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甲府市における戦災の状況(山梨県)

1.空襲等の概況

甲府空襲下の市民

 甲府地方気象台気象月表原簿の昭和20(1945)年7月6日は晴、日中の最高気温は29度。夜間の午後10時の気温は22度。翌7日は晴のち曇。最低気温23.1度、最高気温27度とある。

 甲府が空襲された夜は、盆地特有のむし暑く寝苦しい夜であった。

 米空軍のB29爆撃機の大編隊が甲府の上空を通過した同年5月25日の夜以来、数回にわたって大編隊が1万メートル以上の甲府の上空を通過していた。いつ、B29に焼夷弾や爆弾が落されるか時間の問題だと予期しながら、市民は空襲に備えて家族・家財道具の疎開、防空壕掘り、食糧の確保などに努めていた。

 7月6日午後11時23分、甲府市防空本部は、警戒警報のサイレンを鳴らした。燈火管制下の甲府市内は闇の中に包まれていた。B29の爆音が真上に近づいた瞬間、市の北部の愛宕山の上空に照明弾が落下された11時54分、同時に市防空本部は"空襲警報"を発令した。そのサイレンもB29の焼夷弾が落下する音と地上に落ちて炸烈(さくれつ)する爆発音でたちまちかき消された。市の中心地は、燃えあがる炎に包まれ、空襲にあわてて逃げまどう市民の頭上へは無数の焼夷弾が容赦なく落下した。富士川、琢美、相生、新紺屋、湯田、穴切、春日、朝日、伊勢、貢川、国母、里垣、相川の各地区は、30分たらずで火の海と化した。

 翌七日付の『ニューヨーク・タイムズ』は"甲府空襲"について次の記事を載せている。

 『空軍は、日本の5つの戦略地に約600機のスーパーフォトレス(超空の要塞・B29)をもって、400トン近くの爆弾を激しく投下した。その目標は、大阪の南西35マイルの下津にある丸善石油精練所、東京の西70マイルの甲府駅を中心とする地域、東京南西275マイルの明石中央飛行場、東京の南東16マイルの千葉、そして日本の首都の南西75マイルの清水にある主要な石油精練所を含むものであった。

 硫黄島からとびたったムスタング戦闘機(P51)約100機は、B29出撃に先がけて東京地域にある12の飛行場において、白昼戦をしかけた。33機の敵機は、我々の戦闘機によって破壊されたり、損傷された。

 東京から西方70マイル、海からおよそ22マイルの山岳地帯に位置する人口102,000の甲府は、日本の最も大きい内陸都市の一つであり、山梨県の県庁所在地である。甲府上空の我々の爆撃手は、主要な鉄道、商店、紡績工場、機械工場、兵舎などがつめこまれた長方形の市街地の上に、破壊するための荷物(爆弾)を投下するよう特に努力した。』

 同紙が指摘しているような戦略的意図で甲府空襲が敢行されたのであるが、甲府駅舎および中央線の線路、甲府連隊の兵舎は損害を免れた。

 甲府へ飛来したB29は約120機と報道されているが、米国戦略爆撃調査団の第20航空軍(B29部隊)司令部統計課の基礎資料の「甲府空襲に関する資料」には131機(爆撃機数。出撃機数は139機)とある。爆撃に参加した米空軍将兵は314人、投下した焼夷弾は970・4トンと記録されている。投下した焼夷弾の種類は、主に2.8キロ油脂焼夷弾と若干の1.8キロエレクトロン焼夷弾と50キロ級油脂焼夷弾の混用だった。

 市防空本部は7日午前2時20分に"空襲警報解除"を発令、同3時20分に警戒警報を解除した。

 この日午前11時、東部軍管区司令部は、ラジオ、新聞を通して、甲府、千葉市などの空襲の模様を次の通り発表した。

 一、B29約200機ハ6日23時30分ヨリ7日3時30分ニ亘ル間、4梯団ニ分レ、管区内中小都市ニ分散来襲シ、主トシテ、焼夷弾攻撃ヲ実施セリ

 二、甲府、千葉ノ両市ハ敵焼夷弾攻撃ニヨリ火災発生ヲ見タルモ7日払暁マデニ概ネ鎮火セリ ソノ他2・3ノ小都市ニ対シ焼夷弾投下アリタルモ損害極メテ軽微ナリ

 三、管区内中小都市ノ攻撃ハ今回ガ最初ニシテ爾後コノ種分散来襲ニ対シテ厳戒ノ要アリ

 それまで主要都市中心に空爆を続けてきたB29の編隊が、甲府、千葉両市の中小都市を爆撃したとして、同管区司令部は管区内の中小都市に対し「厳戒の要あり」と警告している。

 また、この日の朝大本営は

『駿河湾を北上せるB29約120機は、静岡地区を経て、東北進し、6日午後11時40分ごろ山梨に侵入、1機、2機にて甲府市を中心に1市1町12ケ村を波状攻撃した後、東北進し、7日午前2時ごろ静岡及び神奈川方面に脱去せり。我々の損害軽微なり。』

と公表した。

 空襲を受けた旧市町村の範囲は、本市を始め西山梨郡玉諸村、甲運村、住吉村、山城村、東八代郡石和町、富士見村、柏村、境川村、岡部村、東山梨郡春日居村、中巨摩郡玉幡村、昭和村、竜王村の1市1町12力村に及んだが、他町村の被害は少なかった。

 天災を含めて有史以来最大の被害を受けたのは甲府市内であった。

 犠牲者1,127人

 市内をなめ尽くした猛火は、ひと晩燃えつづけ、朝になっても燻(くす)ぶり続けていた。 黒い塀と白壁の土蔵が立ち並んでいた城下町の風景はあとかたもなく焼け落ち、焦土のなかに焼けただれた6階建ての松林軒などの高層ビルが建っているだけであった。

 焼失した町のあちこちに焼死体が累々と倒れ、大やけどをして救いを求める重傷者も数多くいた。焼跡のいたる所からは水道が噴出していた。焼野原に電柱が傾いたまま朝になっても燃え続けていた。

 焼失した市内の主な建物は次の通りである。

 甲府市役所、甲府駅管理部、山梨医専附属病院、勧業銀行甲府支店、山梨中央銀行本店、山梨県食糧営団、甲府地方裁判所、商工経済会山梨支部、甲府高女、湯田高女、甲府商業、山梨工業専門学校、山梨医学専門学校、山梨師範男子部、山梨日日新聞社、市内六校の国民学校(琢美、相生、湯田、春日、新紺屋、女子国民)など。名刹では一蓮寺、恵運院、東光寺、能成寺など。

