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鹿児島市における戦災の状況(鹿児島県)

1.空襲等の概況

 昭和20(1945)年3月から本土への空襲は本格化したが、沖縄への米軍上陸以降、次の上陸地点として鹿児島県は終戦まで単なる補給地、背後地、内地ではなくなり「戦場」と化した。

 鹿児島市が直接の攻撃目標となったのは、昭和20(1945)年3月18日から8月6日の計8回の空襲であるが、北部九州ほか、九州全域への攻撃のため、鹿児島市は米軍機の通過地点に当たり、機影を見ない日はほとんどないという状況であった。

 また、特攻機が鹿児島から飛び立っており、特攻基地は鹿児島にしかなかったので、米軍の鹿児島に対する攻撃は他の地方都市と比較にならない激しさであった。

 これらの空襲により、市内は焼け野原と化し、多数の死傷者を出したが、軍、県、市、民防の関係者たちは可能な限り応急対策に力を尽くした。


<大型建造物だけが残る焼け跡の市街地中心部>
(平岡正三郎氏撮影)

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2.市民生活の状況

 市民は満足な食事もできず、自衛的に自給自足体制をとり始めたが、食べ盛りの子供たちは慢性的な栄養失調状態であった。空襲が激しくなるにつれ市内の学童もそれぞれ親戚、知人を頼って田舎へ疎開していった。
(「鹿児島市戦災復興誌」参照)

2-1.食糧難

米の配給制度は昭和16(1941)年に始まり、また間もなく農家に生産から供出まで割り当てる供出制度が実施され、すべての物資が統制経済のワクの中に組み入れられた。米は最初大人も子供も1人当たり3合ずつだったが、後には年齢別に配給量を制限、さらには麦、アワ、イモなどの雑穀類も一定の換算率で混合されるようになった。18(1943)年に入ったころから市民は三度の食事さえ満足にできず、配給だけでは生きてはいけない状態となり、それぞれ自衛的に自給自足体制をとり始め、一坪農園、家庭農園が現れ、空き地という空き地は手当たり次第畑になっていった。それでも食べ盛りの子供たちは慢性的な栄養失調状態になっていた。海岸線では自家塩の製造が始まり、農村地域との物々交換が行われるなど、市民は食糧を求めて、右往左往する「買い出し」の日々が多く、戦争遂行どころではなくなってきていた。

2-2.強制開

昭和19(1944)年11月15日、鹿児島市堀江町の造船所跡に鹿児島市疎開事務所が開設され、市街地指定区域の建物疎開を行った。建物疎開は戦火に見舞われたとき、延焼を防ぐ、いわゆる防火帯をつくるために行われた。防火帯の線引きは市庁を中心に行われ、鹿児島港から生産、汐見、築、住吉各町を貫く線、また照国神社から天文館、滑川沿いに海岸から冷水町へ、西駅前から、中洲通りへ、電車通りに沿った高見馬場-新屋敷、それに千石馬場-新照院などが計画された主な疎開ベルト地帯であった。建物疎開の該当家屋は少なくとも400戸に達したといわれるが、強制的であったので、個人的理由はとりあげられず、情け容赦なく行われた。しかし一般的には、すでに地方に疎開して空家同然のところも多く、解体作業に抵抗はなかった。むしろ家の所有者を探すのに苦労し、係員が捜し当てて、補償金を渡そうとすると「どうせ空襲で焼ける家だ補償金などいらぬ」と辞退する人もいた。補償費の相場は1坪(3.3平方メートル)当たり3円であったという。

