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福岡市における戦災の状況(福岡県)

1.空襲等の概況

 昭和19(1944年)6月に、北九州地区が初空襲を受け、本市も空襲必至の状況のなかで、貯水槽とか防空壕、退避壕などの設営があわただしく進められ、また市街密集地帯では、防空対策の観点から工場疎開や建物疎開が行われた。

 昭和20(1945)年6月19日、マリアナ基地を発進したB29は、九州の行政、経済の中心である福岡市の工場、港湾、鉄道などを攻撃目標として、九州南部より分散北上し、有明海から佐賀県、背振山地を越えて西南部方面から本市上空に侵入した。221機といわれるB29の反復攻撃は、午後11時10分ごろから翌20日の午前1時ごろまで続き、約2時間にわたる空襲で、市の繁華街をはじめ、主要な地域を殆ど焦土と化した。


<玉屋デパートから東北を望む>
(毎日新聞社撮影)

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2.市民生活の状況

学校で集団生活・生活必需物資の配給(昭和20年6月23日 西日本新聞)

 福岡市は、戦災者の集団生活場所を指定し、ここを通じて生産必要品をはじめ、あらゆる物資を配給することとなった。集団指定地には、臨時罹災者配給所を設置、米、味噌、醤油はもちろん佃煮、野菜、牛肉、炊事道具、石鹸、タオル、塵紙、縫糸、縫針、下駄などの生活必需品を配給する。

 また、福岡市の戦災者へ塩と煙草を、町内会長が配給所で一括配給を受け、町内会毎に戦災者へ配給する。石鹸(化粧、洗濯)1世帯1個、塵紙1人20枚、縫糸1世帯1かせ、縫針1世帯1本、23日から配給、このほかコンロ、家庭用陶器、食器類、タオル、シャツ類も近く配給する。

「戦災1ヶ月後」 (昭和20年7月19日 西日本新聞)

 暴虐な敵はわれわれの家を焼き、家財を焼いたが、「博多っ児の魂」だけは焼くことができなかった。運輸、通信を始め各種重要施設は直ちに復旧し、焼けあとには半地下式の壕舎が建てられ、菜園が拓かれるなど、いまではすっかり戦塵を払拭した大福岡市が、逞しい新生の営みをつづけており、すさまじい市民の戦意を物語っている。

  • 疎開:重要建物の周辺や要疎開地帯の間引を行い、不燃焼都市建設が早急に進められまた市近郊の山間に、「防空山小屋」式の横穴を併設した壕を造るなど、戦災1ヶ月は福岡を一躍完璧の防空都市に塗り変えつつある。
  • 農村:隣組単位の横穴式壕や田畑にタコツボ壕などを造り、農具や保有米、衣料などを確保するほか、農業倉庫もすっかり偽装された。

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3.空襲等の状況

 6月19日夜、10時ごろに警戒警報が発せられ、やがて警報は空襲に変わった。間もなく夜空にB29が2〜3機不気味な爆音を響かせ、探照燈が機影を追うなかで高射砲が散発的に炸裂した。そして、始め市内の東部ならびに西部の両地区に焼夷弾が投下され、発生した火災を目標に、後続機がその中間に投弾した。少数機編成で次々に飛来するB29、夜空にきらめきながら油脂焼夷弾の雨が、市の中心部を始め、市南西部方面にまで降り注ぎ、全市は火の海に包まれ、約2時間にわたる空襲で、伝統ある福岡の街は一望の焦土と化した。

 被災面積は3.78km2に及び、被災戸数1万2,693戸、被災人口6万599人を数え、死者902人、負傷者1,078人、行方不明244人を出した。西部軍関係の施設を始め、官公庁、学校、会社、工場、商店街から一般民家に至るまで、多数の建物が被弾炎上し、交通、通信、電気、ガス、水道などの公共施設も甚大な被害を受け、都市としての機能は壊滅的な状態に陥った。劫火の中に肉親や住まいを失った人々にとって、忘れることのできない悪夢の一夜であった。
(『福岡の歴史ー市政九十周年記念』より。ただし、数字はいずれも、『福岡市史』による)

 市の中心部の繁華街を始め、主要な地域を殆んど焦土と化した。東は御笠川より、西は樋井川迄延長約5km。

 北は博多、福岡の両港の海岸線から、南は櫛田神社、大濠公園の線迄幅1.8kmの区域は殆ど全部(御笠川左岸沿い幅200mから500m、南北800m並びに西公園より西側、市内電車以北の海岸沿いと樋井川右岸250m残し)焼失した。

 その他、西鉄環状線、城南線沿いの柳町、薬院出口、平尾、六本松、今川橋の数箇所が、幅250m長さ400mから幅200m長さ500m程度の区域を焼失した。

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4.復興のあゆみ

 昭和20(1945)年6月19日の空襲で、市街地中心部の殆どを廃墟と化し、上下水道の漏水率も60%にも達し、電気、ガス、水道などの都市施設も甚大な被害を受けていた。このため、終戦直後の都市復興は、緊急を要する市街地の清掃と上下水道の漏水防止など、応急復旧事業から開始された。

 昭和21(1946)年1月市に新設された復興部のもとで、復興計画の基幹となる都市計画街路と区画整理区域が決定され、さらに一連の公園緑地計画や地域地区の決定へと進む。

 戦後の社会経済の混迷と占領下という事態のなかでも、西日本の雄都として市勢は順調に進展し、昭和24(1949)年末には人口も37万7,000人と戦前の最高を上回った。

 順次の町村合併を経て、昭和47(1972)年4月1日、川崎、札幌両市とともに指定都市として発足、昭和50(1975)年には、人口も100万人を超え九州における経済・情報・文化の中心都市として発展している。

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5.次世代への継承

 福岡大空襲並びに外地からの引揚中の死没者の冥福を祈り、恒久平和への誓いを新たにするために、終戦20周年を記念し、昭和40(1965)年6月19日(福岡大空襲の日)、博多区冷泉公園内に戦災死没者慰霊塔が落成、除幕した。その後毎年、同月日に慰霊塔前で福岡市社会福祉協議会による「福岡市戦災引揚死没者追悼式」を実施している。また、戦没者並びに福岡大空襲などの戦災死没者を追悼し恒久平和への誓いを新たにするため、毎年6月19日福岡市民会館において、福岡市主催で「福岡市戦没者合同追悼式」を実施している。

博多港引揚記念碑

 戦後50周年の節目の年に、かつて博多港が国内最大の引揚港として果たした役割を忘れることなく、アジア・太平洋の多くの人々に多大な苦痛を与えた戦争という歴史の教訓に学び、このような悲惨な体験を二度と繰り返さないよう次の世代の人々に語り継ぎ、永久の平和を願って、この記念碑を建設した。

<豊福 知徳氏作 「那の津住還」>
(竣工)
平成8年3月28日
(作品のコンセプト)
敗戦直後の失意とその後に湧き興ってきた生への希望を永遠に記念するモニュメントとして製作しました。
舟の上の本体(人間)の朱は、古代から愛されてきた色であり、那の津と呼ばれて来た博多港の希望を表現したものです。

博多港引揚記念碑までの距離と所要時間。福岡空港から約5.5キロメートル、車で約15分。JR博多駅から約2.5キロメートル、車で約5分。福岡の都心・天神から約2キロメートル、車で約5分。

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