 同年7月7日現在の甲府市戦火状況調査書によると、本市の全戸数25,898戸(旧市内21,566戸、新市内4,332戸)のうち空襲の被害を受けた戸数は18,094戸(旧17,320戸、新774戸)、そのうち全焼17,864戸、半焼230戸。残りの戸数は、約3分の1の7,804戸(旧4,246戸、新3,558戸)に過ぎなかった。

 その被害人口は86,913人、そのうち死者740人、重傷者345人と記録されているが、その後の調査で死者・行方不明の数が増え、昭和49(1974)年7月の市の調査で表の通り、総計1,127人(男499人、女628人)とわかった。

(昭和49(1974)年7月の調査による)総計 1,127名(男499名、女628名)
地区名 犠牲者数
富士川地区 74
琢美地区 191
相生地区 112
新紺屋地区 16
湯田地区 427
穴切地区 41
春日地区 25
朝日地区 40
伊勢地区 43
貢川地区 3
国母地区 12
里垣地区 23
相川地区 8
県市外 82
住所不明 30
1,127

(甲府市発行の『甲府市史』及び『甲府空襲の記録』より抜粋)

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2.市民生活の状況

甲府空襲前後

2-1.緊迫化する戦況

 昭和16(1941)年12月8日に始まった太平洋戦争も、昭和18(1943)年8月ガダルカナル戦を転機として、戦局は日増しに日本にとって不利となり、やがて翌昭和19(1944)年7月、サイパン玉砕という事態を迎えて敗北への道をたどることになる。この年から"中等学校以上の男女生徒は"勤労動員"として軍需工場や土木工事に動員され、学校へ行かず働いていない未婚の女子は"女子挺身隊"として選抜され、これもまた軍需工場へ送られた。

 甲府市ではこの年10月17日、恒例の市制祭が行なわれた。緊迫した空気の中にも、この祭日に街行く人々の足どりも軽く、太田町公園のサーカス、小屋物や映画館はかなりの賑わいを示していた。次いで20日には、信立寺で俳人辻嵐外の百回忌の法会が営まれるなど、これからの熾烈(しれつ)をきわめる戦争で追いつめられていく市民にとって、わずかに許されたゆとりであったといえるのかもしれなかった。当時、市民生活の明るさをことさら取り立てようとする新聞も、それらの記事に付け加えて、決まって「米英撃滅の決戦の遂行」とか、「戦力増強への挺身」という戦意の高揚を謳(うた)うことを忘れはしなかった。

 さて、アメリカ空軍の本土来襲は、この年11月1日をもって初めとする。(正しくは昭和17(1942)年4月18日、B25・16機による奇襲作戦があったが、これは機動部隊によるもので、陸上基地からの来襲は、これが初めてであった。)翌日の各新聞は、マリアナ方面基地よりB29少数機帝都侵入を報じていたが、実は、一機が偵察のため飛来したものであった。しかし、サイパン玉砕によって、ここを基地(東京との距離2,250キロ)とするB29戦略爆撃隊の本土空襲が可能となったということで、この来襲は決定的な意味をもつことになる。「敵が戦略爆撃のためマリアナ群島に建設を急いでいた基地は、既にB29の発着可能な範囲にまで出来上り、B29が相当同基地に進出しきっている事は確実、今後、敵の蠢動(しゅんどう)に対しては厳重な警戒を払わねばならぬ」と新聞は記していた。

 ちょうどその日、タバコが1人1日について両切6本、刻(きざみ)は6グラムの配給制が実施され、また満17才以上の徴兵検査前の男子に対して、"皇土防衛"の第一線への召集が施行されることになっていた。

 11月1日以後、相次ぐ偵察を試みていたアメリカ空軍の飛来に、人々は本土空襲の緊迫を感じ始めるようになった。そして11月24日、B29大編隊が東京を襲うのである。本格空襲が始まった。連続波状的にやってくるB29の襲来は、当初その重点が主要都市の軍需工業都市に置かれ、戦力源の破壊が目標とされたことはいうまでもなかった。ところが、翌昭和20(1945)年3月10日未明のいわゆる東京下町大空襲から、アメリカ空軍は非戦闘員を対象にした無差別焼夷弾爆撃へふみ切ったといわれている。これから後、本土空襲は一層激化した。すでに"絶対国防圏"といわれたフィリピン(2月)と硫黄島(3月)を失った日本は、沖縄と本土に封じこめられ、4月には沖縄上陸作戦が始まっていた。そして3月から4月初めにかけての集中的大都市爆撃によって、全国の有力軍需工場はほとんど破壊され、主要都市はことごとく壊滅させられた。日本の戦争能力はまったく減退し切っていた。

 この間、都市から農村へと疎開者は激増した。最も多かったのは縁故疎開であったが、学童集団疎開もあった。山梨県はもちろん受入れ側であり、周囲を山で囲まれた甲府市も、当時は空襲の危険はないものと考えられていた。これより先、アメリカ空軍の本土空襲が避けられなくなった状況判断から、"学童疎開"が閣議決定を見たのは昭和19(1944)年6月30日のことであった。東京から国民学校3年以上6年までの児童約3,800人が、九月初め新学期の開始とともに、家族に見送られて県下各地に集団疎開した。縁故疎開のできない子供たちである。甲府市への集団疎開児童は8校、1,990名で、目黒区の国民学校の大半であった。市内の宿舎に落ち着いた子供たちの甲府での生活が始まった。昭和20(1945)年5月23日夜半、甲府上空を東北進し、東京に侵入したB29の爆撃によって目黒区は被災し、子供たちの学校は焼失したり、疎開学童の半数以上の家庭が焼失、保護者を失った児童もあった。

2-2.防空態勢の強化

 甲府盆地のはるか上空に銀翼を光らせ、長く飛行機雲を引いたB29が1機、またときに編隊をもって重苦しい爆音を響かせて飛び去るのを見るのは、ほとんど連日のようになった。いつしか人々はこれを"定期便"と呼ぶようになる。南方太平洋上から富士山を目標に本土に侵入し、山梨県の南部から東北進するB29のコースに当たっていたからである。まだ空襲を受けない地方都市も、いつB29に襲撃されるかもしれないというのが当時の情勢であり、甲府市もその例外ではなかったが、しかしまだ市民にとっては、B29の鉾先が甲府に向けられようとは予想し得なかった。

