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熊本市における戦災の状況(熊本県)

1.空襲等の概況

 熊本市は九州の中央に位置し、国防上の要地として明治4(1871)年に鎮西鎮台(後の第六師団)が置かれた。熊本城本丸を中心に司令部や兵営、病院、倉庫群、兵器・弾薬の貯蔵施設などが設けられ、市街には軍関係の食糧や日用品、酒保品を納める中小企業も多く、繁栄を極めていた。熊本城は熊本市の中心であり、そこを軍が大きく支配していた。これが戦前の軍都熊本の姿であった。

 昭和20(1945)年当時は、日本全土で2月本土決戦態勢が本格化し、内地決戦に向けて軍制の改革が行われた。熊本城本丸にあった留守第六師団司令部は熊本師管区司令部に変り、管内各部隊の名称も歩兵第一補充隊は西部第61部隊、騎兵補充隊は廃止され同部隊に吸収、歩兵第二補充隊は西部第60部隊、歩兵第三補充隊は西部第18部隊、砲兵補充隊は西部第21部隊、工兵補充隊は西部第65部隊、輜重(しちょう)補充隊は西部第67部隊、通信補充隊は西部第26部隊、第6師団制毒訓練所は西部第25部隊へと変更され、任務も従来の兵員訓練の他、作戦配置部隊のない地区の警備を担当することになった。

 池田町には陸軍航空本部、健軍・帯山町には昭和19(1944)年に健軍三菱航空機工場が建設され航空部隊が展開していた。また、師管区高射砲部隊が新設され熊本駅や健軍飛行場等に配備された。

 昭和17(1942)年4月18日、航空母艦から発進したB25、16機が京浜・名古屋・神戸などを爆撃した。米軍による本土空襲の最初であった。この日熊本市でも午後4時に警戒警報が続いて、その20分後には空襲警報発令が出されたが、爆撃機は飛来せず、警報は午後6時30分解除された。昭和19(1944)年6月16日には北九州工業地帯が初めて爆撃を受け、熊本でも警戒・空襲の両警報が発令されたが、米機の来襲はなかった。

 熊本市が初めて爆撃を受けたのは、昭和19(1944)年11月21日のことである。在中国米軍機B29、80機が午前10時頃、九州西部に来襲し、花園町柿原に500キロ爆弾10数発を投下した。この時の被害は全焼全壊3戸、死者4名、負傷者5名であった。これが県下で初めての爆弾投下となった。

 昭和20(1945)年になると米機の襲来は激しくなってきた。3月18・19日には米機動隊の艦上機が大挙して県下各地の基地飛行場、軍事施設とその周辺、さらに市街を襲った。このときの空襲で球磨郡・人吉市で10数人が死亡するという被害を受けた。27・28日にも三菱重工業、日本窒素水俣工場、東海電極田浦工場が空襲を受け、以後県下は本格的な空襲の嵐につつまれた。

 全国の中小都市に対する夜間焼夷攻撃が開始されたのは6月以降である。熊本市は攻撃目標として「市内には多数の小工場があるが、その多くはおそらく市街地1.5マイル東にある航空機組立工場のための部品製作工場に転換されているものと判断される。また大きな軍事施設と重要な鉄道を有する」ところと認識されていた。

 「市街地1.5マイル東にある航空機組立工場」とは、昭和19(1944)年1月健軍町に設立された三菱重工業熊本航空機製作所のことである。ここでは、キ-67重爆撃機(軍用名、飛龍)が昭和20(1945)年6月までに46機製造された。昭和20(1945)年3月ころから空襲の標的となり、激しい攻撃を受けた。特に3月18日の空襲では、工作機械7台が被害を受け、死者6名、負傷者13名が出た。5月13日の空襲では、工作機械が9台、操業機械56台が被害を受け、死者は8名、負傷者は3名に及んだ。このような中、工場の分散、疎開が計画され、6月の末までには、組立工場、整備工場などを残して、ほとんどが第五高等学校、済々黌、熊本中学、第一高等女学校などの各学校へ分散疎開した。また、熊本市内の中小工場はその下請けとして部品の製造をしていたと思われるが定かではない。

