台東区は、23区のほぼ中心に位置し、西は上野の山と、東は隅田川に接した典型的な下町である。
昭和15(1940)年当時、下谷区と浅草区に分かれていたこの地域は、101,273世帯、460,254人の人が住んでいる地域であったが、昭和20(1945)年の6月には僅かその1割5分にしかあたらない17,144世帯、69,932人にもなった。このことからも分かるように、東京の中でも戦争の被害を最も多く受けた地区の一つであった。
太平洋戦争終焉(しゅうえん)も間近い昭和19(1944)年12月10日にはじまった本地区に対する米機の攻撃は、同月30日、31日から運命の昭和20(1945)年1月1日と続き、さらに同月27日、2月2日、24日、25日、3月4日、9日、10日、18日、4月4日、13日、14日、5月24日、25日、超えて8月13日と延べ千四百数十機が本地区上空から爆弾、焼夷弾の雨を降らせた。なかでも吹雪下の2月25日の空襲には、下谷地区の大部分が被害を受け、13メートルの烈風に乗った3月9、10日の空襲は、本地区の大半が烏有(うゆう)に帰した。
台東区は、商業地、繁華街、寺町、問屋街、職人町など、江戸時代より多様な都市活動の営まれる地域であり、典型的な下町文化を育んできた。明治、大正、昭和と人口が増加するなか、町には子どもが溢れ、親たちが忙しく働く中、職人の子、店の子、寺の子、勤め人の子とそれぞれの家の家風を背負いながらも、子どもたちは、地域の通りや路地、水路、空き地、駄菓子屋やなどの都市空間を縦横に駆け巡っていた。
戦時体制下では、教練、学徒動員、兵士の衣装作作りなど、子どもたちも「少国民」として戦時の支えにかり出された。次第に生活物資が不足し、駄菓子屋にもほとんどものがなくなった。戦局の悪化した昭和19(1944)年6月、政府が都市部の小学校3〜6年の学童疎開を決定し、縁故疎開以外の下谷区児童は福島県方面へ、浅草区児童は宮城県方面へ集団疎開することになった。
昭和20(1945)年3月10日未明、現在の台東・墨田・江東区のいわゆる下町地区は、米軍の爆撃機B29による空襲を受け、死者およそ10万人、負傷者4万人、罹災者100万人という未曾有(みぞう)の大被害を被った。東京大空襲と呼ばれるこの空襲は、夜間に住宅の密集地を目標にして、約1700トンもの焼夷弾を投下し、根こそぎ焼き尽くすというものであった。
当時浅草区は、旧35区内でもっとも人口密度が高かったが、この日の空襲は、この浅草区全域と下谷区の東側半分、本所区・日本橋区の全域、神田区の大部、深川区の北側半分を攻撃目標としたものであったと言われている。実際の被害は、目標よりもやや東側に偏り、城東区の全域も焦土と化した。
台東区内では、
下谷区 | 浅草区 | 計 | |
---|---|---|---|
死者 | 635人 | 11,190人 | 11,825人 |
負傷者 | 868人 | 3,843人 | 4,711人 |
焼失戸数 | 15,024戸 | 31,200戸 | 46,224戸 |
「警視庁消防部空襲火災概要」より
下谷地区 | 浅草地区 | 計 | |
---|---|---|---|
死者 | 582人 | 9,343人 | 9,925人 |
負傷者 | 2,591人 | 8,246人 | 10,837人 |
焼失戸数 | 9,948戸 | 33,058戸 | 43,042戸 |
本区の被害面積は、
区域面積 | 罹災面積 | 比率 | |
---|---|---|---|
下谷 | 5.04km2 | 1.22km2 | 24.21 |
浅草 | 5.21km2 | 4.66km2 | 89.42 |
疎開や戦災で生き残った人、引揚げてきた人たちは、焼け野原にバラックを建て生活をはじめた。疎開児童は昭和20(1945)年10月に引揚げてきたが、物資不足、食料不足が深刻だった。
特に、東京都内の焼け出され、家のない人の57%が上野周辺で暮らしていた。上野駅と京成上野駅へ通じる地下道には、昭和20(1945)年11月当時は、千数百人の人たちが住み着き、その中には、子どもが3〜400人はいたと言われている。
こうした耐乏生活の中にあって、区民は復興への熱意に燃え、昭和21(1946)年10月には、上野と浅草の人たちは合同で下谷・浅草復興祭を行い、明るい町づくりへと協力し合ったのだった。
また、身近な地方行政の拡充充実を図るために、昭和22(1947)年3月に東京都の35区が整理統合された。その中で、下谷区と浅草区とが合併して現在の台東区が誕生し、道路の復旧、学校教育の復興、商工業の振興など、復興に向けた新たな取り組みが始まった。
世界の恒久平和と永遠の繁栄を目指す世界連邦運動に賛同し、昭和36(1961)年12月に「平和宣言」を行った。
また、戦後50年の節目にあたる平成7(1995)年11月21日、改めて日本国憲法に掲げられている恒久平和に向けて努力していくため、世界の恒久平和を願って「台東区平和都市」を宣言した。