 日ごとに緊迫する防空事情から、防火用水と待避壕の整備については、県や市から隣組を通して、その完壁を期するようしばしば指導が行なわれたり、また甲府署警防係による各警防分団防護監視員の指導講習会が開かれたりして、防空態勢の強化が叫ばれていた。五月の初め、甲府市警防課が出した防空指針には、次のような事項が示されていた。

『山梨日日新聞』 昭和20(1945)年5月7日
  • 最近は警報に馴れたというか、町の防火用水は段々減って、半分位青く濁ったままかえり見られなくなっている。ひどいのになると、町中の而も目抜きの場所であり乍ら、一水も入っていない水槽も所々に見られ、この中へ子供等が入って遊んでいる。罹災地での教えは一にも二にも水であることを教えていることに反省すべきである。
  • 火の中へでも飛び込める完全服装はどうか、これから暑気の為に一枚ずつ薄着になって行くが、最も危険なのは素手素足である。黄燐や油脂の焔で忽ち火傷するのは当然と見なければならない。空襲に処して、何時何処でも頭から足先迄の防空服装が整えられるよう用意して置くこと。
  • 壕の手入れはどうか、一時隣組で掘った素堀壕はその後どうなっているか、既に完全壕として手入れをした隣組もあるかと思えば、水は溜るに委せ土は崩れたまま子供の遊び場……(原文不明)して手入れを怠ってはならない。
  • 「あっ警報だ、敵は一機か」等と構えている人はなかろうか。ラジオの軍情報は刻々と敵機の所在を報道するに、天候や地域等で楽観判断はやめ、さりとて神経戦に落ちぬよう油断は禁物である。
  • 夜間警報の発令には燈火管制を十分検討する必要がある。五日夜の空襲警報発令時には防護団員が注意したものは相当数に上っている。

次いで県は、県下の各学校長に対して、学校防空活動につき、宿直制を始めとする各事項の指示を行なっている。

『山梨日日新聞』昭和20(1945)年5月20日
  • 空襲警報発令時と同時に校門及び教室その他の出入口を速やかに開放し、特に防火活動に支障なからしむるよう関係防空機関との連絡を密にすること。
  • 学佼施設を待避及び避難者の収容に充てる場合は、予め所轄警察署と連絡の上実施すること。
  • 夜間空襲頻発の現況に鑑み宿直制を強化し、要すれば学校特設防護団員たる学徒を教職員の補佐として輪番に学校に宿泊せしむる等、適当の措置を講ずること。
  • 貯水設備及び消防器具器材並に待避壕等につき一段の整備強化を図ること。
  • 校舎内外の可燃焼物の整理をなし、要すれば渡廊下を撤去する等の方法を講ずること。
  • 学校は建物大きく一般に目標となり易いので、燈火管制は時に厳にすること。

 5月19日午前11時20分頃、山梨から長野方面へ向うB29が、峡西・峡南の山中ニケ所へ爆弾を投下した。このとき、木炭搬出に勤労奉仕中の村民の一部に負傷者が生じたとの報道があったが、これが県内における投弾と被害の初めであろう。農村はともかくも、甲府市における防空待避施設の整備は、その後もあまりはかばかしくなかったようである。

 一つには市内に空地がとぼしく、また地下水が高いとか資材の不足といった点もあったが、県と市は6月10日までに、一般家庭用(隣組共用を含む)・工場・会社・学校用・官公庁用・公共用の待避壕を作ることとした。資材うんぬんよりも素掘りでよいから早急に構築することとし、また空地・地下水の問題は、道路・公園・広場などいずれを掘っても差し支えないとした。労力はたがいに奉仕し合い、1日ぐらい勤務を休んでもすみやかに完成するようにとの知事の方針も出されていた。

さて、5・6月頃のアメリカ空軍の本県への来襲状況は次のように記録されている。

  • 5月25日午後10時40分、B29・116機、富士山東方を東北進し東海地区に侵入、中2機甲府上空を通過。
  • 5月26日午前7時12分、B29・1機、富士山西方より東北進し東海地区に侵入、鰍沢・市川・吉田方面に宣伝ビラを撒布。
  • 5月29日午前8時12分、B29・46機、P51・36機、南巨摩郡万沢東方を東北進し京浜地区に侵入、主に横浜地区を空襲。
  • 6月1日から9日まで連日B29・1機侵入、9日は小笠原西方より中央線に沿い東進す。
  • 6月10日午前7時9分、B29・246機、P51・14機、万沢方面より東北進。
  • 6月11日午前11時42分、P51・61機、本県南部を通過。
  • 6月12日から以降、連日B29・1機乃至数機侵入。

(県警防課調査)

 日本の戦況がどのように展開されているのかわからなかった。しかし、次第に不利な状態に追い込められていることは感じとられた。そして、ようやく市民も敵機の甲府空襲が遠くないことを感じとるようになる。

 甲府も安全でなくなった。甲府に集団疎開していた児童を再疎開させるため、他に安全な土地を求める必要が生じてきた。こうして6月末までに疎開児童は、北巨摩郡や南巨摩郡の村々へ再疎開をしたのであった。

 3月10日の東京大空襲以来、大都市からの戦災者に加えて一般疎開者が地方へ押し出し、特に周辺の中小都市の人口は急激に膨脹していた。ところが6月になると、本土空襲は大都市から衛星都市・中小都市への移行を示し始めた。6月17日夜から18日朝にかけて、浜松・四日市・大牟田・鹿児島など中都市の無差別爆撃があった。これは、従来の東京を始めとする大都市の焦土化戦術から、今後いよいよ衛星都市や地方中小都市を狙う公算が大きくなったものと一般に解されるようになった。事実これから後、これらの都市は、従来大都市に見られたような反復空襲ではなく、たった一回の空襲で市街の大半を焦土と化してしまうのであった。中小都市に疎開騒ぎが起きるのも当然であった。こうした情勢から、中小都市でも老幼・妊産婦・病人などは、それぞれ近郊の縁辺を頼って自発的な疎開が始まっていた。