 7月1日、呉、下関、宇部への攻撃とともに実行された熊本市への空襲は、熊本市への攻撃の中で最大規模のものであった。熊本大空襲と呼ばれている。23時50分より2日1時30分ころまで焼夷攻撃がかけられ、爆弾の投下量は1107.2トンに達した。この大空襲で新市街、下通町、水道町、大江町、新屋敷町、安巳橋通町、水前寺町、草葉町、黒髪町など市街の大部分を焼失した。さらに8月10日午前にも7月1日に次ぐ規模の空襲を受けた。熊本市街は焦土と化し、終戦時には市街の30%が被災していた。

 空襲の後は「敵がすでに鹿児島に上陸した」「今後は戦爆連合1000機で何日に熊本を大空襲する」等各種のデマが流れた。また、赤痢が蔓延し、戦災復興の陣頭指揮を執っていた平野龍起熊本市長も8月10日赤痢で死亡した。

<罹災(熊本大空襲)直後の市街地>

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2.市民生活の状況 (『激動二十年』『新熊本市史』)

2-1.隣保組

(大江町男性、当時大江校区町内隣保組長の体験より)

熊本市内にはざっと300の町内会、3900の隣組が強制的に作らされていた。戦況が悪化するにつれて、隣組はこれまでの単なる統制、教化の組織から物資配給の末端ル-ト、勤労動員の機関となり、地域民の監視役まで受け持たされた。

隣保組の勤労奉仕、防空演習は毎日のように続いた。夜は夜でたばこや砂糖、マッチの物資配給、金、銀、白金などの貴金属の供出、債券割当が待っている。さらに隣保組内に出征者があると、餞別を集め、味噌天神宮で出征壮行会を開くのも隣保組長の仕事。たいていどこの隣保組からも出征兵を送り出すので、よその隣保組より早く天神宮に一番乗りするため、朝4時には全員をたたき起こさねばならない。配給、供出、見送り、演習、強制貯金、労務奉仕の割り振りなどすべて回覧板で連絡した。この回覧板の威力をたたえたのがトンカラリの〃隣組の歌〃だった。

2-2.勤労動員・防空演習

(大江町男性、当時大江校区町内隣保組長の体験より)

【健軍飛行場の地ならし動員】

目的地の健軍飛行場に着くと他の町内会からも約百人が繰り出していた。さっそく一列縦隊、「気をつけ-。ただいまからわが戦場の清掃にとりかかる」胸に大きな荒鷲のマ-クを縫い込んだ下士官の号令で、草取りが始まった。作業は草刈りではなく〃草掘り〃である。十字グワという小型のツルハシで雑草の根っこごと掘り出すやっかいな仕事だ。腰がうずき、足がしびれるように痛い。〃草掘り〃が終わると、こんどは掘った跡を人間の足で踏み固める作業。ロ-ラ-がわりにみんなが並んで一、二、三と駆け足で行きつ戻りつ。今から思えばまったくこっけいな整地作業だったが、下士官が言った「大勝利を目の前に」みんな黙々と玉の汗を流した。

【防空演習】

警察や消防団の指導で、まずル-ズベルトの似顔絵を墨で書いた高さ三メ-トルぐらいの板のプラカ-ドめがけてバケツ注水。ル-ズベルトが水に洗われ、泣きべそをかくと「バンザイ、バンザイ」と見物の子供たちが声援を送る。つぎは高さ5メ-トルぐらいの櫓に注水して、櫓にうまく入った水をパイプ伝いにバケツにとり量目を測るコンク-ル。こんどはバケツリレ-、といってもバケツは隣組で常備用の5、6戸しかない。各家庭から持ち寄ったやかんを二列に並んでリレ-する訓練だが、この時は〃水は貴重品〃というわけで空っぽのやかんリレ-だ。最後は焼夷弾の消火訓練。仮想焼夷弾は使い古しの花火筒。これは水をかけると逆に燃えさかる代物なので、砂をかけたりむしろをかぶせるのが練習のみそだった。日が暮れるころ姿を見せた軍人から「おおむね可、帰ってよろしい」との〃勤務評定〃を受けてとぼとぼと家路についた。

