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豊中市における戦災の状況(大阪府)

1.空襲等の概況

 昭和12(1937)年、日中戦争が始まると、当時最も工業が盛んだった豊中市南部の庄内地域では、機械器具工場や化学工場などが、軍需用として転用され始めた。また、同年、日本発の民間専用の公共飛行場である大阪第二飛行場(現大阪空港)の建設が市西部で開始されたが、昭和16(1941)年12月に太平洋戦争が始まると、工事途中で空港輸送は全て軍事用に組み込まれた。

 昭和17(1942)年ごろになると空襲に備え防空演習が盛んになり、各家庭では火たたき棒や防火用水、砂袋が用意された。また市内の中学生も次々に軍需工場に動員されるようになった。

昭和20(1945)年に入ると、米空軍が来襲し、東京、大阪、神戸を始めとした主要都市への無差別爆撃が行われるようになった。やがて大都市への無差別攻撃は地方都市に拡大していき、大阪の衛星都市豊中にも戦火が及ぶようになった。豊中市は、昭和20(1945)年6月7日に始まり、続く6月15日、6月26日、7月9日、7月22日、7月30日の計6回の空襲を受け、多数の死傷者を出した。

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2.市民生活の状況

 昭和11(1936)年末になると、全国の市町村の多くが防護団を結成して防空演習を行った。豊中市でも、防災体制を固めるため、昭和14(1939)年に「豊中警防団」が設置され、市内各所に防火水槽が置かれるようになった。市民に対しては、町内会や隣組を単位とした自衛防空・防火が要請され、警防団の指導のもとに防空訓練がしばしば実施された。

また同14(1939)年には「米穀配給統制法」が施行され、米穀その他の主要物資はほとんど配給制となり、市民生活に大きな影響を及ぼした。

 昭和16(1941)年に太平洋戦争がはじまってからは、防空演習がますます盛んに行われるようになり、特に昭和17(1942)年4月に東京が米軍の初空襲を受けた後は、焼夷弾攻撃に備える訓練に重点がおかれるようになった。各家庭には、傷痍弾の火の粉をたたいて消す縄の火たたき棒や防火用水が用意され、家々には砂袋が積み上げられた。

 昭和19(1944)年には、学徒勤労令が発せられ、若者たちは学業をなげうって不足した労働力の補充に当てられることになった。市内の浪速高等学校、大阪薬学専門学校、府立豊中中学、府立豊中高等女学校、市立高等女学校では学徒隊が結成され、学生たちが次々に工場事業所等に動員されていった。

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3.空襲等の状況

 豊中市に被害をもたらした空襲は、昭和20(1945)年6月7日にはじまり、終戦の8月15日までの6回を記録している。

 このうち、最も被害が大きかったのは、6月7日の空襲である。6月7日の午前11時過ぎ、米空軍409機のB29、138機のP51が大阪市内北部から豊中にかけて焼夷弾と機銃掃射の雨を降らせ、住宅地域であった刀根山地区、本町地区、千里園地区、玉井町地区、走井地区、小曽根地区では大きな被害が出た。また、市南部では、庄内地区、豊南地区、神埼川右岸の工場地帯が爆弾・焼夷弾攻撃を受け、勤労動員先の工場で豊中中学(現豊中高校)や豊中高等女学校(現桜塚高校)の生徒の多くが死傷した。

 次いで6月15日・6月26日にも、B29による爆弾、傷痍弾攻撃を受け、7月に入ってからも、3回の空襲を受けたが、空襲の規模は徐々に小さくなっていった。7月30日の空襲では、来襲したP51のうち一機が高射砲で撃墜され、岡町地区に米飛行士が落下傘で降下するという事件がおきた。

 この計6回の空襲で豊中市が受けた被害は、罹災人口1万2,951人、罹災家屋3,540、死者575人、負傷者898人に及び、大阪府内では、大阪市、堺市に次いで3番目に大きなものとなった。