2-3.物資の窮乏

 この間、5月下旬には県下に市町村長を隊長とする国民義勇隊が結成された。これは、各都道府県ごとに知事を本部長として、5月中に組織を完了することになっていたもので、軍籍にない壮年をもって組織し、"銃後"の活動一切の推進隊ともいうべきものであった。軍需物資の不足は、すでに金属回収運動について見ても、全国の寺院から釣鐘を回収していたが、この頃になるとアルミ貨の回収にも及んでいた。それは国民学校の児童の手を通じて行なわれたり、甲府市内では、デパートの岡島や松林軒にアルミ貨引換所が開設されたりした。

 "銃後"の生活で一番苦しんだのは物資の窮乏であったが、とりわけ食糧不足は深刻であった。県下では、非常食糧として農業会に集荷供出するわらび・ぜんまい・ぎぼうし・ふきなどの野草の採取が青少年団によって行なわれ、甲府市では相生国民学校を指定して校庭農園が設けられ、野菜が作られた。県は蔬菜(そさい)と果実の小売・卸価格の値上げを断行し、一般家庭への配給目標を1人1日100匁の確保においた。生産地では、国民学校の学童が農村を巡回して集荷にあたる姿がみられた。6月、食糧緊急増産のため、県下で桑園1万町歩・果樹園300町歩の整理が行なわれることになった。食糧不足からまさに食べられるものはなんでも、いろいろな工夫が講ぜられ、普及がはかられた。「美味しい藷蔓(いもづる)粉、"ハウタウ"もいかが」、「決戦食のコツ、玉葱黍(たまねぎ)の雑炊、乙な食用粉の"おねり"」等々、この頃の新聞の見出しであった。

 めずらしく砂糖と缶詰の配給が新聞に載ったのは6月30日のことであった。

 当時、県は関係機関や団体が保管中の各種生活必需物資を、空襲による消滅から防ぐため分散疎開を図ったが、食糧品についてはこの際、家庭配給し、非常事態用として備蓄させるため、砂糖は1人当たり2.30匁ずつ盆前に配給し、缶詰類も順次配給することとしたのであった。ところが7月3日、政府は主要食糧の配給量を一割減配することとした。開戦の年昭和16(1941)年に食糧の配給制が実施され、米は大人1人1月分2合3勺=330グラムが基準とされた。翌17(1942)年には、これが米だけでなく、麦やいもをも加え米2合3勺分のカロリーを意味するだけとなった。そして、昭和20(1945)年7月、一割減の2合1勺=297グラムとなったのである。「食糧消費節減に関する件」として情報局発表は、次のような点にまで及んでいる。

「蔬菜等自家生産の奨励、郷土食の奨励、粉食等可食資源の活用、食糧調理の合理化、完全咀嚼(そしゃく)の励行等のため、中央地方を通じ智能を総動員して、戦時国民食生活合理化に関する指導啓発運動を実施するものとす」。

 先の砂糖も現実には配給が行なわれることなく、しかもまもなく甲府市が空襲を受けることによって、すべてを失なった市民は、焼けて黒く飴状になった砂糖を焼跡から拾って来てなめることになる。

 県医師会を中心に組織された医療救護隊が東京へ出発したことが報ぜられる一方で、6月25日、開館20周年記念式典を開いた県立図書館においては、その日、引き続いて図書疎開対策についての協議が行なわれ、まもなく県立・市立ともに図書疎開が開始される。

2-4.宣伝ビラ舞う

 既述の県警防課の調査記録によると、すでに5月26日、B29による宣伝ビラが鰍沢・市川・吉田方面に撒布(さんぷ)されている。「敵機が空襲にもあきたらず、思想謀略にも魔手を延ばし」たものとする県思想指導委員会は、こうした"謀略"が頻度を増すものとみて、「冷静なる態度で職域に挺身せよ」と、国民学校・青年学校・中等学校の児童・生徒を通じて県民に呼びかけていた。ことに疎開者婦女子の中には、都市の被害状況をそのままに県民に恐怖心を引き起こさせる向きもあるとして、県内町村ごとに疎開者の母親学級を開講することが企てられた。

 一方、県民一般に対しては、次のような"敵謀略撃退"への心構えが出されていた。

一、戦局の推移、敵機来襲等に対し、徒らに批評憶測する事なく職域に挺身すること。

二、敵の宣伝ビラを入手した場合は、隠すことなく警察・警防団・学校へ届出る。勿論その内容は謀略であるから、実話として伝えることなきよう厳に戒むること。

三、敵の妥協懐柔には婦女子が乗りやすいから、母親学級を通じて鞏固なる意志の涵養を図ること。

四、敵は謀略爆弾をも投じ児童の生命をも狙っているから、敵の投弾物には一切手をふれず直ちに警察・警防団へ届出ること。

 6月9日午後3時50分頃、長野方面から県下へ侵入したB29一機は、甲府盆地の上空でビラを撒布した。ビラはただちに警察官や警防団員の指導で拾い集められたが、なお田圃や畑などに風で舞ったビラは発見次第、警察署か憲兵隊へ届け出るようにと、県警察部の掲示があった。「敵一流の愚劣な文句を並べ立てたものや、子供だましの絵を入れた印刷物」としながらも、その提出を怠ったり、ビラに書いてあることをいいふらすことは利敵行為で処罰されることになっていた。次いで28日午後1時頃、東山梨郡日下部町(山梨市)を中心に八幡・岩手・山梨(山梨市)・松里(塩山市)の各村に反戦ビラが舞った。

 本土空襲の苛烈さと頻度は日に日に増すばかりで、市民はもとより県民の不安と焦燥はおおうべくもなかった。関東地区は従来、空襲警報に限り各都県ごとに分轄発令・解除されていたが、6月21日から警戒警報も地区別発令・解除を行うよう変更された。7月2日、山梨県建物疎開事業委員会が結成された。これは防空態勢強化のため、甲府市と塩山町(塩山市)の一部に実施されることになった重要施設及び鉄道沿線を中心とする建物疎開に関する防空地区の指定告示に基づくものであった。建物間引き疎開によって空地となるのは、甲府市が約65,200坪、塩山町は3,000坪とされた。しかし、これもまもない空襲によって計画だけで終った。

(甲府市発行の『甲府空襲の記録』第一編「甲府空襲前後」より抜粋)

<練兵場で銃の操作訓練を受ける婦人たち>

<縄ない作業をする小学生たち>

<市街地での防火訓練>

 