2-3.食糧事情

(清水町女性、当時30才の体験より)

食料はもちろん、あらゆる物資が不足していた。配給でないのは空気と水だけ、やみル-トの品物はどこからでも流れてきたが、いずれも法外な値がついていてとても庶民の手には届かなかった。もっとも不足していたのが食糧、衣料。〃決戦食展示会〃が開かれてトウモロコシやアワガユの上手な作り方が指導されたり、決戦服の作り方、晴れ着を作り替える講習会が開かれたりした。アワがゆ、ふかしいも、大豆、小麦などの代用食が主食で白米が食卓に上ることはごくまれ、空腹感を満たすためだけの食事はどうしても水分の多い栄養のないものが多かった。国民学校に通う子供も、学校に行っても授業はなく、校庭は掘り起こされていも畑になり、子供たちは朝早くからいも作りに通った。教室には軍需品が積み隠されていた。配給品はますます乏しくなり、穀類はほとんど姿を消し、かぼちゃの種、いもの葉やぬかだんごなどが食卓に上るようになった。木でも草でも食えるものは食えと〃山野食物未利用開発協会〃などという団体が生まれ、新聞はきのこや野草、木の根の有毒、無毒の見分け方を解説していた。ひどい薪不足で暇を見つけては立田山へ枯れ枝や松の枯れ葉を拾いに行った。

2-4.空襲

機銃掃射(清水町男性、当時国民学校三年生の体験より)

昼夜をとわず、空襲が始まった。学校に着いたかとおもうと空襲警報のサイレンが鳴る。校庭に全校生徒が集合し、各町内毎に整列し、上級生の先導で家路を急ぐ。帰りつかないうちに、早くもゴウッという爆音が遠くの方から次第に近づいてくる。数機、時には数十機のグラマン戦闘機が上空に姿を見せたかと思うと、キュ-という一種独特のプロペラ音が聞こえる。誰ともなく「待避」と叫ぶ。皆一斉に畑の中や、道端に腹ばいになって身を隠す。バリバリと、機銃の音をさせながら超低空で飛び去っていく。おそるおそる見上げると、飛行機を操縦している外人の顔が見える時さえあった。

7・1熊本大空襲(大江町女性、当時18才の体験より)

突然飛行機のエンジン音が聞こえてき、東の空がぱっと明るくなりました。(中略)空からは、ザーッという音、そして青白い光、同時に赤い炎がぱっと燃え上がります。誰からということもなく、危ないから逃げようということになりました。防空頭巾の上から水をかぶり、バケツを頭にかざして夢中で前の大きな道を一目散に東へと走り出しました。(中略)ザーッという音はあっという間に私たちを追い越し、周囲が一面に燃え上がるのです。白川なら水があるから大丈夫と励まし合いながら今の江南病院の手前に出ましたが、あっと立ちすくんだまま何も言えませんでした。その白川が一面火の海となって流れているのです。(中略)また、畦道を走りましたが、火の玉が、畠のあちこちに、バレーボールの玉のように飛び交っていたのを覚えています。やっとどこかの神社の森の中にたどりつきました。このころにはザーッという音も去り、空は白み始めていました。

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3.空襲等の状況

3-1.熊本市関係空襲年表(『記録熊本空襲』『健軍三菱物語』『熊本昭和史年表』)