2-3.防空訓練

町内会・隣保班という末端組織ができてから、その組織を「民防空」の最前線とするため、防空訓練が連日のように行われた。家の前に防火水槽、火消し棒(竹ザオに荒ナワをしばりつけたもの)、バケツが置かれ、サイレンの音を合図に主婦たちが飛び出し、リレー方式などで火元(想定)に水をかけ、火消し棒でたたき消す訓練である。活動しやすいように主婦らはモンペに防空ずきん、地下足袋姿であった。爆弾落下時に地面にはいつくばり、なるべく低い姿勢をとる訓練も行われた。親指で耳を、4本の指で両眼を覆うと同時に伏せるのである。空襲警報がひんぱんになるにつれ、灯火管制も厳しくなり、各家庭の電灯は黒布で覆われ、細い小さなあかりの元で夜を過ごす日々だった。しかしこれらの訓練、管制は、昭和20(1945)年に入ってからの鹿児島市に対する米軍機の本格的空襲の前にはほとんど役立たずであった。

2-4.猛獣処分

昭和18(1943)年暮れ、梶原重盛鴨池動物園長に久永鹿児島市長を通じ、軍からの命令書が届いた。空襲における動物園被害を想定し、猛獣を全部処分するようにというのである。書類には処分すべき動物名が全部書かれていた。ライオン、トラ、ヒョウ、クマ、ワニ、オオカミ、ニシキヘビなど19匹。梶原園長らはなんとか殺さないで救う方法はないかと奔走したが結局聞き入れられず、殺すことになる。東京上野動物園がすでに実行していたので、その例にならい毒殺することにし、鹿児島高等農林学校獣医科に頼み麻酔剤の大量注射でまずライオンを殺す。しかし苦しみ方がひどいので、次には電気ショックの方法をとるが、ワニやクマは電気に強く、なかなか死なずに手を焼いたという。

2-5.学徒動員・学童疎開

戦争への総動員体制は子供たちの上にも容赦なく降りかかった。県立一中、二中、市立中学、鹿児島中学の4、5年生が愛知県の飛行機工場へ動員され、少ない食糧におなかをすかしながら組み立て作業に携わったほか、七高生が長崎へ、また女学校の生徒たちも県内外に動員されて、戦場へ出た若い工員たちの留守を補った。動員先の空襲で負傷した生徒もあり、また動員から帰家してみると鹿児島市は焼け野原。自分の家族は焼死していたという悲惨な事例も数多かった。

一方、沖縄に続き、本土上陸が予想された昭和20(1945)年初め、南西諸島方面から本土鹿児島県の農村地帯へ学童が集団で疎開した。また空襲が激しくなるにつれ鹿児島市内の学童もそれぞれ親戚、知人を頼って田舎へ疎開した。勉強どころではなかった。食べ盛りなのに食糧は配給量も維持できなかった。周囲の農家の善意も学童の数と長期間滞在には勝てない状況で、子供たちにはつらい疎開生活であった。

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3.空襲等の状況

 8千人ちかくの死傷者を数えた前後8回にわたる大空襲。

 それら8回の空襲により、鹿児島市は文字どおり壊滅的な打撃を受け、市街地の約93%を焼失した。
(「鹿児島市戦災復興誌」参照)

 鹿児島市は昭和20(1945)年3月18日から8月6日まで前後8回にわたる空襲を受けた。この間、鹿児島市への直接攻撃を行わず鹿児島上空を北上、南下する米軍機も当然多かった。とくに沖縄陥落以後は毎日定期便のようにB29の編隊が鹿児島上空を通過した。米軍機を見ぬ日はない毎日であった。

3-1.昭和20(1945)年3月18日 空襲

 昭和20(1945)年3月18日午前5時42分、鹿児島市役所屋上のサイレンが空襲警報を報じた。市防空課に入った情報第1号は「敵の機動部隊は大隈半島の南方300キロの洋上に出現、南九州空襲の公算大なり」というものだった。午前7時50分頃、米グラマン・カーチス等の艦載機40機が桜島上空に現れ、郡元町の海軍航空隊を急降下爆撃した。

 翌19日付、鹿児島日報は軍当局の発表を次のように報じている。「敵機動部隊は九州南方海面に出現、その艦上機は18日6時過ぎより主として九州南部、及び東部地区に波状的に来襲しつつあり。敵は主力をもって九州南部及び東部知己のわが飛行場を狙って波状攻撃。一部をもって四国、和歌山に来襲、午前中の敵機は延べ1,400機である」

