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和歌山市における戦災の状況(和歌山県)

1.空襲等の概況

 太平洋戦争における米機の本土空襲は、昭和17年4月18日の空軍艦載機が東京付近を襲ったのを最初とする。

 東京、名古屋、大阪、神戸など大都会への空襲が激化するなか、和歌山市も何度かの空襲を受けていたが、本格的な空襲は、7月9日の市内大空襲であった。

3時間の爆弾攻撃と焼夷弾爆撃で市街地は破壊され、多くの死傷者を出した。

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2.空襲等の状況

 本市では、昭和20年1月9日、1機のB29が突如、吉田、黒田の上空に現れ、250kg爆弾約10発を投下したのを最初,終戦前日の8月14日の松江地区住友工場爆撃を最後として、合計10数回の空襲を受けた。もっとも被害が大きかった7月9日のB29による大空襲は、1編隊が通った後、次の編隊が、さらに第3の編隊がまた落としていくといった風に文字通りの波状攻撃で、午後11時36分に始まり、翌10日午前2時30分まで、縦横無尽の猛攻撃を続けた。

 なかでも、旧県庁跡の凄惨さは目を覆うものがあった。4,000坪の空地は、大部分畑地に耕され絶好の避難場所と思われていただけに空襲となると人々は、争ってここに集まり、四辺から迫る火熟と黒煙を凌いだ。

 やがて猛烈な旋風が起こって吹き付ける火災は白熱の渦巻と化し、石が飛ぶ、人が飛ぶ、立ち上がって走ってその場を逃れようとしても出来ず、助けを求める声は焼夷弾の爆音や強風の音に混じって凄惨であった。夜が明けてから見る空地の光景は、壕の中、散乱した土管の中、荒廃した畑地の至るところに死体が累々。窒息死したもの、衣服が焦げて半裸や、裸のもの、黒焦げのもの、骨ばかりになっているもの様々で、同所の死者は、本空襲による全市の死者の6割強(748人)を占めた事実から見てもその惨状が思いやられる。

 大空襲による市内の火災は、7月10日朝5時ごろになって、大体燃えるものは、燃え尽くして、ようやく収まったが、これまで市の象徴として市民が見慣れた和歌山城の天守閣は、一夜にしてその姿をかき消した。

 この空襲よる全市の被害は、全焼2万7,402戸・重軽傷者4,438人、死者1,101人という大惨状であった。

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3.復興のあゆみ

  和歌山市は、昭和20年の戦災で、市域の約70%を焼失、市街地は一望の焦土と化した。この焦土を応急復旧する一方、将来を展望した新しい和歌山市建設を目指す戦災復興計画を樹立した。この計画は、それまでの都市計画の欠点であった雑然とした市街地を明るく文化的で能率的な都市として再建するのが骨子であった。

 また、戦災被災者を対象とする住宅建設は最も急を要し、市営応急住宅1,500戸、市営貸家住宅200戸が計画され、子供達の教育の場である国民学校も整理統合を行った。

 この様に、官民一帯となって復興に取り組んだが、国力の全面低下等のため、その速度は遅かったが、それでも少しずつであるが、活気を取り戻していった。

 戦災によって、一夜でその姿を消した和歌山城も昭和34年に再建され、市の象徴として再びその雄姿をあらわし、市民の喜びもひとしおであった。

 和歌山市も戦後50年を迎え戦災の焦土から落ち着きのある都市として立派に立ち直り、21世紀に向かって国際都市和歌山へと飛躍発展していくため着実に歩み続けている。

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4.次世代への継承

 毎年7月9日法要を開催している。

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