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神戸市における戦災の状況(兵庫県)

1.空襲等の概況

 アメリカ軍による日本本土への空襲は、昭和17(1942)年4月18日に、東京・名古屋・四日市・神戸などを空襲したのが最初で、神戸では兵庫区中央市場付近が被害を受けたが、本格的なものではなかった。

 神戸市域に対する無差別焼夷弾爆撃は、昭和20年2月4日に初めて行われた。これは、それまでの空襲が軍事施設や軍需工場への精密爆撃から焼夷弾による爆撃へと方法を転換するための実験的焼夷弾攻撃であり、林田区、兵庫区一帯および湊東区に投下された。

 都市に対する無差別焼夷弾爆撃が、3月10日の東京大空襲を皮切りに本格化し、名古屋、大阪に引き続き神戸は、3月17日未明の大空襲により、兵庫区、林田区、葺合区を中心とする神戸市の西半分が壊滅した。

 また、5月11日の空襲では、東灘区にあった航空機工場が目標とされ、爆弾による精密爆撃が行われた。この空襲では、灘区・東灘区が被害を受けた。

 さらに、6月5日の空襲では、西は垂水区から東は西宮までの広範囲に爆撃され、それまでの空襲で残っていた神戸市の東半分が焦土と化した。

 こうして、3月17日、5月11日、6月5日の3回の大空襲によってほぼ神戸市域は壊滅した。

 空襲による現在の神戸市域の被害は、戦災家屋数14万1,983戸、総戦災者数は、罹災者53万858人、死者7,491人、負傷者1万7,002人という大きな惨禍であった。
(神戸市ホームページ「神戸 災害と戦災 資料館」より。なお、文中の区名はいずれも当時)

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2.空襲等の状況

2-1.空襲の状況

 アメリカ軍による日本本土への空襲は、昭和17(1942)年4月18日に、東京・名古屋・四日市・神戸などを空襲したのが最初で、神戸では、兵庫区中央市場付近が被害を受けたが、本格的なものではなかった。

 神戸市域に対する無差別焼夷弾爆撃は、昭和20(1945)年2月4日に初めて行われた。これは、それまでの空襲が軍事施設や軍需工場への精密爆撃から焼夷弾による爆撃へと方法を転換するための実験的焼夷弾攻撃であり、林田区、兵庫区一帯および湊東区に投下された。

 都市に対する無差別焼夷弾爆撃が、3月10日の東京大空襲を皮切りに本格化し、名古屋、大阪に引き続き神戸は、3月17日未明の大空襲により、兵庫区、林田区、葺合区を中心とする神戸市の西半分が壊滅した。また、5月11日の空襲では、東灘区にあった航空機工場が目標とされ、爆弾による精密爆撃が行われた。この空襲では、灘区・東灘区が被害を受けた。さらに、6月5日の空襲では、西は垂水区から東は西宮までの広範囲に爆撃され、それまでの空襲で残っていた神戸市の東半分が焦土と化した。

 こうして、3月17日、5月11日、6月5日の3回の大空襲によってほぼ神戸市域は壊滅した。
(神戸市ホームページ「神戸 災害と戦災 資料館」より再掲)

2-2.被害状況等

 神戸空襲による現在の神戸市域の被害は罹災者総数53万858人、死者7,491人、重軽傷者1万7,002人、被災戸数14万1,983戸となっているが、この数字は確定したものでなく、実際はこれを上回る膨大な損失であったことは推測するに難くない。また、神戸市の人口千人当たりの戦争被害率は47.4人であり、五大都市(東京・大阪・名古屋・横浜・神戸)で最高を示したのである。
(「新修神戸市史 歴史編4 近代・現代」より抜粋
ただし、被害数値は、神戸市ホームページ「神戸 災害と戦災 資料館」掲載数値)

