵を意味した。

 太平洋戦争の開始前後の徴兵・出征の実態は不明な点が多い。徴兵・出征者数と戦死者・帰還者の数が十分つかめていないのである。昭和12(1937)年の陸海軍の兵員は106万人であったが、昭和20(1945)年8月には716万人になっている。当然これと平行して板橋区からの出征も増加したはずである。

 太平洋戦争が始まる前の中国戦線では日本軍は勝ち戦続きであったが、昭和16(1941)年以降戦況は一変した。区内から出征した犠牲者も相当数に上るはずであるが、戦後60年を迎えようとしている今日まで、戦死者の数さえ判然としていない。

 板橋区での徴兵は、区役所の兵事課を通じて行われた。出征する者には親類縁者をはじめ近隣に住む者までを含めた盛大な壮行会が開かれ、武運長久を祈る風習があった。しかし、日中戦争までは盛大に行われた壮行会も、太平洋戦争以降は自粛の方向に動いたとされ、のぼり旗を立てた駅までの街頭行進から、自宅前での近親者に囲まれた出征風景へと変化したようである。

<昭和11(1936)年の出征風景>

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2.市民生活の状況

2-1.銃後の人々

 「少なくとも太平洋戦争がはじまるまでは、町には庶民の生活があった。」と小説家吉村昭は随筆「東京の下町」(文芸春秋社刊)の中で述べている。確かに、戦前の防空演習や出征風景の写真を見ても、区民には笑顔があり、緊張感を感じさせない。

 ところが、戦争末期には、出征する方も送る方も、どちらも悲痛な顔をしている。男は国民服を身につけ女はモンペ姿に防空頭巾、靴の配給も滞りはじめ、下駄の着用が増加するのは昭和18(1943)年暮れ以降である。

 銃後と呼ばれた人々は隣組に組織され、出征兵士のために千人針や慰問袋の作成、貴金属の供出や勤労奉仕など多忙であった。隣組からの脱落は考えられず、教育現場も戦時色に染まり、誰も戦争遂行には疑念を抱いていなかった。もし、そう思った者がいたとしても、周囲の監視から逃れることはできず、社会全体の流れに従わざるを得ない状況であった。

<昭和16(1941)年板橋第四国民学校での防空演習>

2-2.板橋の学童疎開

 板橋区の学童疎開は、昭和19(1944)年8月9日、板橋第一国民学校(現板橋第一小学校)の出発が最初である。
学童疎開とは、昭和19(1944)年3月3日に制定された一般疎開促進要綱に基づくもので、米軍の空襲を前提に、次代を担う子どもたちの安全を図るために行われたものである。

 学童疎開には縁故疎開と集団疎開とがあり、当初、政府及び東京都は縁故疎開を積極的に進めていた。

 しかし、縁故疎開には人数・条件面で限界があり、積極的な疎開促進にはつながらなかった。

 そこで昭和19(1944)年6月30日の閣議決定を受け、東京都は各学校に対し、集団疎開の組織・体制づくりを命じ、保護者からの疎開希望の聴取と疎開地の選定作業を開始させた。疎開児童は、精神的な面を考慮して、小学校3年から6年までの児童とした。

 板橋区からは全19校が対象となり、8月9日から18日、29日に、板橋駅及び赤羽駅から、群馬県沼田市を中心とする利根郡一帯と、群馬県榛名町の2方面に分かれ出発した。このとき参加した1次疎開児童は5,098人、翌20(1945)年3月以降の2次から4次疎開で1,100人が疎開し、2次疎開以降は1・2年生や未就学の児童が参加することもあった。

<板橋第六国民学校の疎開先 古屋ホテル>

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3.空襲等の状況

3-1.板橋の空襲

 板橋区の空襲被害は、未確認ながら昭和17(1942)年4月18日の米軍ドウリットル隊による日本初の空襲当日まで遡る。このとき、日本軍が撃った高射砲の破片で、赤塚の家屋が被害を受けたのだ。この空襲は決して大きなものではなかったが、それまで空襲というものを知らなかった国民に対して、大きな心理的影響を与えたとされている。

 本格的な空襲に板橋区がはじめて見舞われたのは、昭和19(1944)年12月3日のことである。爆撃機B29による白昼の空襲で、現在の小茂根一帯に爆弾・焼夷弾が投下された。被害の程度は皆無とされている。

 この年の暮れ12月27日には、志村蓮沼(現在の本蓮沼)で爆弾2発が炸裂、家屋2棟が全半壊して死者3名を出し、区内最初の犠牲者を記録した。

 翌20(1945)年には、1月27日以降8月10日の終戦直前まで、16回の空襲があった。特に4月13日夜、板橋町一帯を襲った空襲は甚大な被害をもたらし、232名の死者を出した。また、6月10日の朝、上板橋を中心にした空襲も激しく、269名の死者が出ている。

 一連の空襲で板橋区は、死者500名、被害建物12,000軒、罹災者60,000人余を数える大きな被害を被った。(記録により被害実数に変動がある。)