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3.空襲等の状況

3-1.昭和20(1945)年7月6日

『背後に山を負った甲府だ。戦国時代、人を城や石垣の天然の城壁になぞらえて、城郭を築かなかった信玄も、躑躅ケ崎背後の自然の天嶮には人間と同様大きな信頼感を持ったものらしい。その自然の山岳形象が、敵機爆撃にも相当の味方として従えていることは一つの強味であるともいえる。』 (『山梨日日新聞』昭和20(1945)年7月6日「銃座」欄)

 その日の新聞のこの記事は、不安と焦燥に押しひしがれている市民の戦意をなんとか高揚させようというものであった。

 しかし、この地形はむしろ甲府空襲について見れば、市民にとってまったく裏目に出ることになる。

 その夜、甲府は盆地特有のむし暑さに襲われていた。連夜の警報にはすでに慣れきっていたとはいえ、荷物疎開や防空壕の強化、あるいは防火訓練と疲れはてた市民がようやく寝についた午後11時23分(甲府市防空本部の発表)、不気味な警戒警報のサイレンが鳴りひびく。マリアナ基地を発し東部軍管区内に来襲したB29約200撥のうち、その第一梯団約80機が駿河湾を北上したのである(東部軍管区司令部発表)。

 駿河湾から富士川沿いに甲府へのコースをとれば、南巨摩郡鰍沢町はちょうどその通過地点にあたる。6月17日、甲府から再疎開地を求めて、鰍沢から5キロ入った穂積村に集団疎開していた東京都目黒区月光原国民学校の田村訓導は、「回顧録」に次のように書いている。

『7月6日、七夕祭の支度を終えて一同寝についた。午後11時過ぎ薄気味悪い空襲のサイレンは、山々にこだまして鳴りひびいた。今夜は何となく今までにない不安を感じた。学寮の子供たちには直ちに非常起床を命じ、身支度をととのえて待機させた。B29の爆音は連続的に山の彼方から闇の中にきこえて来た。ことによると今夜は甲府にでも落すのではないかと、予感がますます強くなってきた。第一梯団は鰍沢上空を通過したと思う瞬間、急に北東の空が明るくなった。ああやられたなと感じた。甲府方面は方々に火災を起していた。』

(東京都月光原小学校編『学童疎開の記録』)。

甲府市防空本部の発表によると、静岡地区を経て東北進したB29約120磯が、本県に侵入したのは午後11時40分頃、そして、11時54分空襲警報が発令されたことになっているが、これより早く甲府空襲は始まっていたのが事実のようである。そのとき、市内の警備に当たっていた警防職員の手記を見よう(『山梨県政60年誌』)。

 『爆音が聞えたので屋上望楼に上って見ると、誘導機はまず市の北部愛宕山に照明弾を投下、全市がパーツと真昼のように明るくなった。第一回攻撃は市北部塚原町方面山腹から人家にわたって行なわれ早くも一ケ所が炎上した。第二回攻撃は愛宕山から愛宕町及び市東部より東南部にかけて行なわれ、金手・東青沼・愛宕町から炎々たる火の手が上り、市内は火焔のためその全貌が認められた。そこで本格的空襲必至と見て、午後11時50分、全老幼病市民の待避命令が発せられた。11時57分敵の爆撃いよいよ激しく、東東南から中央にかけて、西西南、北西、西方に火災発生、電話電燈線不通。7日午前零時、市役所・知事官舎炎上。周囲は火焔と黒煙で全市の見透しつかず、攻撃いよいよ猛烈、爆音、焼夷弾の落下音、破裂音は耳をつんざくばかり、午前1時県病院炎上、道路の開いているのは甲府署と県庁間のみ。午前1時45分、焼夷弾攻撃止む。しかし火勢はますます猛烈となる。』

 その夜のサイレンも、東京空襲に向うB29の侵入によるいつもの警報にすぎないと感じていたにちがいなかった市民は、重苦しい爆音が暗い空をおおうや否や、愛宕山への照明弾の投下と、続く市街への焼夷弾爆撃によって、一瞬にして危機にさらされたのであった。市の北部に位置し、市街へ突き出た形をとる愛宕山へ投下された照明弾は、甲府の町々を真昼のように映し出した。そして市の北端の塚原町に始まる焼夷弾攻撃は、市の東部を愛宕町から金手町・東青沼町へと南下し、次いで市の中央部へ、さらに西南部から西北部へと攻撃は熾烈となる。焼夷弾が花火のように炸裂し、真赤の炎が家々をなめつくして天を焦がす。次々と飛来し、焼夷弾を投下する低空飛行のB29の胴体は、炎を映して魔物そのものであったという。

 最も熾烈な焼爆を受けたのが市街東部の富士川・琢美地区と南部の湯田・伊勢地区、それに中央部の相生・春日地区であったことは、罹災率と死者数によって示される。2時間余にわたる無差別爆撃に対して、市郊外にある玉幡飛行場からは一機の戦闘機も飛立たず、また一発の高射砲の応戦もなかった。まったく無抵抗のままB29の蹂躙(じゅうりん)にまかせた。竹槍訓練も注水競技も、もとよりなんの役にも立たなかった。前掲警防職員の手記には続いて記されている。

『朝気町・東青沼町方面(注・湯田地区に含まれる)、東一条通方面に投弾忽ち火災発生ポンプを出動しようとしたが人員が集まらない。湯田地区一帯には雨あられのように焼夷弾が落下、警防団員も散り散りに待避して集まらない。そこで東一条通りの火災現場に至り、家庭防火群の消火活動を指揮しようとしたが、ここでも集中投弾のため消火括動不能。火は忽ち拡大、もはや手のつけようがない。湯田国民学校にも火は移った。もう消火どころではない。避難だ。避難者を一路、住吉通り田圃へ田圃へと避難させた。

市街各地に一挙に上がった火の手に、人々は避難のほかはなかったはずである。渦まく炎、相次ぐ焼夷弾投下、逃げまどう市民の叫びは地獄図絵の展開であった。焼爆からの避難は、当然市街から遠ざかるコースをとる。市の中心部から西部・南部の人々は荒川の土手や川向うの田圃をめざし、東部の人々は濁川辺や郊外の田圃へ難を避ける。途中火で行手をふさがれた人々は、舞鶴公園や太田町公園(遊亀公園)に集中する。ところが、太田町公園を含む湯田地区は最も激しい焼爆下にあったため(同地区の99.97%焼失、残存はわずか12戸)、公園に避難した人々の中には直撃弾による爆死のほか、猛火による火事嵐ともいうべき大旋風が巻き起こり、その熱風で焼死する者、窒息死する者など、多くの死者が生じた。この空襲による市内の死者は、740人、重傷者345人、軽傷者894人、行方不明35人を数えた(7月7日現在)。

