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水俣市における戦災の状況(熊本県)

1.空襲等の概況

 県南の小都市水俣が、他市町村に比べて思いのほか被害を受けた事実については、次の3つの理由が挙げられる。

  1. 日窒水俣工場は、防ちょう上熊第7042工場と呼ばれ、典型的な軍需工場であった。
  2. 隣接の鹿児島県出水市に大規模な海軍航空隊の基地があった。
  3. 水俣市は北九州各地の爆撃に向かった大型機の編隊が、その帰途、残留の爆弾を投下処分するのに最適の通り道(航路)であった。

 工場では、化学肥料のほかに、軍の指示により、火薬と航空機用防風ガラスの原料となる合成樹脂を製造していた。軍の監督官2名が常駐しており、町内の商店主などの徴用工・葦北郡の青年団員らの勤労報国隊・町内の中学生、女学生らのいわゆる学徒動員などが産業戦士として、午前7時から午後5時まで空襲の合間を縫って、文字どおり年中無休で日夜生産に励んだ。したがって、工場は米軍機の目標となって、県下でも特に激しい空襲に見舞われ、その被害も甚大であった。

 

 

 

 

<日窒水俣工場の被爆>

 

 

<防空ずきん姿の登下校時の服装>

<水俣第一国民学校(現水俣第一小学校)玄関の警戒警報の看板>

 

 


<水俣町戦災図>

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2.市民生活の状況

「水俣駅付近は焼夷弾で焼かれ、丸島側は爆弾で、町並みはなかった。主に日窒水俣工場を攻撃してきたので、被害は工場を中心にして広がった。主食は米、麦、から芋(サツマイモ)、栗。ただ、米は手に入ることが稀だった。煙草は自分で巻いていた。自動車も船も、木炭をガラガラおこして、ガスによって走っていた。

学徒動員、女子挺身隊、総力を挙げ、神風の鉢巻をして、毎日、軍需産業に働いたものだ。疎開(強制疎開965戸)もどんどん行われ、町中には男子だけ残った。」

「教室での勉強は、空襲の合間を見ての僅かなもので、身の回りは竹の皮の背嚢に母の帯芯で作ったゲートル、上着はラミーでできた唐米袋、ズボンの膝上は国防色、下はカスリの紺色、履物はあしなか(草履)、通学の汽車の中は混雑し、あしなかは人に取られて素足。」「学校の防空壕に入る度に、家に帰りたいと、みんなで泣いた。」「戦争末期には市内のほとんどの家庭が天井板をとりはずしていた。これは焼夷弾が落ちた時ひっかかり、火災にならないようにとのふれ込みによるもの。」「丸島の丸山の上に陸軍高射機関砲隊が陣取り、梅戸港の山には海軍の高射砲隊が陣を張り、水俣工場への敵機の襲来に備えていたので、空襲時には交戦が激しく、付近の者は恐ろしい思いをした。」

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3.空襲等の状況

昭和20(1945)年3月29日(木)初空襲

 九州南東海上に現れた米機動部隊を発進した艦載機2機が、午前8時10分ごろ突如として水俣上空に飛来、日窒工場に銃爆撃を加えた。他の4機は梅戸港を襲って魚雷5発を発射し、うち1発は荷揚げ用のクレーンと岸壁30mを破壊し、停泊中の貨物船を爆破沈没させた。工場内では窒素係、電設係の間で50kg小型爆弾が爆発、1号分離機及び建物に若干の損害があったが、幸い人命に被害はなかった。この日、水俣町民は空襲の恐怖を初めて体験した。米機はグラマンF6F戦闘機であったといわれる。