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3.復興のあゆみ

3-1.敗戦直後の神戸の状況

 神戸市は、戦災によってほとんど焦土と化し、ほとんどの機能が停止状態となっていた。このため、神戸市では昭和20(1945)年11月1日「神戸市復興本部」を設置、本部長には中井市長自らが就任した。また、復興に関する重要事項を企画審議するため、本部長の諮問機関として「神戸市復興委員会」が設けられ、勝田 元神戸市長や佐藤栄作氏(当時大阪鉄道局長)など、市の内外からあらゆる分野の権威者が集められ、多方面の意見を聞くことになった。

 同年12月30日、政府の「戦災地復興計画基本方針」の閣議決定を受けて、神戸市でも翌21(1946)年3月14日、「神戸市復興基本計画要綱」を定め、旧市域の罹災地域に対する戦災復興計画を樹立するとともに、神戸市の将来の使命及び性格を見据えた「大神戸」構想を提示した。それは神戸市の性格を「国際的貿易都市」とし、これに商工業都市、文化都市並びに観光都市たる性格を併有させるとした。

3-2.産業基盤の拡大

 昭和30年代に入り、日本経済は、正に戦後復興を済ませ、高度成長へと離陸しようとしていた。神戸経済にあっても、戦前のステータス回復を目指して、本格的な経済振興策を展開する。しかし、戦後の神戸経済の回復は芳しくなく、昭和20年代には、早くも神戸経済斜陽論が展開される程であった。神戸市は、昭和34(1959)年「神戸経済振興対策調査会」を発足させ、神戸経済の浮上を目指した。それは、昭和30(1955)年から始まった高度成長は、重化学工業が中心であったため、神戸経済は市街地内の既存工業の回復によって順調に成長していくが、次第に大型化していく新規用地の不足などに悩み、息切れを見せていたからであった。

 神戸経済の低迷の原因は、港湾・工業用地面積が絶対的に不足していることであり、戦前からこの解消のため、神戸港の第1期築港以降に埋め立てを完成させていた。戦後もこの伝統的市街地拡大政策に基づき、昭和28(1953)年に東西臨海工業地帯造成事業をスタートさせ、昭和40年代にかけて続々と完成させていった。「山、海へ行く」と言われたこの開発事業では、背後に六甲山地が迫り、前面を深い神戸港に阻まれた、地理的条件のハンディキャップを克服するため、背山の住宅団地造成と海面の埋め立て事業という両面作戦がとられた。このための工事には、災害をどう防ぐか、深い海での埋め立て工事をどうするかなど、様々の難問があったが、そのために様々の工夫が凝らされた。それは正に都市づくりにおける「匠の時代」にふさわしい技術の挑戦であった。

 東西埋立地の完成は、神戸経済にとってカンフル剤となった。ことに東部埋立地での神戸製鋼所灘浜工場の完成によって、神戸産業の一大拠点を構築した。そして西部埋立地には、三菱電機をはじめとする基幹産業の進出をみ、また、神戸港の機能を補完する商業・流通基地となった。しかし、この埋立地は同時に、都市基盤用地としてかけがえのない都市空間の創出であったことも忘れてはならない。下水処理場・ごみ焼却場・高校の敷地用地など、多くの生活施設が立地したことである。

3-3.産業構造の宿命

 しかし、このような東西海面埋め立てにもかかわらず、神戸市の経済成長率は大都市としては低かった。このような地盤沈下の原因は、第一に、産業構造が必ずしも、高付加価値・高成長型のハイテク型ではなく、重工業型であったからである。神戸経済のアキレス腱は、大手重工業と零細下請企業という二極分化の構造を示しており、国際競争力・技術開発力に優れた中堅ハイテク企業の層が薄いことであった。第二に、国土・経済構造から見て、東京への一極集中、大阪・名古屋・福岡などの広域中心都市への集積が続いたことにあった。第三に、神戸市の地理的条件が工場の大規模化には向かなかった。神戸市内にはそれに必要な広大な用地を見出すことは不可能であった。第四に、神戸市にあって中堅企業の発展がなかった。大企業と下請企業というパターンは親企業への依存度が大きく、独立した中堅企業の発生・成熟する土壌を欠いていた。