〔罹災状況〕
  • 死者6人、負傷者59人、輸送艦1隻、航空隊の建物の大半を焼失
  • この空襲では、軍関係の人員、施設だけが被害を受けた。

3-2.昭和20(1945)年4月8日 空襲

 昭和20(1945)年4月8日午前10時30分、突如米軍機数十機が鹿児島市上空に現れ、市街地を空襲した。この日は日曜日。空襲警報の発令もなく、防空訓練もないまま、いつになく静かな日であった。田上町方面で投下爆弾の爆発が起こってから空襲警報のサイレンが鳴った。続いて、騎射場、平之町、加治屋町、東千石町、新照院町などから、一斉に黒煙が立ち、火の手も上がった。抜き打ち攻撃の米軍機がこの日投下した爆弾は大型250キロ爆弾約60個であった。(「鹿児島市史」)

 この空襲による被害は投下爆弾の直撃によるもののほか、爆風、飛散した破片によるもの、家屋倒壊及び倒壊に伴う火災、防空壕の崩壊による生き埋め、などであり、死傷者は無残な姿であった。市営造物の被害は水道3か所。学校は田上、八幡、山下校と市立高女。電車は柿本寺-高見橋、騎射場-鴨池、二軒茶屋-脇田間で被害を受けた。

 翌4月9日付、鹿児島日報は次のように発表を報じている。「九州南方洋上の一部敵機動部隊から発進せる艦上機は、8日午前10時半より南九州地区に、また別の30数機は11時半頃より西九州男女群島付近にそれぞれ分散的に侵入、わが各基地を襲撃の後、12時過ぎ南方洋上に脱出したが、わが方の損害はきわめて軽微である。その敵の企図は明らかに沖縄侵攻作戦の一環として、わが特攻隊出撃の阻止にあるものの如く、今後の動向は厳戒を要する。」

〔罹災状況〕
  • 被災場所 田上町、下荒田町、平之町、加治屋町、東千石町、西千石町、新照院町
  • 被災人口 12,372人 被災戸数 2,593戸
  • 死者 587人 負傷者 424人
〔体験記録〕
  • 兵働吉次氏(当時:新屋敷町武之橋警防団)

    爆撃中、団員も防空壕の中から顔も出せなかった。空襲後、何人かの死体を山下小の校庭や講堂に運んだ。まだ息の切れない人もいた。首が切れてとんだり、手足が切れて誰かわからない人には、むしろや毛布をかぶせてあった。(南日本新聞「鹿児島空襲」昭和47(1972)年4月21日)

  • 西ミツさん(当時:西千石町、主婦)

    主人は船員で不在、私は留守家族を守り、主人の母(82)、長男(10)、次男(6)、長女(2)と私(33)の5人で西千石町に住んでいた。朝食をすませて、しばらくたったころ、突然ドカンドカンと激しい音がした。急いでわが家の防空壕に避難した。その瞬間、キーという耳鳴りがしたと思ったら、意識が無くなった。しばらくして息が出来たので、あたりを見まわすと、長男は頭を二つに割られて即死、母は窒息死、次男は破片で傷だらけ、おんぶしていた長女は破片で死亡、私も足を破片でやられていた。次男は泣いていたら、隣の人が病院に連れて行ってくれた。私もやっとはい上がり、うろうろしていたら、陸軍病院に収容された。(南日本新聞「鹿児島空襲」昭和47(1972)年5月11日)

  • 下荒田の竹迫温泉がやられた。入浴中のことで大混雑し、天保山方面から市立高等女学校へかけて爆弾が落ち、女学生数人が即死した。千石馬場ザビエル協会にあった憲兵隊もやられた。裁判所長の官舎が加治屋町にあったが、一家全滅し、平之町町内会長、山野田一成氏も爆死された。(「勝目清回顧録」)