甲府市の南方、南巨摩郡鰍沢町に近い山村から、はるかに夜空を焦がす甲府空襲を目撃した月光原国民学校の田村訓導は、甲府の遠光寺学寮に残してある30余名の児童(医療を必要とする病弱児童)の安否を気づかう。救助へ心はあせるが、続々と頭上に飛来するB29のために甲府へ下っていくことができない。

飛行機の爆音もすっかり消えた時、真暗な山の道を自転車にて下り、一路甲府へ急行した。夜の明け渡るころ甲府の郊外についたが、黒煙と避難者の群に行先を阻まれてしまった。

辛うじて遠光寺の近くまで行くことができた。どうか子供たちよ健在でいてくれるよう、学寮は無事であるようにと祈りながら荒川の千秋橋まで行った。

見ると遠光寺は焼失していた。「ああ子供たちは」安否を確認するため焼け残った伊勢国民学校を訪ねた。そこには遠光寺学寮に勤務していた保坂訓導が、硝煙のために真黒くくすぶった姿で、「先生!児童2名即死、学寮長笹本先生と児童遠峯は火傷しました」と報告をした。私は鉄槌で頭をなぐりつけられたような感じがして、「やられたか。死んだ子供はどこだ」と問い返した。保坂訓導に案内されて現場に行った。かわいそうに、不運にも2人の子供は二目と見られない変った姿となって路傍に倒れていた。

私は胸の底から込み上げてくる涙がとめどもなく流れた。2・3日前に遠光寺を尋ねた時、山に帰る私を階段のところまで見送って、いつまでも別れを惜しんだ原(四年男子)。にこにこと笑って、「先生さようなら」と別れた中村(三年女子)が、今はこんな姿に変り果てたのか。どんなにか痛かったろう。苦しかっただろう。お母さんと呼ぶこともできなく倒れてしまったのか。』

 市防空本部の発表によると、空襲警報が解除されたのは7日午前2時20分、そして3時20分警戒警報解除となっている。2時間半ほどの時間で、市民の中には一家全滅の悲惨な状況や、肉身を失なった者が多数生じた。また、この時間である者は運命を狂わせ、少くともすべての市民は空襲の惨禍をいやというほど体験させられた。

 甲府空襲で投下された爆弾は、2.8キロ油脂焼夷弾、若干の1.8キロエレクトロン焼夷弾、50キロ級油脂焼夷弾であり、これら焼夷弾攻撃によって、一瞬にして甲府市の大部分は灰燼(かいじん)と化したのであった。焼失した主要建物は、甲府地方裁判所、山梨医専附属病院、甲府市役所、山梨工業専門学校、山梨師範男子部、甲府高女、湯田高女、栄和高女、申府商業、琢美・相生・春日・新紺屋・女子の6国民学校を始め多数に及んだ。

 この空襲は、甲府市襲撃が目的とされたものであったが、市に隣接する東八代郡の石和町・富士見村(石和町)・柏村(中道町)・境川村、東山梨郡の岡部村(石和町・春日居町)・春日居村(春日居町)、西山梨郡の玉諸村・甲運村・住吉村・山城村(以上甲府市)、中巨摩郡の玉幡村・竜王村(以上竜王町)・昭和村(昭和町)の1町12力村にも、被害は軽微であったが焼夷弾が投下された。

 また、6日夜半にはじまる空襲で、甲府焼爆に第一梯団を送りこんだB29の編隊は、同時に清水市と千葉市の攻撃を行なっている。すなわち、B29約200機のうち、東二梯団約60機は御前崎附近より侵入して清水市へ、次いで第三梯団約50機は房総南部より侵入、千葉市とその周辺地区を焼夷弾攻撃、第四梯団約10機は銚子附近より侵入し、水戸附近と霞ケ浦方面を行動したのであった。

 東部軍管区内の中小都市に対する攻撃は、これが最初であると報道された。

 全国で市制施行206都市のうち、この戦争による被爆都市は98都市に及んだが、その中で被害の大きかった都市は80を数える。家屋の焼失率は平均40%以上、その焼失全壊戸数は全国市制施行都市家屋の3割強を示すという。被害の大部分は焼夷弾攻撃によるものであったが、甲府の焼失率は、浜松市と並び、福井市に次ぐ大きなものであった。

(『実録太平洋戦争(6)銃後篇』)

3-2.焼跡の街

 悪夢のような一夜が明けたが、茫漠(ぼうばく)たる焦土と化した街々には一面焦煙が漂い、残りの火が燃え続けていた。内部を完全に焼き尽くされ黒く汚れた形骸のみとどめた二つの高層のデパートは、焼野原の惨憺たるさまを際立ってみせ、焼け落ちずにまだ窓から煙をはき出している土蔵や、傾いたままに燃え続けている電柱は、あの焼跡に特有な臭気とともに、空襲のすさまじさを物語っていた。

 この7日、県知事中島賢蔵の布告が『山梨日日新聞』(毎日・読売・朝日の三新聞合同発行)の号外に、「焦土から断乎起て!」という見出しで報道された。それは、「我々は一に戦ふのみである。敵を撃壌するの戦意は焦土の中より神風となって断固戦ふのみである」という当時の常用語の反覆にすぎず、また、「今日只今からの食糧その他も万般の用意あり、救護処置についても凡百の対策を講じつつある。この際徒らに興奮しつまらぬ流言に迷ったり、かりそめにも戦意をにぶらすやうなことがあってはならない。飽迄必勝の信念を堅持して慌てず騒がず、しっかりと大地を踏みしめ灰燼の中から起上って各々の職任完遂に邁進せられんことを」と訴えたものであったが、それ以外に地方官としてなにがあったであろう。しかし、昨日に変わる凄惨なありさまに、焦土に呆然と立ちすくむ市民になにほどの意味をもったものか。また、その日11時、東部軍管区司令部は、「甲府・千葉の両市は敵焼夷弾攻撃により火災発生を見たるも、7日払暁までに概ね鎮火せり。その他2・3の小都市に対し焼夷弾投下ありたるも、損害極めて軽微なり」と発表したが、空襲の激甚さと悲惨な状況を目にした市民は、この発表をどのように聞いたであろうか。