 このような傾向に追い打ちをかけたのが、昭和48(1973)年10月に始まったオイルショックで、このため主力工場にあっては半分近くの人員削減を見ている。正に重工業中心時代の終わりを告げる現象であった。

 以上のような厳しい環境の下にあって、神戸の地場産業たるゴム工業のケミカルシューズ、食料品の酒、洋菓子などは、「神戸ブランド」をもって生き残っていき、神戸ファッション産業の土壌となる。ことにケミカルシューズは円高による打撃にもかかわらず、高級化によって、危機を乗り切ったのであった。

3-4.昭和42年水害の発生

 昭和42(1967)年7月9日には、熱帯低気圧となった台風7号が西日本に停滞する梅雨前線を刺激し、集中豪雨を西日本にもたらした。総雨量は371ミリと、1日当たり(9日=319ミリ)や1時間当たり(1時間最大75.8ミリ)の雨量であり、河川の氾濫により市内各地域で水害の被害を被った。この水害では高度経済成長に伴う急激な都市化が進む中で未改修の中小河川の氾濫が問題となった。その後、神戸市を初めとする各市の強い要望もあって昭和45年に都市小河川改修費補助制度が創設され、国・県の補助のもと各市が2級河川の改修に取り組むこととなった。

3-5.都市活性化への対応

 これまでの産業基盤の整備にもかかわらず、大都市としての神戸市が抱える問題は深刻であった。産業構造の変化に対して、インナーシティ問題という、社会構造の変化からくる都市構造の空洞化現象が生じてきた。伸び悩む人口、低迷する神戸経済を再浮上させていったのは「ポートアイランド」「西神ニュータウン」などの誕生であった。昭和50年代後半から人口が増に転じたのも、これらプロジェクトの完成が大きく寄与した。「ポートアイランド」は、神戸市が造成した海上都市であった。昭和40年代、埋立地は工業コンビナートという常識を破って、住み・憩い・働く複能都市を目指した。一方、陸の方では西神開発が本格化する。西神地区は大量輸送機関がないため、スプロール的開発に悩まされていた。しかし昭和52(1977)年、市営地下鉄西神線が開通することによって、西神地区の開発は一気に加速され、人口20万のニュータウン群が出現する。

 また、このような開発と呼応して、農漁業開発も積極化していく。従来、近郊農業化の政策に沿って、野菜・果樹・花などの都市型農業が進められていたが、農漁業観光施設による農業経営の安定化、高付加価値化、雇用確保、生産技術高度化といった総合政策が展開された。

3-6.文化産業の創造

 オイルショックは神戸経済にとって深刻な後遺症を残した。しかし、神戸市と地元企業は協力して、神戸経済の多機能・複合都市への転換を目指して、まず「ファッション都市」を掲げ、次いで「コンベンション都市」、さらに「アーバンリゾート都市」へと体質改善を図っていく。ファッション産業は重工業の陰に隠れて目立たなかったが、神戸の伝統的地場産業であった。しかし、それまで個々の業種でそれぞれ独自の活動をしてきたが、神戸経済の危機に際して、これら産業が一つのイメージのもとに新しい展望を開いてゆき、神戸経済の救世主たらんとした。一方、製造業にあっても、これまでの産業構造が変化していった。

 神戸市政はオイルショック以後、これまでの開発中心の公共デベロッパー方式を、文化産業振興を目指す複合経営体へ軌道転換を図っていった。工業都市からの脱皮はさらに、情報・国際都市を目指して、多くの施策が展開された。神戸市の姉妹都市・港も年々増え、神戸市在住の外国人も多彩である。戦前からの外国文化の蓄積を活かした、経済・文化活動に注目が集まった。神戸市の経済戦略は、市内重工業の再構築によるハイテク化、ファッション産業の成熟、そして文化産業の創造という三本柱によって、大きく変貌しようとしていた。神戸市は、単に量的な経済成長ではなく、質的な市民生活の豊かさに繋がる「文化産業都市」の創造にどこまで成功するか、その力量を試されていたと言える。