<昭和20(1945)年焼失する志村地区の小学校>

3-2.成増飛行場

 板橋区の赤塚から練馬区の光が丘にかけて、首都防衛のために陸軍飛行場ができたのは、昭和18(1943)年10月のことである。土地の接収が行われたのが6月であり、わずか4ヶ月で完成したことになる。

 成増飛行場の完成が急がれた理由は、昭和17(1942)年4月18日に東京がはじめて米軍の空襲を受けた際に、あまりにも無防備であることが露呈したためである。都心部を取り囲む形で、成増・調布・立川・福生・多摩川・代々木・羽田の7つの飛行場を建設し、来襲するB29爆撃機に備える計画であった。

 成増飛行場に展開したのは陸軍飛行第47戦隊で、主力機は二式戦闘機「鍾馗」である。別名「震天制空隊」と呼ばれ、特攻を主務とした。成増飛行場には1,200メートルの主滑走路とそれより短い補助滑走路が建設され、70機の「鍾馗」が配備された。記録によれば、昭和20(1945)年1月9日、成増飛行場を飛び立った幸軍曹の「鍾馗」は、成増上空10,000メートルでB29爆撃機に体当たりし、撃墜している。

 戦後、成増飛行場は占領軍に接収され、米国大統領の名をとり「グラント・ハイツ」と呼ばれるようになった。赤塚周辺には占領軍相手の商店などもできたが、昭和48(1973)年に全面返還となり、今日の光が丘団地が造成された。

<出撃態勢の「鍾馗」>

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4.復興のあゆみ

闇市と復興

 昭和20(1945)年8月15日、日本は無条件降伏し、満州事変以来の15年におよぶ戦争に終止符を打った。人々は来るべき将来に不安を抱きながらも、戦後の第一歩を踏み出そうとしていた。

 社会の混乱は頂点に達しようとしていたが、自分のそして家族の命を守るために、今日の食糧をいかに確保するかが最大の関心事となっていた。埼玉県方面に農産物の買出しに行く区民も多く、その足となる東武東上線は「イモ電」と呼ばれた。

 闇市は空襲で焼け野原となった板橋駅前に最初にでき、規模も大きかった。大山駅、中板橋駅、ときわ台駅と、都電志村坂上にも小さな闇市が開かれたが、いずれも昭和24(1949)年以降縮小、解体している。

 戦後の日本は、GHQと総称された占領軍のもとで改革が進められていった。農地開放、教育改革などが代表的なものである。

 現在の加賀にあり、かつて禁足の地とされた陸軍第二造兵厰も解体され、大学、病院、工場などが誘致され、急速に変貌を遂げていった。第二造兵厰跡地の開放は、板橋区の戦後復興の軌跡を代表するものでもある。

<「イモ電」で買出しに出かける人々>

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5.次世代への継承

5-1.世界の恒久平和を目指して

 板橋区は、昭和60(1985)年1月1日、非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶を全世界に訴え、平和都市となることを宣言した。

 この平和都市宣言以降、毎年記念行事を展開しており、平和写真・絵画展(7月)、中学生広島平和の旅(8月)、板橋平和のつどい(記念式典・11月)、東京都平和の日写真・絵画展(3月)を開催している。

 一方、昭和61(1986)年には、常盤台に広さ18,600平方メートルの区立平和公園を開園、昭和62(1987)年には、長崎市平和祈念像の制作で知られる北村西望氏の最後の作品となった板橋区平和祈念像を区役所正面玄関前に建立した。

 さらに、平成4(1992)年3月には、広島市の平和の灯(ともしび)と長崎市の誓いの火を合わせ、板橋区平和の灯(ひ)を点灯し、平和公園のモニュメントと区役所(種火)で絶やすことなく点し続けている。

 また、これらの平和都市宣言記念事業を推進する礎として、平成7(1995)年に板橋区平和基金(基金額2億円)を創設した。

 戦災資料の収集にも継続的に取り組んでおり、平成14(2002)年には、板橋第六国民学校(現板橋第六小学校)が学童疎開していた群馬県水上市の古家ホテル(阿部家)から、当時の教師・児童が残した記念帳が発見された。この古家ホテル記念帳には、お世話になったお礼をはじめ、疎開先での生活の様子、兵士や戦闘機などが描かれており、展示・出版を行うとともに、疎開関係者との交流事業を実施した。


<板橋区平和祈念像>

5-2.板橋区平和都市宣言

世界の恒久平和を実現することは 人類共通の願いである

しかるに 現実は 核軍拡競争が激化の様相を示し 人類の滅亡さえ危惧されるところである

われわれは 世界で唯一の核被爆国民として また 日本国憲法の精神からも再び広島 長崎の惨禍を絶対繰り返てはならないことを強く全世界の人々に訴え世界平和実現のために 積極的な役割を果たさなければならない

板橋区及び板橋区民は 憲法に高く掲げられた恒久平和主義の理念に基づき 緑豊かな文化的なまちづくりを目指すとともに 非核三原則を堅持し 核兵器の廃絶を全世界に訴え 平和都市となることを宣言する

昭和60(1985)年1月1日 板橋区

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