  • その頃、城山の麓には、避難用の防空壕が数十か所作られていたが、なかんずく、新上橋鉄橋際から照国神社の横にT字型に掘られた横穴壕はその規模の大なること市内において代表的なものであった。最初の爆音に響き、その壕に退避したもの数百を数えた所もあろうにその入口に250キロ爆弾の直撃を受け、数十人が生き埋めになったのも、その日の悲惨な出来事であった。(本田斉著 鹿児島市戦災記録「あれから十年」)

3-3.昭和20(1945)年4月21日 空襲

昭和20(1945)年4月21日、午前5時44分、鹿児島市内に警戒警報。引き続き午前6時9分に空襲警報が発令され、市民は防空壕に避難したが、米軍機は一向に姿を見せず、2時間近くたった午前8時ごろになって吉野方面から市中央部へ向かう米軍機十数機が現れた。やがて、機体から黒いものが点々と落ち始めた。落とされた爆弾はおよそ200個。長田町、山下町、東千石町、加治屋町、山之口町、樋之口町、新屋敷町などに爆弾の直撃、爆風、破片等による被害が出た。吹き飛ばされた家屋の被害が主であったが「被害は割に少なく不発弾が多いようだ」という報告が市庁の防空本部にもたらされた。城山トンネル付近に落ちていた不発弾を警防団員らが取り巻き、抱いたり、たたいたりしたという例もあった。

ところがこれら不発弾と思われていたのが時限爆弾であった。およそ1時間くらいたったころから、あちこちで爆発を始めた。時限爆弾とわかってから大騒ぎとなり、市は直ちに落下点の判明している所に、立ち入り禁止のナワを張ったり、同地点から150メートル以内の居住者などは立ち退きさせた。この時限爆弾は以来、5月末ごろまで昼となく夜となく爆発を続けた。直接被害はさほど大きくなかったが、神経戦としての効果を発揮し、市民は恐怖におののいた。

不発弾も相当数に上り、4月28日には熊本第6師団から歩兵1個中隊と工兵隊1分隊が鹿児島入りし、時限爆弾とこの不発弾処理にあたった。市の警防団もこれを援助した。

22日付、鹿児島日報は、軍当局発表を次のように報じている。「21日午前、マリアナ系B29約180機をもって九州地区に侵入、午前6時頃九州南方海上で隊形を整えた敵は2群に分かれ、その主力110機をもって都井岬より宮崎、鹿児島周辺地区に、また別1群約70機は豊後水道を経て大分太刀洗に侵入、約4時間にわたって、わが飛行場など地上施設に対し8,000〜9,000メートルの高々度からも盲撃を加えたが、わが方航空関係にはほとんど被害なく、鹿児島、大分の市街地に一部火災を発生した。また時限爆弾を多数混用している点が注目される。-マリアナ基地のB29-10機編隊を主軸とし、それに小型機1機が21日午前7時ごろ、鹿児島と宮崎に来襲、特に鹿児島市に侵入した大型機は編隊でルメー式盲撃を行った。」

〔罹災状況〕
  • 被災場所 長田町、山下町、東千石町、山之口町、樋之口町、平之町、城山トンネル入口付近
  • 被災人口 4,548人 被災戸数 878戸

3-4.昭和20(1945)年5月12日 空襲

昭和20(1945)年5月12日午後8時ごろ、沖縄基地から発進した米軍機・グラマンなど20数機は、鹿児島市に対して初めて夜間の空襲を加えた。主に湾岸地帯が被害を受けた。沖縄基地を使用した初めての鹿児島市空襲である。

14日付、鹿児島日報は軍当局の発表を次のとおり報じている。「12日午後8時ごろから13日午前4時ごろまでに沖縄基地を発進した米軍機グラマンF6F及びマーチン哨戒機PBM3など30数機は、おおむね単機にて志布志湾付近から侵入、鹿児島に20機、宮崎に10数機、長崎県に2機来襲、照明弾を投下し、一部は爆弾、焼夷弾を混用投下した後、南方洋上に脱出した」