 経済成長と神戸市政の軌跡を辿るならば、昭和40年代は産業都市への基盤整備、昭和50年代は福祉・環境都市への条件整備、そして昭和60年代以後は文化産業都市への創造であったと言えよう。

3-7.阪神・淡路大震災の発生

 戦後50年となる平成7(1995)年1月17日午前5時46分、日本で初めて「震度7」という、大都市直下型の大地震に見舞われた。あの「阪神・淡路大震災」である。震災では4571人もの多くの命が奪われる、正に未曾有の大災害であった。

 神戸市では、一日も早い市民生活の再建と都市機能の復旧・復興を図るため、市民・事業者と市が手を携え一体となって総力を挙げて取り組んできた。そしてその間、国内外から多くのご支援やご協力をいただいた。その結果、震災から10年を経て、「神戸のまち」は再び美しく、活力あふれるまちとして甦りつつある。しかしながら、社会経済情勢の変化などにより、新たに生じてきた課題を含め、残された課題について、引き続き取り組んでいかなければならない。

 戦後50年目となる平成7(1995)年1月17日未明(5時46分)に阪神・淡路地域を襲った「兵庫県南部地震」は、日本で初めての近代的な大都市における直下型地震であり、 大きな破壊力(マグニチュード 7.3)で、神戸市域は震度6(一部地域で震度7)をもって、未曾有の被害をもたらした。

 多くの命を奪う(死亡者 4,571人、不明 2人、負傷者14,678人(H12.1.11))とともに、建築物(全壊67,421棟、半壊55,145棟(H7.12.22現在)、火災による焼損は全焼 6,965棟、半焼 80棟、部分焼270棟、ぼや71棟、延べ焼損面積 819,108m2)や都市基盤(ライフライン・交通ネットワーク・港湾施設等)に甚大な被害を与え、市民に直接的な大被害を与えた。

 復旧の長期化に伴い、直接的被害にとどまらず、避難所生活(ピーク時:箇所数599箇所(H7.1.26)避難人数236,899人(H7.1.24))に伴う精神的疲労や子ども・高齢者・障害者等への心理的影響、学校等教育機能の低下、ライフラインの復旧の遅れや交通渋滞などによる都市機能の低下、雇用の不安定化など、市民の生活に対して様々な面で、震災が影響を及ぼすこととなった。

 また、産業面においても、企業の市外への移転や被災による生産量の低下、港湾施設の被害に伴うコンテナ貨物の他港へのシフト、高速道路の寸断や復旧工事による交通容量の不足等により、神戸のみならず、日本経済へ深刻な影響を及ぼすこととなった。

 さらに、大量の災害廃棄物処理や、これに伴う環境への影響など、震災がもたらした被害は、広範囲で多方面にわたる深刻なものとなった。

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4.次世代への継承

神戸市における主な平和啓発のとりくみ

  • 本庁舎での平和啓発の横断幕の掲出(毎年8月中の約2週間 8月初〜中)
  • 広報誌「広報こうべ 8月1日号」に平和啓発記事掲載(毎年)
  • 戦災関連資料・戦争体験談の収集呼びかけ(平成10(1998)年〜)
  • 平和啓発ホームページ公開(平成15(2003)年7月〜)
    注) ホームページには、収集した「戦災関連資料」「戦争体験談」の一部を掲載
  • 平和啓発関連展示
    神戸市中央区 さんちか「アドウィンドー」での平和啓発パネル展示(平成15年まで8月中)
    ヒロシマ原爆展(平成16(2004)年7月27日(火)〜8月1日(日)広島市と共催)
    戦災関連資料展(平成17(2005)年8月15日(月)〜8月19日(金))
  • 市民団体「神戸空襲を記録する会」からの寄託資料の一部を神戸市立中央図書館(兵庫図書館)で常設展示

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