 この日、中島賢蔵知事と野口二郎甲府市長らは県庁で善後対策の打合せを行なった。第一に食糧の配給、第二に死体処理、第三に避難者の救護であった。

 朝から近村はもちろん各地方から警防団によりにぎり飯・野菜その他救援物資が届けられたが、県はこの日の朝食から9日の朝食まで非常炊出しの措置を講じた。炊出しのにぎり飯と乾パンの支給である。次いで9日昼食から14日朝食までは、市費による応急配給が実施され、14日昼食以後は応急措置として、町内会長の責任において家庭用配給物資購入通帳が発行され、そして、21日以後はすべて戦災前の取扱いに復帰することとなった。

 遺体処理は、遺体の判定難と人手不足によって困難をきわめた。身許のわかったものは別として、無残な焼死体は近親者すら確認し得ないものが多数あった。処理の終ったのは、4日目の10日であったが、先に7日現在で発表された死者740人は833人に改められた。しかし現実には、町内会組織の事実上の解体その他から、死者数を確認し得るような状況にはなかったといわれるので、その発表は区々に終った。一方、空襲罹災者のうちにはもちろん田舎へ縁故疎開する者が多かったが、市内の罹災者収容のために、富士川・穴切・伊勢・朝日・男子など焼失をまぬがれた5つの国民学校が割当てられ、また医療救護所が設けられた。

 その後、市内の各国民学校では20日午後1時いっせいに児童を登校させ、市内残留児童と転出児童の調査を行なった。焼けて学校を失った児童は教師とともに、もよりの他校に参集したが、あの空襲の夜以来、ちりぢりになった教師と児童とが、二週間ぶりに無事な顔を見合わせる劇的な情景であり、それはいつ虎刈り(焼け残っている町の再空襲のこと)にやってくるかも知れないという不安にまだ恐々としているさなかでの、わずかな平和なひとときを思わせた。しかし、この子供たちにのびやかな日々をよみがえらせるためには、すでに"戦線"も"銃後"も区別のつかなくなっていた戦争そのものが終らないかぎり不可能であった。25日、県と大日本戦時宗教報国会県支部は、県庁前広場で甲府市の戦災殉難者慰霊祭を行ない、続いて"復仇滅敵"の意気高揚をはかる県民大会を開催した。戦争はいつまで、どこまで続けられるというのであろうか。広島、次いで長崎に原子爆弾が落とされて戦争が終ったのは、それから20日後のことであった。

(甲府市発行の『甲府空襲の記録』第一編「甲府空襲前後」より抜粋)

<一面の焦土が広がる甲府市内西部>
(山梨県議会議事堂からの眺め)

<岡島百貨店周辺の焼け野原>

<甲府駅と広場周辺>

 

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4.復興のあゆみ

復興着々進む

 政府は昭和20(1945)年9月7日、戦災対策審議会、戦災復興審議会の設置を閣議決定、10月には戦災復興院が生れ、ここで戦災地復興の基本方針を立て12月これを閣議決定、120余に上る戦災都市、1億6千万坪に及ぶ焼失地域の復興事業が始まった。

 甲府市もこの基本方針により、復興計画区域、土地利用計画、主要施設の整備、罹災区域の土地整理、市街地建築物の統制などの諸計画を立てた。その後、政府では、現行の都市計画法だけでは戦災地の復興には十分ではないので、昭和21(1946)年特別都市計画法を施行して復興の促進をはかった。復興の機構としては、昭和20(1945)年8月、県の外局として戦災復興部が、9月には甲府市に戦災復興局が設置された。復興局には総務、施設、住宅、土木、建築、農耕、輸送の7部が設けられたが、昭和22(1947)年都市建設部となり、監理、工務、補償の三課が置かれた。昭和24(1949)年にはさらに機構整理が行われ、建設課の下に庶務、計画、換地、補償、工事、清算の6係で都市計画の推進がはかられた。一方、県の戦災復興部は昭和22(1947)年4月廃止、戦災復興院山梨建築出張所となり、昭和23(1948)年9月には一応の使命は終って県土木課に吸収された。

<甲府市太田町の交差点に建てられた進駐軍の道路標識>

<昭和22年頃の甲府市南東部の様子>

 

4-1.都市計画

 昭和20(1945)年12月、閣議決定となった戦災地復興基本方針によって、甲府市の復興計画も県、市間で検討された。この時、市内の街路網を思いきって命面的に改め、都心から郊外までの放射状道路の建設、広大な美観道路、公園、緑地地帯設置の理想的な計画が描かれたが、現実には土地問題、財政問題でとても実現は不可能だった。そこで県市合同で復興都市計画の大綱、都市計画街路網について検討、復興計画懇談会が開かれた。しかし、県で作成の街路網計画を決定して政府へ申請、更に昭和21(1946)年3月、都市計画山梨地方委員会でもこれを原案どおり答申、同年5月内閣告示で決定することとなった。しかるに終戦後、土地、住宅問題で不安動揺していた市民は、駅前の巾員50メートルの広路1号線を始め、道路の大幅な拡張、園地の設置などに反対、市民大会を開いて、県市当局に修正を要望した。

 市でも市民代表による調査委員会を設けて解決に努力した結果、告示された街路網は尊重するが、市民の要望を入れて実施するという諒解が成立。計画が進められた。そこで昭和23(1948)年11月、50メートルの広路も36メートルに、その他の計画も全般的に縮小、計画実施区域も始めは一部の非戦災地域を含めて150万坪、8工区に及ぶ広い地域だったが、これも経済事情から昭和24(1949)年10月、修正して5カ年計画を決定実施、区域を第1、第2工区の37万坪にせばめた。第1工区は駅北、第2工区は駅南地帯で、

錦町・紅梅町・春日町・新青沼町・弥生町・竪町・元連雀町の全部、穴切町・西青沼町・泉町・相生町・桜町・柳町・境町・竪近習町・橘町・水門町・富士川町・朝日町・新紺屋町・元三日町・袋町・白木町・横沢町・細工町・日向町

などの一部である。

 昭和26(1951)年度10月現在における都市計画の進捗状況は約35%

駅前通り広路1号線、巾員36メートル、延長850メートル駅北口-朝日町通り線巾員15メートル、延長460メートル、甲府-清川線、巾員12メートル、延長340メートル、そのほか区画街路巾員4メートルから6メートル延長 1千メ-トルが完了。