昭和19(1944)年
11月21日
在中国米軍機B29、80機九州西部に午前来襲。熊本市花園町柿原に500キロ爆弾10数発投下される。
昭和20(1945)年
3月18日
米艦載機県内各地空襲。三菱航空機被災(死者6名、負傷者13名)
3月19日 米艦載機1400機九州に来襲。
3月27日 熊本市健軍町の三菱重工業熊本航空機製作所が爆撃、機銃掃射を受ける。(死者1名)
3月28日 艦載機1300機九州へ
4月7日 戦爆連合九州へ
4月17日 B29県下へ約70機来襲
4月21日 小型規約280機、九州南部飛行場へ
5月13・14日 県下空襲、三菱航空機(死者8人、負傷者3人)
傷痍軍人療養施設再春荘、恵楓園、熊本工業学校が爆撃される。
5月24日 午後、艦載機200機九州へ
5月25日 午後、艦載機九州へ
6月2日 艦載機(グラマン等小型機)260機県下各地へ
6月3日 艦載機170余機九州へ
6月12日 グラマンなど小型機40機、県下各地へ
6月17日 B29県下工場地帯を夜間焼夷攻撃
6月29日 早朝、B29約30機、県下各地を焼夷弾により空襲
7月1日 B29、154機が、翌2日未明にかけて熊本市を空襲、新市街・下通町・大江町・水道町など市内の大部分焼失、各種デマ流布。
7月3日 小型機約100機、九州各地飛行場へ
7月4日 B29戦爆連合九州へ、熊本郵便局焼失
7月5日 熊本市花岡山の蓬莱閣に第30戦闘飛行集団司令部が進出
7月6日 戦爆連合約160機九州へ
7月10日 小型機の戦爆連合約140機、熊本市及び県東北部へ
7月11日 戦爆連合約200機九州へ
7月14日 戦爆連合150機、県下各地を空襲
7月15日 B29、小型機107機の戦爆連合県下へ
7月16日 B24、30機、B25・P38・P47・P51など90機県下各地へ来襲、午後、小型機130機天草方面へ来襲
7月17日 B29、10機、小型機約50機県下各地へ
7月24日 P51など小型機約1500機県下各地へ、熊本駅も機銃掃射
7月25日 小型機多数各地へ
7月27日 小型機多数各地へ
7月29日 戦爆連合約500機来襲
7月30日 小型機約400機来襲
7月31日 戦爆連合約400機来襲
8月1日 戦爆連合140機九州各地へ
8月5日 戦爆連合380機航空基地周辺へ
8月7日 戦爆連合250機、日窒・熊本市など各地
8月8日 小型機来襲
8月9日 小型機約300機来襲
8月10日 県下各地に早朝より戦爆連合約210機来来襲、各地の被害甚大、熊本市立高等女学校など焼失

3-2.「7・1空襲」

 昭和20(1945)年7月1日、アメリカ第73爆撃航空団所属のB29爆撃機154機が、16時5分から17時17分にかけてサイパン基地を飛び立った。牛深付近に攻撃侵入点をおき、宇土半島の海岸線に沿って熊本市に侵入。熊本軍用地帯、熊本駅および操車場、製紙工場、郡是製糸工場、鐘淵紡績工場、三菱航空機株式会社熊本工場、西部ガス株式会社を目標に23時50分より、2日1時30分ころまで熊本市に焼夷攻撃がかけられ、投下量は1107.2トンに達した。
(『第21爆撃飛行集団戦闘要報』)

新市街、下通町、水道町、大江町、新屋敷町、安巳橋通町、水前寺町、草葉町、黒髪町など市街の大部分が焼失し、熊本市の損害は市街地の約20%に及んだ。被害状況は、被害戸数9077戸、罹災人員36314人、死者388人、重軽傷者475人、行方不明13人、家屋破壊・焼失9077戸であった。
(「熊本市空襲被害状況」)

