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尼崎市における戦災の状況(兵庫県)

1.空襲等の概況

 大阪に隣接する工業都市尼崎には、戦前すでに鉄鋼や電力など基幹的な工業施設が集積しており、軍需生産上も重要な位置を占めていた。このため米軍は、尼崎を爆撃目標都市として位置付けたが、阪神工業地帯において大阪と一体をなすという立地から、市街地焼夷弾空襲においては目標を「大阪-尼崎市街地域」として設定した。

 この結果、昭和20(1945)年3月から6月にかけて実施される、B29爆撃機部隊による一連の大都市焼夷弾空襲作戦のなかで、尼崎は大阪に付随する目標市街地として、4回にわたって爆撃された。このほか、武庫川河口の石油関連施設を目標とした精密爆撃の実施や、隣接する西宮〜御影市街地域を対象とした焼夷弾空襲の余波など、B29爆撃機による空襲は計8回にのぼった。

<尼崎・戦前の尼崎製鋼>
(昭和12年頃の尼崎製鋼所『尼鋼十年史』より)

 このうち、もっとも大きな被害をもたらしたのは、6月1日と6月15日の空襲であった。6月1日は第2回の大阪大空襲にあたっており、大阪西部を目標とした空襲が、隣接する尼崎市南東部にも及んだのであった。
(空襲体験者の日記より)

「(6月2日)西長洲、金楽寺(西部)全滅。(中略)旭染料、尼崎ホーロー、小西鉄工等要するに全部焼失、黒煙まだもうもうたり。防空ごうにはいりたる人は殆んど死せりと」「(6月4日)(西長洲)一ノ坪牧のとうふ屋とおぼしき附近に子供をだいたままの黒こげ死体は恐らく女性ならん。太平市場横あたりか、壕よりはいだしつつある所を直撃されしか上半身のみの見ゆるあり。惨状見るに忍びず書くに忍びず」
内田勝利「尼崎市の戦災資料補遺」(尼崎市立地域研究史料館紀要『地域史研究』第2巻第3号、昭和48年2月)掲載「松田安輝日記」より

<尼崎・本町通焼け跡>(焼け野原となった本町通商店街)
開明町付近、『ふるさと尼崎のあゆみ』より

 また、米軍による日本本土大都市市街地空襲の最後をかざる、6月15日の第4回大阪大空襲においては、大阪市域に加えて尼崎市内に2か所の攻撃中心点(爆撃照準点)が設定され、はじめて尼崎の市街地が明確に焼夷弾空襲の目標とされた。これにより、ふたたび市域南東部の市街地を中心に被害があり、市内最大の軍需工場であった住友金属工業プロペラ製造所が壊滅するなど、軍需生産にも被害が及んだ。

(空襲体験者の回想より)

「六月十五日、尼崎方面の大空襲、午前中だったと記憶しますが、空襲警報発令とすぐ表へ出たとたん、焼夷弾が目の前の地面に突き刺さり、びっくりして後ずさりして助かりましたが、声も出ないこわさでした。当時、私は国道二号線近くに住んでいましたが、近所の方とご一緒に人家の少ないJR尼崎駅(昔は国鉄神崎駅)の方へと逃げましたが、現在の合志病院あたりであちらこちら焼夷弾が民家に落とされ、またたく間に、空一面夜のごとく真っ暗になってきました。

敵機はすごい音を立てて低空飛行にて人の姿を見ると、奇襲攻撃されると聞いていたので、音が聞こえなくなると、ひたすら走り続け北へ北へ、音の聞こえる時はうずくまっては入れるどぶ板の中に隠れました。ともかく田んぼの方へと逃げましたが、下坂部方面まで逃げました。

ようやくおさまり、やっと実家に帰り着きましたが、家にも焼夷弾が押入に落ち、ちょうど叔父が来て下さっていて火を消して下さったと母は話していましたが、父も会社で空襲にてけがをしてしまいました」
『きょうちくとうの咲く街で-尼崎市民が綴る戦争体験の記録-』(同編集委員会発行、平成7年)掲載、村上常子「尼崎大空襲・六月十五日のこと」より