<豊中市の被爆地域図>
(「私たちの郷土研究『豊中』第2号豊中空襲」、昭和55年豊中市第一中学校郷土研究クラブ編、4ページ)

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4.復興のあゆみ

 昭和20(1945)年、連合国占領軍が日本に進駐し、大阪第二飛行場はアメリカ軍に接収された。翌21(1946)年には刀根山地区のアメリカ軍基地労務者の宿舎や、豊中市南部の大字菰江には11戸の戦災住宅の建設が始まり、戦後処理の事業が逐次進められた。

 同21年の10月、市では市制施行10周年を記念して、さまざまな行事を開催し、戦争のもたらした暗い生活から市民が立ち上がる気力を高めた。市制実施十周年記念式典の場では、南豊島村長と中豊島村長が豊中市との合併の意向を表明し、これをきっかけに、昭和22(1947)年に豊能郡中豊島村、同南豊島村、同小曽根村が市に編入、昭和28(1953)年には、隣接三島郡新田村の上新田を分村合併し、ついで昭和30(1955)年に豊能郡庄内町を編入して、現在の市域となった。

 戦後の新教育制度の実施に伴い、教育の面でも様々な制度改革や、施設の充実への取り組みが行われた。市では昭和23(1948)年から占領軍の放出物資を中心とした学校給食を実施し、翌年になると、保護者の参加が学校教育の民主的運営に不可欠のものとされたため各学校でPTAが結成され始めた。

 商業の面では、終戦後も消費財の不足によって経済統制が行われ、配給制が存続したため、隠退蔵物資や横流し物資が、闇ブローカの手を経て闇市に出回った。必需品の入手は闇物資の購入や物資の交換によって行われることが多く、商業の自由な取引は終戦後しばらく行われなかった。昭和22(1947)年の終わりごろになると、ようやく商業が正常な形を取り戻し、昭和24(1949)年ごろには、配給物資統制が急速に緩和され、豊中市場、桜塚市場、岡町市場、服部市場や蛍池商店街、新開地商店街、曽根商店街、服部商店街などが形成された。これらを中心として、翌25年には商工会・商店会が結成された。

 昭和58(1983)年10月15日、豊中市は「非核平和都市宣言」を行い、翌59(1984)年からは8月を「平和月間」と定め、「平和で平等な社会」の実現をめざして毎年市内各所で様々な啓発事業を実施している。

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5.次世代への継承

 市では、戦没者や空爆等による戦災者の霊を慰めるために、昭和28(1953)年から毎年1回、「戦没者空爆犠牲者追悼式」を行っている。同43(1968)年には、戦災者を追悼するため、市内豊島公園内に「てしまの塔」を建立した。

 平成7(1995)年には、戦後50周年事業として、写真や市民から寄せられた戦争資料や体験記を展示した非核平和展を開催し、市内の岡町図書館前に、戦争の恐ろしさや平和の大切さを強く訴えた、豊中市生まれの詩人峠三吉の「ちちをかえせ ははをかえせ」の詩碑を建立した。

 平成15(2003)年には、非核平和都市宣言20周年を記念して、原爆に関する写真パネルの展示や市内原爆被害者の会による被爆体験の講話が行われ、戦争体験の継承が図られるとともに、市内中学校と原爆被害者の会が、市役所の緑地帯に広島で被爆したアオギリと長崎で被爆したクスノキの二世の苗木を植樹し、平和への願いを次世代へ伝えている。

<平和月刊パネル展>

<非核平和都市宣言記念モニュメント「平和の呼び笛」>
(曽根駅前東側、昭和60(1985)年3月設置)

<非核平和都市宣言20周年記念の植樹のもよう>
(平成15(2003)年8月6日)

 

参考文献:

  • 「豊中市史 第三巻」、昭和38年、豊中市役所
  • 「豊中市史 第四巻」、昭和38年、豊中市役所
  • 「新修 豊中市史 第九巻 『集落・都市』」、平成10年、豊中市役所

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