公園では橘町児童公園600坪、朝日町児童公園二カ所250坪が完成した。

4-2.住宅復興

 戦災で全戸数の約7割を焼失した市民は、その翌日から早くもバラック、仮小屋を建て、住宅復興への一歩を踏み出したが、資金資材難から思うように進まず、壕舎生活は容易に解消されなかった。住宅建設は市営、住宅営団、自力建築の三つで行われたが、営団住宅は営団の廃止により市に接収された。市営住宅は分散、分譲、集団の三方式が採られたが、昭和24(1949)年以降は集団住宅一本に切り換えられ、規格も戦災直後の6坪2合5勺の緊急住宅から9坪、10坪、12坪と本格的な住宅へと充実されて行った。市営住宅の建設状況は昭和20(1945)年680戸、昭和21(1946)年591戸、昭和22(1947)年304戸、昭和23(1948)年290戸、昭和24(1949)年184戸、昭和25(1950)年250戸、昭和26(1951)年100戸で、昭和26(1951)年度末の戸数は2,019戸に達している。

主要市営住宅一覧(昭和27(1952)年3月末現在)
所在地 坪数 戸数
北新町住宅 8.0 184
東中住宅 6.25 137
善光寺住宅 9.0 10.0 22
遊亀住宅 6.25 100
新勢住宅 9.0 10.5 65
旧六三部隊 北新町 10.0 94
塔岩住宅 10.5 24
東芝住宅 10.0 186
湯村住宅 12.0 10.0 9.0 37
木俣住宅 10.0 20
池添町第一移築住宅 6.25 22
東芝移築住宅 6.25 46
池添町第二移築住宅 6.25 22
下飯田町移築住宅 6.25 21
南勢住宅 10.0 83
甲南住宅 10.0 47
住吉本町移築住宅 6.25 24
池添町第三移築住宅 6.25 35
千塚住宅 10.5 24
国母住宅 10.5 50

<境町(現甲府市中央二丁目)の焼け野原で住宅の再建工事>

 特殊建築物では、焼失した松林軒、岡島両百貨店の復興をはじめ映画館6館、ホテル、旅館、料理屋、商店街など続々と復興、オリオン街、銀座通り、朝日町通りなどは戦前を凌ぐ賑やかさに返った。官公衙では、6階建の堂々たる甲府裁判所を始め県病院、市立病院、検察庁、甲府地区署、市消防署などが新築された。

4-3.水道復旧

 水道施設はその80%が被害を受けた。戦災直前の給水戸数は18,660戸、給水人口は87,700人だったが、戦災直後は給水戸数4,300戸、給水人口は22,224人と約4分の1に激減した。復旧は資材難から困難を感じたが、漏水防止に全力を注ぎ、応急対策として道路の水栓を閉鎖して、水道の使用は届出制を採用してやっと軌道にのり、失業救済事業で着々整備した結果、昭和24(1949)年にはほぼ復旧を終り、昭和26(1951)年10月には給水戸数22,300戸、給水人口100,292(全人口の8割)で、配水量は1日25,870立方メートルに及んでいる。

4-4.電気復旧

 電気関係施設は80%が壊滅した。甲府市では電柱800本を助成、復旧に協力し、昭和21(1946)年には一応、市内幹線の点灯を完了、その後も市、関東配電の協力により配電網の整備が進み、めざましい復興ぶりを見せた。

電気復旧状況
種別 戦災前 戦災 戦災直後 昭和26年3月末 復興率(%)
軒数
kw
軒数
kw
軒数
kw
軒数
kw
軒数
kw
従量電灯 10,751 118,743 8,091 96,998 2,560 21,745 11,998 113,511 111.99 95.49
定額電灯 13,907 32,209 9,465 21,876 4,442 10,333 12,140 33,296 87.29 103.27
大口電灯 10 152 9 146 1 6 82 1,189 820 782.2
小口電力 980 5,413 861 4,648 119 765 1,142 5,643 116.53 104.24
小口電力 18 1,660 12 1,154 6 506 19 2,945 105.5 177.4

4-5.電話復旧

 電話は戦災で局内施設を残して全滅した。昭和20(1945)年7月、戦災直前の電話開通加入者は2,658名で、その後約5カ年経った昭和25(1950)年3月にほぼ同数に復した。昭和26(1951)年度末の加入者は3,534名、戦災前より876名増えている。公衆電話も10カ所、簡易電話所6カ所、依託公衆電話も昭和27(1952)年4月1日から4カ所に店開きした。

4-6.浴場施設復旧

 36の浴場中31が罹災したので、保健衛生の立場からその復旧を急ぎ、市、温泉浴場組合は復興促進の委員会を開き、市からも助成金を交付督励したので続々復旧、昭和26(1951)年度末で公衆浴場32、温泉50となった。(「山梨県政六十年誌」より)

(甲府市発行の『甲府空襲の記録』第三編より抜粋)


<空襲で焼け落ちた公衆浴場に入浴する市民たち>

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5.次世代への継承

核兵器廃絶平和都市宣言

 戦争の惨禍を防止し、恒久平和と安全を実現することは人類共通の念願である。

 わが国は、世界唯一の核被爆国として、核戦争の回避を求め、被爆の恐しさ、被爆者の苦しみを声を大にして全世界に訴え続けてきた。

 しかしながら、核軍備の拡大は依然として続いており、人類が平和のうちに生存する権利を根本から脅かしている。

 甲府市は、非核三原則の完全実施を願い、すべての国の核兵器の全面廃絶と軍備縮小を求め、人類の永遠の平和を希求し、核兵器廃絶の世論を喚起するため、ここに「核兵器廃絶平和都市」となることを宣言する。

 昭和57年7月2日 甲府市

July 2nd,1982
Peaceable City Statement Abolishing Nuclear Weapons

 It is the common desire of human beings to prevent the disaster of war and realize permanent peace and security.

 We appeal to the rest of the world as the only country that has experienced an atomic bombing. We ask the world to prevent
nuclear wars. We plead for no more atomic bomb victims and for no more fear caused by these bombs.

 However, nuclear proliferation is still continuing, and it threatens our fundamental rights of living peacefully.

 The City of Kofu hopes to put the three non-nuclear principules into practice. The people of Kofu request the complete abolition
of nuclear weapons and disarmament of all countries. We also seek eternal peace for mankind, and to arouse public awareness
for the abolition of nuclear weapons. Therefore, We declare that Kofu will become the Peaceable City Abolising Nuclear Weapons.

Kofu City

<甲府空襲展パンフレット(表)>

<甲府空襲展パンフレット(裏)>

 

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