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川崎市における戦災の状況(神奈川県)

1.空襲等の概況

 川崎市は、昭和17(1942)年4月18日の米軍による初めての本土空襲でも、攻撃目標になった。その後、昭和19(1944)年以降空襲が本格化するとともに、川崎市に何度も米軍機が飛来し、その度に被害を受けた。昭和20(1945)年4月15日に200機余のB29 による大規模な爆撃を受け、市中心部と南武線沿いの工場が集中している地域は、壊滅的な被害を受けた。

<空襲後の市中心部:六郷橋から川崎駅西口方向を見る>

 戦前から川崎市では重化学工業を主とする産業が発展しており、軍需生産でも重要な役割を果たしていた。臨海部に大規模工場が多くあり、また多摩川沿いを走る南武線沿線に戦時経済の拡大に伴い、その当時の最新の設備を持つ工場が次々に造られていった。そのため、米軍から最重点の攻撃目標の一つとされていたのである。

<破壊された工場>

参考文献

  • 「川崎空襲・戦災の記録」
  • 「川崎空襲・戦災の記録ダイジェスト版」
  • 「20世紀の川崎」

注)使用した写真は、川崎市平和館で展示・所蔵されているものである。

市中心部の惨状


<空襲後の市中心部:川崎市役所から砂子‐土呂久橋方向>


<「川崎空襲・戦災の記録」ダイジェスト版より>

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2.市民生活の状況

 戦争が長期化するとともに生活物資が不足し、また、戦争遂行のために工業生産を維持・増進しようと女性や学生の勤労動員が進められた。川崎市内にとどまらず日本各地から中学生や師範学校生徒などが集められ、また多くの朝鮮人も働かされていた。昭和19(1944)年になると、小学校4年生以上の集団疎開が行われた。

<学校生活にも戦時色が濃くなった。>

<防空訓練>

 地域ぐるみで訓練が行われた。「壊しかけた家を利用して、爆弾・焼夷弾が落ちた場合を想定した大掛かりな訓練があった…負傷した人を布で結わき担架で運ぶ、またはしごに上がってバケツリレーで火を消すなどの訓練…終戦となり、バケツリレーでは消すことの出来ない大きな空襲だったことを知らされた。」(「川崎空襲・戦災の記録」より)

<警防団の女性団員>

 女性が大きな役割を担った。「節約を第一にし、いかなる困難欠乏にも耐え得るよう、精神的な心構えと家庭内の合理的生活様式の工夫と研究に努めました。例えば燃料を節約するためにも栄養分を失わない短時間で調理できる調理法など、各婦人会ごとに勉強に力を注ぎました」(「川崎空襲・戦災の記録」より)

<配給での行列>

 食料など生活必需品を購入するために、長い行列ができた。「衣料切符は持っていてもさらし・ネル・毛糸製品など、私たちの一番欲しい品物はいつどこで何を売るのかはっきりしないため、運良くその日に行き合わせても、後ろの方に並んでしまえば買うことが出来ませんでした。そのため、足袋などは色も文数も家族に合わない物であっても、誰かと交換すればと思い買って置くのです。」(「川崎空襲・戦災の記録」より)

<疎開先での朝食>

 学校ごとに集団疎開が行われた。「小さなどんぶりに七分目くらい入った雑炊と、小皿に盛られた大根おろし一皿を四人で分けて食べました…もちろん育ち盛りですから、これで足りるはずはなく、月に一回の面会日に母がそっと置いていく五銭・十銭をポケットに、お寺を抜け出し三十分以上歩いて…大衆食堂まで、さつま芋のしっぽの煮ころがしをずいぶん食べに行きました…空腹を満たすために農家の荷車の後押しをして、さつま芋など積んである農作物を失敬して、生のままかじることも珍しくありませんでした。」(「川崎空襲・戦災の記録」より)

<勤労動員>

 川崎市内だけではなく、全国から学生が動員された。「平和にのんきな学生生活を過ごすことは許されなかった…うまく電気ごてが使えるまで苦労の日々であった。そして夏の暑さの中で、熱い電気ごて作業は汗たらたらの忍耐の時間の連続だった。」(「川崎空襲・戦災の記録」より)