 このように大きな被害を受けた尼崎であったが、米軍のおもな空襲目標は焼夷弾による延焼効果の高い中心市街地であったため、米軍が精密爆撃目標に設定した一部の工場を除いては、臨海部の工業地帯の被害は限られたものにとどまった。

<尼崎市域戦災被災地と主要軍需工場、6月15日空襲の攻撃中心地点と想定燃焼範囲>

 第一復員省作成「全国主要都市戦災概況図・尼崎市」(原書房発行『日本都市戦災地図』-昭和58年-所収、合併前の園田村被災地は記載せず)をベースに、文献史料により空襲罹災の日付が確認できる区域を付け加えて作成しており、かならずしも市内の空襲を網羅した完全なものではない。

 現実には同じ区域が複数回被災した場合も多く、特に大庄地区臨海部(市域南西部)は、図上では7月19日と8月5〜6日の被災地が広範囲を占めるが、現実にこの区域の工場群に大きな被害をもたらしたのは、むしろ8月9〜10日の空襲であった。

B29爆撃機部隊による焼夷弾空襲の方式

 目標市街地に火災が広がるよう攻撃中心地点を設定。大きな交差点や駅など、照準しやすい場所を選ぶ。

 攻撃中心地点ごとに部隊を割り振り、先導機が同地点に投弾して大規模火災をおこす。

 後続機は先導機が発生させた大規模火災を目標に投弾する。結果として、攻撃中心地点から半径1.2km以内に投下弾の約半数が落下し円内を焼き尽くすという想定のもと、その範囲が目標市街地を覆うよう設定されている。

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2.市民生活の状況

 阪神工業地帯の中核であった尼崎においては、戦時期多くの工場が軍需生産を行なった。このため早くから防空体制が整備され、物資配給や勤労動員、疎開などが実施された。

 明治なかば以降、工業化が押し進められた現尼崎市域は、戦前においてすでに、阪神工業地帯の中核を占める重化学工業都市であった。臨海部を中心に、鉄鋼・機械・化学・電力といった工場が集中して立地し、阪神国道(国道2号線)や阪神・阪急および東海道線沿線などには、近郊住宅地が形成されていた。

 第二次大戦期においては、現市域に立地する多くの工場が、軍需生産を行なった。このうち、日本最大のプロペラ製造工場であった住友金属工業プロペラ製造所、武庫川河口部に位置した日本石油関西製油所および日本人造石油尼崎工場、東洋最大級の規模を誇った日本発送電の火力発電所群などが、軍需関連の重要施設として米軍の空襲目標資料にリストアップされ、昭和20(1945)年には現実に爆撃被害を受けることとなる。

 このように、軍需生産のうえで重要都市と位置付けられた尼崎市においては、日中戦争開始以前の昭和10(1935)年10月早くも防護団が組織され、昭和14(1939)年4月には防護団と消防組を統合して警防団を結成、防空体制を整備しつつ対空警戒・灯火管制などの訓練が行なわれた。また警防団とは別に、工場防護団(のち工場防衛団)も組織された。防火能力向上の必要から、昭和16(1941)年10月には消防署施設を新設、さらに昭和18(1943)年12月に定められた都市疎開実施要綱の対象とされ、同月以降防火帯設置のための建物疎開が順次実施された。昭和20(1945)年に入って空襲が現実のものとなると、住友金属プロペラ製造所をはじめ、重要軍需工場の県内郡部への疎開も実施された。

 戦時体制が強化されていくなか、銃後の市民生活に直接影響をおよぼしたのは、物資の配給、勤労動員、そして人員疎開であった。

 まず物資の面では、太平洋戦争開戦前年の昭和15(1940)6月、はやくも砂糖とマッチの配給制度が開始される。翌昭和16(1941)年4月には米穀配給開始、昭和17(1942)年2月以降は衣料も配給となるなど、生活物資は徐々に入手困難となり、市民の生活は闇物資に依存するようになっていく。

 次に勤労の面では、生産増強と工場労働者の応召などによる労働力不足に対応するため、勤労世代全般の徴用に加えて、昭和18(1943)年9月以降は女子挺身隊の結成と派遣が進められた。昭和19(1944)年に入ると中等学校、さらには国民学校高等科の生徒までもが勤労動員の対象となり、市内の軍需工場や官公庁で働いた。市外、それも近畿のみならず中部地方・中国・四国地方といった遠方からも、多くの生徒が尼崎の工場現場に動員された。