被災した主な機関は、熊本幼稚園、白川・黒髪・本荘・壺川・熊本高等小学校、熊本中学校、済々黌、大江高等女学校、熊本医大などの教育施設が全焼又は一部焼失、熊本県庁(2日熊本市公会堂へ移転)、県会議事堂、県立図書館、市電気局、専売局工場、熊本郵便局など焼失、熊本市電は全線不通(12日一部開通)、電話線全面不通(11日620本開通)、電気も配電を中止した。市の大半は廃墟と化し、出水町の肥後製ろう株式会社は5日間燃えるにまかされた。死傷者の収容は警察、警防団総動員で数日を要している。
(『熊本の昭和史』)

3-3.「8・10空襲」

 8月10日午前、沖縄基地を発進し、東方から侵入したB29と小型機の編隊約210機が県下一円を襲撃した。熊本市に対しても白川以東から以南にかけて焼夷攻撃と機銃掃射を加え、7月1日の空襲で焼け残っていた、本山町、春竹町、本荘町、大江町などを焼くとともに、熊本市立高等女学校などが焼失した。熊本市の被害戸数は1551戸、内家屋全焼1491戸、半焼58戸、半壊2戸、罹災人員6308人、死者45人、負傷者43人にのぼった。
(「熊本市空襲被害状況」、『熊本の昭和史』、『熊本市戦災復興誌』)

熊本のほか、宇土、水俣、隈庄などでも被害が大きかった。鹿児島本線緑川鉄橋橋脚が爆破され不通となり、宇土町では中心部を大半焼失したほか、宇土保健所・宇土駅・宇土国民学校・宇土高等女学校なども焼失し、日本合成は操業不能に陥った。隈庄町周辺では隈庄・豊田・杉上・東部国民学校が焼失。水俣町は中心部が焼失、日窒水俣工場は操業不能に陥った。
(『熊本の昭和史』)

3-4.被災状況 (『熊本市戦災復興誌』)

  • 罹災面積 363万975平方メ-トル(市街地面積の30%)
  • 被災戸数 1万1906戸
    全焼家屋9873戸、同非住家543戸、半焼家屋189戸、同非住家18戸、全壊家屋1240戸、同非住家9戸、半壊家屋20戸、同非住家14戸
  • 被災者4万7598人
    死者617人、負傷1317人、行方不明13人
  • 主な罹災建物
    (国、県、その他の公共建物)
    • 庁舎及び公共建物
      熊本県庁、県会議事堂、県立図書館、財務局、税務署、地方専売局、地方専売局工場、熊本郵便局、産業会館
    • 銀行、会社 16
    • 劇場 9
    • 教育施設
      大学1、高等学校1、中学校・実業学校6、幼稚園1
    • 兵舎
      西部第16部隊、西部第21部隊、西部第24部隊
    • 鉄道関係
      熊本駅、上熊本駅、水前寺駅
    • 通信施設、ガス、電気等の供給施設
      破壊甚大、機能喪失(市関係公共建物)
    • 商工関係
      青果市場
    • 厚生関係
      隣保館3(本荘、横手、出水)
    • 衛生関係
      医療施設2(白川病院、横手診療所)、その他(屠場、黒髪巡視派出所)
    • 教育関係
      中等学校2(市立高等女学校、市立工業学校)、国民学校7(本荘、黒髪、白川、日吉、熊本、池田、壺川)幼稚園1 (熊本)
    • その他
      市庁舎別館、消防倉庫8箇所、水道施設、電気軌道(全面不通)、乗合自動車

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4.復興のあゆみ

4-1.戦災地応急対策

4-1-1.清掃事業、金属回収事業

 戦後、瓦礫化した市街地の清掃事業が行われた。まず、市内重要幹線道路の瓦礫などの除去により道路の機能回復を図った。続いて補助道路およびその他の公共用地が整備された。集積した瓦礫は、現地付近の低地の埋め立て、新市街一体の広範囲にわたる低落地の宅地整備に充てられた。この事業は、昭和22(1947)年度に完了したが、清掃実施面積111.5ha(33万7294坪)、処理した瓦礫など約3万1000立方メ-トルに及び、事業費180万6318円を要した。