〔罹災状況〕
  • 被災場所 港湾地帯
  • 被災人口 67人 被災戸数 18戸

3-5.昭和20(1945)年6月17日 空襲

昭和20(1945)年6月17日。この日は鹿児島市民にとって、呪われた日となった。鹿児島市に対する前後8回の空襲のうち、最大にして、最も悲惨であったのは、この6・17空襲である。鹿児島では6月13日頃から雨が降り続いていた。いわゆる梅雨の最中。その17日午後11時5分、突然深夜をついて爆音が響き始め、ついで、大きな雨音のようなザーッという音が鹿児島市を覆った。焼夷弾が無数に投下される時の音である。この時、鹿児島を襲った米軍機は百数十機の大編隊で、しかも今までの爆弾攻撃を変更して、深夜に全市を焼き払う焼夷弾作戦の第一弾だった。空襲警報は発令されていなかった。

米陸軍航空隊公刊戦史第5巻「太平洋作戦─マッターホーンより長崎まで」によると、地方都市の焼夷攻撃について次のように述べている。「大都市に対する焼夷弾攻撃は6月15日終了。翌16日にルメイ少将は、17日夜大牟田、浜松、四日市、鹿児島を攻撃することを4司令官に命令した。離陸した総機数は477機、攻撃したのは456機。7,000〜9,000フィートの高度からレーダー爆撃したが、日本軍の抵抗はほとんど無かった。投下した爆弾は3,058トンという大量なものであった。」

米軍機は一時間以上にわたり、波状的に焼夷弾の投下を繰り返した。鹿児島市に投下された、この夜の焼夷弾は13万個(推定)(「鹿児島市史」)とみられ、わずかの時間で鹿児島市内は火の海と化した。市民は阿鼻叫喚、右往左往して逃げまどった。紅蓮の炎は一晩中燃え続けた。一夜明けると、鹿児島市は一望千里の焼け野原と化し、余じんがくすぶり、焼けこがれた死体が累々と連なる悲惨な姿になっていた。見渡す限り、ただ瓦礫の街、電線は焼き切れて垂れ、電車線は折れ曲がり、焼けた電車、自動車が哀れな残骸となり、切断された水道からは水が噴き出ていた。肉親、知人の姿を求めて、焼け跡を掘る人、ぼう然と死体を焼く人、病院、薬を求めてさまよう人々が痛々しかった。

後に、被災者の体験談、体験記から見ると、この夜の空襲による災害には特徴的なことが幾つかある。午後11時5分という時間で、ほとんどの市民が寝入りばなであり、警報の吹鳴も無かったため、対処に戸惑った。服装も寝間着や着流しの市民が多かった。長雨で防空壕は水浸しになっていて、腰までつかる状態であった。4・8空襲は爆弾主体であり、防空壕に避難することが効果的であったため、この夜も防空壕に退避、周囲が火の海になってから、脱出しようとしても、熱風のため扉を開けることが出来ず、そのまま焼死または窒息死した例が多かった。助かった人々の例では、城山や甲突川に避難したり、疎開跡の大きな広場に逃げこんだ─などがみられた。

焼夷弾にも、M69型といわれる普通焼夷弾のほかにナパーム性油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾、エレクトロン焼夷弾などさまざまな威力を持ったものがあるが、中でも「モロトフのパンかご」といわれた大型焼夷弾は親爆弾に38本、または72本の小型焼夷筒が収められていて、空中で親爆弾が爆発すると中の小型焼夷筒が一面に散りながら落下して火災を起こす仕組みになっていた。また焼夷弾の中の固形油は、一度屋根や壁にへばりついたら、なかなかとれず、発火しやすい上に高熱を発し、長時間燃え続けるため、それまで、隣組などで訓練してきた゛火たたき゛やバケツリレーの消火ではほとんど役に立たなかった。木と紙の日本都市家屋には火攻めが効果があるとみた米軍の戦略であった。(南日本新聞「鹿児島空襲」昭和47(1972)年8月8日)