 なお、3日後の4月1日、米軍の沖縄上陸が開始され、4月15日の警戒警報発令以来5月中旬まで、連日のように警報発令と解除が繰り返され、町民は不安の日々を過ごした。

同年5月14日(月) 午後2時過ぎ

 薩摩半島から北進し出水を経て町上空に侵入したグラマン及びカーチスホーク30数機の編隊と、天草方面から飛来した編隊とが合流して、総機53機となって爆撃と焼夷弾攻撃を繰り返し、町内いたるところに火災が発生し、工場の被害も惨憺たる状況であった。空襲は10分間であったが、工場内で徴用工9人が死亡、11人が負傷した。また、旧工場付近で国民学校生徒1人が機銃掃射の犠牲となり、三本松社宅では直撃弾を受けた一家6人が死亡した。

 なお、当日投下された爆弾は、工場90発余り、民家100発の合計約200発であった。

同年7月31日(火)

 この日の爆撃は、5月14日に次ぐ最大規模のもので、日窒工場裏山の横穴式大型防空壕に被弾し、26人が死亡、その他の防空壕で、直撃弾により5人が死亡、丸島陣地で応戦中の兵士1人が戦死、2人の負傷者を出した。

 同年8月11日の空襲を最後に、米軍機は全く姿を見せなくなった。

 3月29日の初空襲から130日の間に大小合わせて13回の空襲があり、投下された爆弾は2,000発に近く、焼夷弾は数千発といわれ、死亡者は69名となっているが、当時の状況では正確な数字をつかむことが困難であったという。

 また、重軽傷者も不明である。日窒水俣工場は、同年7月31日の大空襲でとどめを刺されて、10万坪の工場は廃墟と化した。

 なお、町長(当時は水俣町、市制施行は昭和24年)から熊本県への罹災地調査回答では、罹災面積宅地30万坪(工場を含む)、罹災戸数3,500戸(工場を含む)と、報告している。
(参考:昭和20年当時の水俣町人口31,012人6,353世帯、沖縄からの疎開児童287人)

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4.復興のあゆみ

 大空襲により、工場地帯はもとより町全域に甚大な被害を受け、戦後戦災都市に指定されたが、市民の不退転の努力によって、戦前をしのぐ復興をみせ、海外からの引揚者を加えて、活力ある化学工場の町となっていった。昭和24(1949)年4月、市制が施行され、昭和31(1956)年には、久木野村を吸収合併し、人口は5万人を超え、市勢は拡大の一途を歩み、同年、水俣港が貿易港として指定され、国際的展望のもとに水俣市発展の転機を迎えた。

 一方、このころから戦後復興の急速な経済成長の影の部分で発生した水俣病は、環境汚染による健康被害と環境破壊の大きさにおいて、世界に類をみない公害となった。また、地域に深刻な影響を与え、人のみならず多くの生命を奪い、人々の心を蝕み、地域社会の存立までも危うくし、市民は永い間、苦悩を重ねた。

 水俣市は、この水俣病の経験を貴重な教訓として、二度と再び不幸な出来事を繰り返してはならないと、生命の尊厳を守り、自然への畏敬の念をもって、生態系に留意し、市民相互のふれあいと融和を図り、環境と健康を守り、福祉を大切にするまちづくりを推進することを宣言している。

 平成2(1990)年3月、公害防止事業により完成した58haに及ぶ埋立地と、その周辺地域には、竹林園、親水護岸、水俣市立水俣病資料館、熊本県環境センター、国立水俣病情報センターなどが、相次いで完成し、水俣病をはじめとした、環境に関する情報を発信しています。

 また、平成13(2001)年2月、水俣市はエコタウンの承認を受け、資源循環型社会・環境共生を実現するため、環境モデル都市づくりにふさわしいリサイクル産業の誘致や、他地域への波及を図り、環境ビジネスの拠点となるとともに、人・環境・経済がもやい輝くまち「エコポリスみなまた」の実現を目指している。

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5.次世代への継承

 昭和37(1962)年5月、戦没者遺族の福祉のために、市内城山に遺族会館が完成し、また、昭和44(1969)年8月には、同所に慰霊殿が完成し、遺族ら多数が参拝している。

 市としては、毎年10月に、市の戦没者英霊に対し、心から哀悼の誠を捧げるため、戦没者追悼式を執り行っている。

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