 また、被災地に放置されていた金属類を資源として回収する作業も平行して行われた。

4-1-2.上水道復旧事業

 終戦当時の上水道は、給水戸数1万8100戸、給水人口10万4077人であったが、この26%に当たる4652戸が戦災で焼失し、配水本管の破損は20箇所にのぼった。資材、労力不足も加わり、漏水量は一時給排水量の60%にも達し、瓦礫に埋もれた戦災地の漏水個所の探査は容易ではなかった。昭和21(1946)年1月から漏水防止作業を実施し、配水管の閉止、不要管の撤去、故障量水器の引上げなどを行い、昭和24(1949)年度には完了した。この期間、一般漏水3000件、地下漏水1000件を処理、事業費238万4000円を要した。

4-1-3.住宅対策事業

 昭和20(1945)年9月4日罹災都市応急簡易住宅要綱が閣議決定され、県及び市による簡易住宅の建設が進められた。民間の住宅建設希望者には資材の斡旋、低利の建築資金の融資を行うなどの措置が採られた。11月20日の住宅緊急措置例の交付により、県は旧歩兵第13連隊兵舎、旧三菱重工業熊本工場の宿舎など5施設を国から借り受け、約650世帯を収容した。昭和21(1946)年度からは住宅建設は当初の簡易住宅から計画住宅に改められ、本格的な公営住宅建設へ移行する昭和26(1951)年度までの建設戸数は市676戸、県および営団住宅で1100戸、民間では1万2683戸、合わせて1万4459戸の住宅が建設された。

4-2.復興土地区画整理事業

 焼失区域(362.9ha)に戦時疎開跡地(1.78ha)に隣接被災区域の一部を加えた473.4ヘクタ-ルについて復興土地区画整理事業が計画・実施された。実施方針は次のとおりである。

「城下町として発展を続けてきた本市の市街地は、道路、公園などの公共施設の配置状況が不規則で、近代都市としての構成に欠けるところが多かった。そこで、今回の戦災復興を転機として昭和20(1945)年12月30日に閣議決定された戦災地復興計画基本方針に基づき、本市の将来像を展望して総合的な都市計画を樹立するとともに、この基礎となる土地区画整理事業の施行については県、市間で再三にわたる協議の結果、土地区画整理事業の施行者は市長が、幹線街路事業については県が施行することとし、県市一体となって事業の早期完成を図ることとした。」

 具体的には、宅地整地、建物、墓地、電柱移転事業、街路整備、河川水路事業、公園緑地事業、瓦斯、軌道、上水道移設事業、不法建築物の処理、都市改造事業が行われ、都市施設の整備改善が進められていった。

 しかし戦後の混乱に加えて悪性インフレによる国及び地方財政の逼迫と諸資材の極端な不足で、事業は遅々として進まず、昭和24(1949)年には施行面積が368.05haへと縮小され、甚大な被害を受けた昭和28(1953)年の6・26大水害のあと事業は一時中断し、完了を見るのは昭和50(1975)年3月になる。


<銀杏通り附近> 昭25(1950)年

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5.次世代への継承

5-1.図書展

 市立図書館主催による図書展「平和への願い」を、同図書館にて毎年終戦記念日の前後2週間程度開催している。平和や戦争に関する本の展示紹介、貸出を行っている。

5-2.平和啓発事業

 平和啓発活動の一環として、毎年、平和啓発事業に取り組んでおり、終戦記念日の前後、市内の各施設において平和啓発展を市主催で開催している。戦争の悲惨さと平和の大切さ・命の尊さを伝える写真・パネルの展示などを行っている。

5-3.その他

 他に民間団体が、「平和美術展」や終戦記念日に戦跡などを散策する「ピ-ス・ウォ-ク」など平和を願う取り組みを行っている。

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