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佐世保市における戦災の状況(長崎県)

1.空襲等の概況

 佐世保市は、明治22(1889)年7月の佐世保鎮守府開庁以来、急速に発展した街で、軍港建設に伴う人口増により明治35(1902)年に市制を施行した。

 その後、軍都として栄えたが、第二次世界大戦の戦線拡大に伴い、海軍工廠は増員に次ぐ増員で、艦艇の新造や破損艦艇の修理、兵器爆薬の製造に全機能を傾け、軍港、軍需補給基地として、佐世保の街は完全に戦争一色に塗り潰された。

 疎開前の佐世保市の人口は30数万人といわれ、海軍工廠従業員も5万人を超えたと伝えられた。

 昭和20(1945)年6月28日午後11時50分過ぎ、突如、物凄いプロペラの轟音とともに、141機(米軍資料)におよぶB29が来襲し、わずか2時間で千トン余の大量の焼夷弾が投下され、市内の中枢が完全に廃燼に帰し、文字どおりの焼け野原となり、多くの市民が犠牲となった。

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2.市民生活の状況

 配給物資は公定価格だったが、不足し、遅れたため、市民はやむを得ず、はるかに高いヤミ値で物資を購入した。

 収穫量の多いカボチャや芋類を空き地やグラウンドに植え、木や草の花、葉、茎、根、実を争って食べた。

 味噌も家庭で作り、戦争末期になると海水を汲んで自家製塩さえ行った。 衣料は切符制が実施され、1人年間百点と定められていた。洋服は3つ揃い50点、シャツ12点、靴下 2点という具合であったから、衣生活もなかなか容易ではなかった。純綿、純毛製品のほとんどが軍需方面にまわるようになってからは、衣料点数は次第に減ったばかりか、市民は人絹やスフなどの混織品で我慢しなければならなかった。

 防空対策としては、市の警防課は警防団などの協力を得て、各家庭に火たたき、砂袋、むしろ、バケツなどを整備させ、ガラス戸すべてに爆風よけとして紙を張らせた。

 また、消防・消火のため、井戸掘りを奨励し、隣保班単位に大型水槽を作らせ、各戸には4斗入りほどのコンクリート製水槽を設置させた。さらに各戸には、床下や庭先に待避壕を作らせ、また、多額の費用と人力をかけ、市及び町内会の手によって、市内の至る所に横穴式の防空壕が作られた。

 県の防衛本部では初期防火の徹底を期するため、長崎、佐世保、大村、諫早の4市及び川棚町に対し、焼夷弾対策として、天井板の取り外しを各警察署及び市町村あてに通知し、市はこれに基づいて市内の官公庁、民家の天井外しを強行させた。

 空襲の危機が迫るとともに、周辺農村や佐賀県方面へ疎開していく者が目立って多くなった。人はともかく、まず家財道具だけでもというので、わずかに残ったトラックや馬車で、それもかなわぬ者は、リヤカーや手押車で荷物を疎開させる者が相次いだ。

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3.空襲等の状況

  昭和20(1945)年4月8日午後0時30分、B291機が来襲し、佐世保市に初めての爆弾を投下し、海軍工廠と民家で百数十名の死傷者を出した。

 昭和20(1945)年6月28日午後11時50分過ぎ、突如、物凄いプロペラの轟音とともに、141機(米軍資料)におよぶB29が来襲し、わずか2時間で千トン余の大量の焼夷弾が投下され、市内の中枢が完全に廃燼に帰し、文字どおりの焼け野原となり、多くの市民が犠牲となった。

被災状況
焼失面積 1,782,000 m2
消失家屋 全焼 12,037戸
半焼 69戸
被災者 60,734人
死亡者(延人数) 注)1,225人

注)平成17年現在 佐世保空襲犠牲者遺族会調べ

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4.復興のあゆみ

 終戦直後の混乱と混迷のなかで市民各層の代表者を集結し、市長の諮問機関として「佐世保市復興委員会」が結成され、佐世保市の将来について論議がなされた。

 そこでは、恵まれた天然良港、豊富な港湾施設、九十九島の風光明美な観光資源に着目して、平和都市産業、国際貿易港、観光都市を目指すことになった。

 こうした商業転換への市民の願いは、昭和23(1948)年以後、貿易港指定、貯油港、食糧輸入港指定へと実を結んでいった。

 しかし、占領治下、依然として港湾施設の重要部分は連合軍に接収され、その多くは、国有財産のまま大蔵省の管理下に置かれていたため、市財政は極端にひっ迫していた。

 そのため、海軍が残した土地、施設、建物を利用して、産業経済の復興を図ろうと考えた市は、これらを国から譲り受けるために「旧軍港市転換法」の制定を目指すとともに、「平和都市宣言」を行い、平和産業港湾都市への方向を内外に示した。

 行政面では警察署、消防署、市の東京事務所、保健所等が発足し、市の機構と機能は拡大され、この間、市営住宅も建設された。

 また、終戦とともに戦災によって焼け出され、強制疎開していた人々や復員、引揚者が次々に復帰した。

 ここに新生佐世保の構想は、多くの困難に直面しながらも、次第に軌道に乗り、戦災の焦土から立派に立ち直った佐世保市は、豊かな自然の恵みのもと、産業に観光にと目覚ましい発展を遂げている。

 特に、平成14(2002)年度には市制施行百周年の各種記念事業も行い、新たな百年に向けての着実な歩みを続けている。

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5.次世代への継承

5-1.佐世保空襲死没者追悼式

 佐世保空襲による死没者のご冥福をお祈りするため、佐世保市主催により毎年6月29日(戦災日)に「佐世保空襲死没者追悼式」を開催している。

5-2.佐世保空襲写真展

 佐世保空襲の歴史的事実を伝え、恒久平和について市民の理解を深めるため、佐世保市主催で毎年6月29日前の約10日間、「佐世保空襲写真展」を開催している。

  • 場所:佐世保市役所1階ロビー
  • 写真:28点(1点の大きさ440mm×550mm)

5-3.佐世保空襲を語り継ぐ市民の集い

 佐世保空襲の体験や平和の尊さを語り継ぐため、佐世保空襲を語り継ぐ会の主催で毎年「佐世保空襲を語り継ぐ市民の集い」を開催している。

  • 場所:佐世保市内公共施設

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