勤労動員体験者の回想

「尼崎高等女学校の生徒だった原田光子さんも、昭和20年になると動員学徒として、市内の古河電工で働くことになる。原田さんは比較的楽な検査係だったが、同級生の中には薬莢棒を洗う仕事に回され、希硫酸で作業をするため、薬が飛んでセーラー服がぼろぼろになっていたという。

ある日、工場で空襲があって、原田さんたちは逃げ遅れた。思わず目の前にあった工場長専用の防空壕に飛び込んだ。中にいた人から「出なさい」と言われたが、怖くて足がすくんでしまった。そのとき「こんなときに外に出られるものか。ここにいたらいい」という別の声がした。今でもそのときのことは忘れられないと原田さんは言う」
井上眞理子著『尼崎相撲ものがたり』(平成15年、神戸新聞総合出版センター)より

 一方人員疎開は、昭和19(1944)1月以降実施された。同年7月、尼崎市は学童疎開都市に指定され、国民学校初等科3〜6年の児童が、県下川辺郡・多紀郡・氷上郡・多可郡へと集団疎開した。疎開児童数は同年9月末現在で縁故疎開9,775人、集団疎開3,914人を数え、その後さらに増加し、昭和20(1945)年7月末には集団疎開先175か所、同人数5,115人に及んだ(『尼崎市史』第3巻より、なお数字は合併前の園田村を除く当時の尼崎市のもの)。


<尼崎・竹谷児童農園作業・避難訓練>
(「昭和18年度竹谷国民学校初等科終了」記念写真帳」より)

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3.空襲等の状況

 昭和20(1945)年3月から8月にかけて、たび重なる空襲被害を受けた尼崎。米軍は隣接する大阪と一体の目標としてとらえており、市街地に対する焼夷弾空襲は主として大阪大空襲に付随して行なわれた。

 マリアナ諸島より飛来する米軍B29爆撃機部隊が、現尼崎市域に対して行なった空襲は、昭和20(1945)年3月から8月にかけて計8回を数えた。加えて、同年3月19日には米海軍第5艦隊第58機動部隊の艦載機による機銃掃射があり、6月1日と7月10日には硫黄島に基地を置く米陸軍航空軍第7戦闘機集団のP51戦闘機による爆弾投下・機銃掃射があったことが確認されている。

 このうち、B29による6月1日と15日の空襲は、それぞれ第2回と第4回の大阪大空襲にあたっており、尼崎に対しても大きな被害をもたらした。いずれも市街地を目標とした焼夷弾空襲であり、1日は西長洲・金楽寺・開明・杭瀬・梶ヶ島など、15日は難波(なにわ)・長洲・浜・下坂部・立花・杭瀬・大物(だいもつ)・城内・開明など、各所に被害をもたらした。市内の多くの工場や学校・病院などにも被害が及び、市内最大の軍需工場であった住友金属工業プロペラ製造所も15日の空襲により壊滅した。また武庫川河口東岸に位置する、日本石油関西製油所などの石油施設群を目標として、7月19日と8月10日には爆弾による精密爆撃作戦が実施された。これにより、目標となった石油施設や、隣接する日本発送電尼崎第一・第二発電所が破壊された。

 これらの空襲のうち、規模の大きかった7回分の空襲による被害が、尼崎市の公文書に記録されている。それによると、7回の空襲による被害合計は死亡者479人、重傷者709人、家屋全焼11,235戸、半焼716戸、全壊368戸、半壊479戸、罹災者数42,094人であった(『尼崎市史』第8巻より、なお数字は合併前の園田村を除く当時の尼崎市のもの)。

 このように、たび重なる空襲を受けた尼崎であったが、焼け野原となったのは主として住工混在地域や商業地であり、臨海工業地帯は一部を除いて比較的被害は軽易であった。敗戦時の罹災面積合計は5.29km2と報告されており、合併前の園田村を除く当時の市域の13.4%にとどまった。大阪・神戸・西宮・芦屋・明石・姫路といった近隣の罹災都市と比較すると、人口に対する罹災者率も相対的に低い。これは、米軍が尼崎を大阪と一体の目標としてとらえており、焼夷弾空襲による市街地の被害が、主として大阪大空襲に付随してもたらされたことなどに起因していると考えられる。