この空襲のあと、西部軍管区司令部は18日午前10時、次のように発表した。「マリアナ基地の敵B29約100機は6月17日23時頃より18日4時20分頃のまでの間、一部をもって関門地区ならびに鹿児島市付近に、主力をもって大牟田市付近に侵入、関門地区には機雷を投下、鹿児島市、大牟田市付近には主として焼夷弾による攻撃を実施せり。大牟田市、鹿児島市およびその付近に火災発生せるも、軍官民の敢闘により18日6時頃までにはおおむね鎮火せり。重要施設の被害軽微なり」

市営造物の被害は市庁内付属建物、交通部、公会堂、中央卸売市場、歴史館、市立病院。学校関係で鹿児島、山下、松原、草牟田、西田、中洲、荒田、第二、八幡の9国民学校。中等学校で女子興業、女子商業の2校。青年学校では鹿児島、松原、荒田、紫原、洲崎、西田、交通の7校。交通機関において電車焼失27両、残35両。自動車焼失37両、残1両。庁員罹災者市長以下178人、ほかに死者2人。交通部罹災者71人、死者9人。水道においては配水地、配水管には被害はなかったが各戸引き込み線に多大な被害を受けた。

6月27日現在、鹿児島市が調査した6・17空襲後における市民動態調では、空襲直前の世帯数3万4,868世帯、人口14万5,978人に対し、空襲後の世帯数は2万1,958世帯、人口9万3,032人となっている。うち罹災したまま残留している世帯数は5,921世帯、人口は2万3,032人だった。

〔罹災状況〕
  • 被災場所 市内一円
  • 被災人口 66,134人 被災戸数 11,649戸
  • 死者2,316人 負傷者3,500人
〔体験記録〕
  • この日に限って朝から警戒警報も発令されず、市民もやれやれの表情であった。その夜午後11時5分、異様な爆音が上荒田方面の上空に聞こえたかと思うと、百雷を一挙にひらめかした様な物すごい光が、全市をまるで白昼のように照らした。その時、筆者は市役所の防空本部にいたので、これは大変だ!敵の焼夷弾攻撃に間違いないから、たとえ空襲警報の通知はなくとも市民に空襲警報を発令することが先決だと心得て、市役所玄関のサイレン室に駆け付けた時には、既に市役所の上空にも敵機がバラバラと焼夷弾を投下した。そのため電灯は消え、サイレンを吹鳴する事もできなかった。 (本田斉著 鹿児島市戦災記録「あれから十年」)

  • 重永陽子さん(当時・武町570・山形屋4階工場に動員)

    うとうと眠りかけた時、竹をはじくようなえたいの知れぬ物音に起き上がった。電車通りをへだてた家々が真っ赤な火を吹き、裏の家並みも燃え上がっている。非常袋を背負い、ちょうど疎開先から子どもの病気で来ていた姉親子と両親と私(16)、弟、妹の7人は家を出た。このあたりでは高見橋の下に行くよりほか安全と思われる場所がない。行きあう人たちもその考えらしいが、そのうち「雨で川は増水し、その上油のかたまりに火がついてどんどん流れてくる」と噂が飛んだ。4月8日の空襲で焼けた加治屋町のカクイ綿工場跡あたりに行こう、再び焼けることはなかろうという甘い考えに変わった。家からその場所まで高見橋一つ渡る距離なのに、何度、地にはい橋壁にへばりついたことだろう。あたりは燃え上がる炎と照明弾であろうか、落ちる度に光るセン光で真昼の明るさ。工場跡のくぼ地も安全でなく、すでに修羅場となり、痛い、助けてくれとうめく声、それに混ざる爆音や爆弾の炸裂音。(中略)一瞬明るさが強くなったような、真っ暗になったような。息が苦しい。前髪がジリジリ焼ける。やられたと思ったとき、弟の「お母さん、お母さん」と叫ぶ声に飛び起きた。不動明王のように火柱を背負い、手を振りまわして消そうとしている母の姿が目に入った。「寝ころんで」とすがっても逆上した母にわかるはずがない。母を突き倒して弟とゴロゴロころがして、やっと火が消えた。リュックやモンペも焼けただれ、あとでわかったが、おしりはヤケドになっていた。これほどの騒ぎに姉がいない。姉も火がついて川にいったかと軽く考えていたら、8歳の妹が姉の子を抱いてきた。グッタリとして死んでいた。その時、通りすがりの人が電車道に女の人が死んでいるというので、母と走った。大の字になり、油であろう黒光りした顔に食いしばった歯が真っ白に光り、両手に力いっぱいコブシを握り、子供の着物らしき布地がある。母はさすがに親の血であろう。歯並びと、ところどころ判別できるモンペの柄、古い傷あとで姉と確認した。姉を抱きおこそうとしたが変だ。重心がとれない。右腹をえぐられ、内臓が流れ出て右足がない。あたりに肉片らしきもの、腸らしきものがあっても足がない。(南日本新聞「鹿児島空襲」昭和47(1972)年3月14日)