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3.空襲等の状況

 昭和17(1942)年の空襲でも死者34名という被害を受けた。昭和19(1944)年から本格的な空襲が行われ、川崎市でも、昭和20(1945)年4月4日に約50機のB29が飛来し、死者194名、負傷者243名、罹災者1,770名、全半壊焼失家屋470戸、全半壊焼失工場119という被害を受けた。4月15日に最大規模の空襲が行われ、200機余の米軍機が飛来し、焼夷弾と爆弾合わせて1,110トンが投下され、市街地全体と南武線沿いの工場が壊滅的な打撃を受け、多大な死傷者を出した。全半壊家屋33,361戸、全半壊工場287、罹災者は10万人を超えた。川崎市が空襲で出した死傷者の大半はこの大空襲によるものである。

空襲被害状況

罹災人口 死者 重傷者 軽傷者 罹災戸数 焼失 全壊 半壊
川崎戦災復興誌 154,426人(総人口の44.4%) 768人 2,500人 12,472人 38,514戸(罹災率45.6%) 37,431戸 476戸 607戸
米国戦略爆撃調査団報告書 154,426人 1,520人 8,759人(負傷者)   35,107戸(罹災率51%)      
太平洋戦争による我国の被害総合報告書   1,001人 1,524人(負傷者)   35,635戸 34,931戸 276戸 335戸

「川崎空襲・戦災の記録」から

 「低空旋回する爆音。ザ、ザ、ザーという焼夷弾の鈍い落下音…校舎といわず校庭といわずあらゆる所に、油に火をつけたような火の塊がめらめら燃え出しました。それが見ている間に燃え拡がってゆきます…油脂焼夷弾ですから叩かれると火の玉となって飛散し、新しい発火点をつくる…校庭一面の火の海、校舎全面が音を立てて燃え上がりました。」
(「川崎空襲・戦災の記録 ダイジェスト版」より)

 空襲後と平成10(1998)年の同じ場所を比較してみると、空襲による破壊の凄まじさがよくわかる。


<昭和通りから川崎市役所方向>(空襲直後)


<昭和通りから川崎市役所方向>(平成10(1998)年)


<貝塚通りから川崎警察署方向>(空襲後)


<貝塚通りから川崎警察署方向>(平成10(1998)年)

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4.復興のあゆみ

 戦争が終わった時、川崎市の中心部は焼け野原になっていた。半数近い市民が焼けだされていたため、川崎市は昭和20(1945)年12月に住宅緊急措置令を出し、軍需工場などの工員寮で空いていたものを借りて共同住宅にするなど、住宅難への対応を行った。また、昭和20(1945)年9月に戦災孤児等保護対策要綱などを定め、戦災孤児についての調査や合宿所の設置などを行った。工業都市として再興していくための復興計画を作り、財政難を克服しながら市営埠頭、幹線道路の整備や区画整理等を進めていった。その後、京浜工業地帯の中核都市として、やがて高度成長を牽引する地位を占めることになった。


<復興した市中心部:六郷橋から川崎市役所方向>(平成10(1998)年)


<空襲後>

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5.次世代への継承

 川崎市平和推進事業では、川崎大空襲の惨状を伝えるために、写真パネルを作成して毎年2回巡回平和展を行っている。また、川崎市平和館では「川崎市民と戦争」、「川崎大空襲」、「川崎・被災直後と現在」などの展示コーナーで映像による紹介を行っている。さらに、毎年行っている所蔵品展などにより、焼夷弾の残骸など当時の品々を展示していたり、川崎大空襲を描いたアニメーション映画「俺たちのビー玉」を製作し、子供たちにも理解してもらえるように努めている。

 市内の夢見ヶ崎公園内に川崎市慰霊塔があり、毎年川崎市戦没者追悼式を催している。また毎年10月に、川崎市戦没者合同慰霊式を催している。

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