<尼崎・日本石油・日本人造石油>
(日本石油関西製油所、日本人造石油尼崎工場の空襲被害)
(『尼崎市史』第3巻より)

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4.復興のあゆみ

 空襲罹災者に対しては、戦時中から、尼崎市による各種援護事業が実施された。戦後、商工業などの経済が復興し、復興都市計画も実施された。

尼崎市は空襲罹災者に対して、戦時中から戦後にかけて、戦時災害保護法にもとづく援護事業を実施した。具体的には、応急救助としての避難所開設・炊き出し・被服等必需品費給与・医療及び犠牲者火葬埋葬、戦災者への家財・住宅・遺族・障害給与金支給、見舞い金・見舞い品支給、戦災相談の実施、戦災老人・孤児・母子・障害者・疾病者等への援護、援護資金の募集と衣料品等物資の配給などを実施した。これらの援護事業は昭和22(1947)年まで継続し、その後は生活保護法にもとづく一般施策へと移行した。また昭和21(1946)年2月には、戦災孤児・引き揚げ孤児の生活と教育の保証を目的として、おなじ兵庫県内の有馬郡道場村に尼崎市戦災孤児等集団合宿教育所を設置した。この施設は昭和25(1950)年4月に、児童福祉法にもとづく養護施設尼崎学園となり、現在も存続している。

 一方、罹災した市街地の復興は、まず商店街からはじまった。阪神出屋敷駅の北東には、戦前以来の三和商店街に隣接して巨大な闇市が出現し、配給だけでは生活が困難な市民に、食料品や衣料品を供給した。闇市はやがて新三和商店街となり、三和商店街とともににぎわいを見せた。また旧城下町の街道筋にあたり、戦前は阪神間随一の繁栄を誇った本町通商店街は、建物疎開と戦災によりほぼ消滅したが、多くの商業者が阪神尼崎駅の北西に移り、新たに中央商店街を立ち上げた。同じく空襲により焼け野原となった、国道2号線沿いの杭瀬商店街は、戦後いちはやく街区を整備拡張して、戦前よりさらに大規模な商店街として復興した。

 商業に続いて工業も、徐々に復興していった。たとえば、戦前以来尼崎の基幹産業であった鉄鋼業は、戦災や敗戦後の経済的混乱のなか生産の減少と停滞をよぎなくされたが、まもなく政府の傾斜生産方針による優先的な資金配分などを受け、全国にさきがけて急速に回復した。やがて、昭和25(1950)年の朝鮮戦争にともなう特需景気をきっかけに、尼崎の工業は高度成長へと向かっていく。

 こうした民間の経済復興と呼応しながら、市による復興事業も進められた。戦災復興院により昭和21(1946)年8月に認可された復興都市計画は、従来の都市計画に変更を加えたもので、戦災復興とともに、戦前来の地盤沈下に起因する水害対策を柱としていた。昭和22(1947)年3月と23(1948)年9月に認可された復興土地区画整理事業は、当初資金難もあって難航し、昭和33(1958)年4月に至って、ようやく234.4haの施行を終えた。


<尼崎・杭瀬商店街復興>
(杭瀬商店街復興地鎮祭)
(中田寅一氏所蔵写真より)

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5.次世代への継承

 西長洲八幡公園内には平和塔が設置されている。また旧開明小学校の塀には、機銃掃射の跡が残されている。

 尼崎市内における、もっとも大きな空襲罹災地のひとつである西長洲においては、八幡公園内に平和塔が設置されている。昭和37(1962)年8月15日に、地元住民による「西長洲六人会」により建立されたもので、戦災者の50回忌にあたる平成6年までは、毎年空襲のあった6月1日に慰霊祭が行なわれていた。以降は、10年ごとに慰霊祭を執り行なう予定であるという。

 また、市内の旧開明小学校の塀には、P51戦闘機によると思われる機銃掃射の弾痕が残っており、塀の一部が戦争遺跡として保存されている。


<尼崎・西長洲八幡公園平和塔>

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