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岸和田市における戦災の状況(大阪府)

1.空襲等の概況

 岸和田市域には大軍需工場や軍事施設など目立った攻撃目標がなかったために、数10機以上もの米軍機による大空襲はなかったが、昭和20(1945)年2月から8月にかけて、大阪・神戸・堺大空襲の余波として少なくとも5回の空襲被害に遭っている。空襲による死者は計12人であった。


<横山篤夫「地車も焼いた岸和田の空襲-48年後の聞きとりと文献の検討-」>
(『大阪国際平和研究所紀要』VOL.3、1994年)より

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2.空襲等の状況

 最初の空襲は、昭和20(1945)年3月4日で、神戸大空襲に向かったB29の一部が神戸でなく岸和田市域の海岸部や山手地区に投弾した。2回目は3月17日、やはり神戸空襲に向かうB29の一部が途中、岸和田の山手地区に焼夷弾を投下した。3回目は6月26日の大阪大空襲に伴うもので、1トン爆弾が岸和田警察署管内に着弾したというが、被弾地点や被災の詳細は不明である。4回目は7月10日未明、堺大空襲に伴うもので、この4回目の空襲が岸和田では最も大きな被害をもたらした。B29が岸和田市役所上空付近で投下した焼夷弾が強風に流されて海岸一帯に落下し、死者6人、焼失家屋(漁具小屋・納屋等を含む)約130軒の被害を出した。この空襲では、疎開道路建設のために海岸付近の納屋に移されていた中之浜町の地車(だんじり)も焼失した。さらに同日午後には市街地から海岸線一帯で、P51による機銃掃射攻撃があった。5回目の空襲は8月8日朝、P51による機銃掃射で、春木にあった航空機エンジンの部品を製造する工場が襲われた。この空襲で死者2人、重傷者2人の犠牲者があった。
(以上、横山篤夫『地車も焼いた岸和田の空襲-48年後の聞きとりと文献の検討-』による。)

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3.復興のあゆみ

 岸和田市では、大規模な空襲被害はなかったものの、戦後、市民生活の安定化や、戦中に軍需産業に重点を移していた産業復興などが大きな課題となった。また復興のための財政確保も問題であったため、昭和23(1948)年、山滝村と合併して現在の岸和田市となった。産業復興は、戦前に栄えたものの戦時中には軍需産業への転換を余儀なくされていた紡績業などの繊維産業が、軽工業に重点をおいたGHQの方針もあって、次第に復興し、朝鮮戦争時の特需景気を契機として飛躍的に業績を伸ばし始めた。

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4.次世代への継承

 岸和田市は、昭和32(1957)年、日清・日露戦争での戦没者も含めた慰霊施設として流木町に慰霊塔を、池尻町久米田寺境内に靖霊殿を建立した。慰霊行事としては、毎年9月に岸和田市戦没者追悼式を開催している。その他、毎年8月に「非核平和資料展」及び「巡回平和資料展」を開催し、戦争関連資料を展示している。

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