  • 増田ミクさん(当時・高麗町・鹿児島師範本科2年)

    あれは何時ごろだったろうか。兄よめのけたたましい声で目をさました。まだぼんやりしていた私の目に、白いカーテン越しに、美しい閃光が飛び込んだ。そのとたん、ザーッ、ザーッ、ガンガン、ヒュルヒュル。「空襲なんだ、落ち着け、落ち着け」と自分に言い聞かせつつ、モンペをはく。(中略)「家の壕はたよりなくて危険だ」といつも話していたので、期せずして飛び出したのが、結果的に命拾いしたことになった。近くのお湯屋の方々は自宅の壕で全員煙にまかれて死んでおられたそうだ。(中略)二中のカンショ畑となった校庭に入り、壕にすべり込んだ。頭上ではB29がこれでもかこれでもかと攻撃してくる。芝生が焼ける。壕の中まで焼けつくすような不安。煙が入り込んで息苦しくなってくる。壕にたまっている水でタオルを濡らして口に当てる。きたないどころではない。火のはぜる音に混じって泣き叫ぶ人々の声が聞こえる。(中略)夜が明け講堂で仮眠しようとしているところへ、タンカに乗せられて大やけどの人が連れてこられる。オーイ、オーイとうめいているが誰もどうにもしてあげられない。(中略)本駅に向かう。電車も黒焦げで、立ち往生し、山形屋の窓からはまだ黒い煙が猛々と出ていた。防火水槽の中に首を突っ込んで死んでいる幼児、おそらく煙の苦しさに水を求めたのであろうか。トラックが棺をたくさん積んで走って行った。(南日本新聞「鹿児島空襲」昭和47(1972)年4月1日)

  • 増田兼三さん(当時・東千石町・商業)

    そのころからにわかに人の行き交いが激しくなった。天文館通りを照国神社の方向に逃げる人々の群れが異様な叫びを伴って続いた。その数が急激にふくらんでいった。だんだん風が強くなって来た。火の粉が飛び交いゴウゴウという音も出て来た。まるで火の粉のあらしの中にいるようだ。(中略)東の方は御着屋通り付近まで、西の方は山下小、南の方は高島屋に火が入っていた。上から下まで真っ赤になって窓から火を噴いていた。(南日本新聞「鹿児島空襲」昭和47(1972)年4月22日)

3-6.昭和20(1945)年7月27日 空襲

 昭和20(1945)年7月27日午前11時50分、市は米軍機による第6回目の空襲を受けた。6・17空襲からちょうど40日目。この空襲は晴れ上がった夏の真昼のことである。空襲警報発令後間もなく現れた米軍機ロッキードは鹿児島駅を目標に爆弾攻撃をした。その時間、鹿児島駅は鹿児島本線と日豊線両方から列車が到着した直後であり、通常でも混雑していた同駅は、この時一層、あふれるような人でごった返していた。そこへ爆弾投下。当時、県警察本部警務課勤務・有馬喜芳氏は「初めての1トン爆弾であった」と記録している。その強力な爆発力でまたまた多くの市民が殺傷され、駅や周辺の建物にも大きな被害を与えた。

〔罹災状況〕
  • 被災場所 鹿児島駅、車町、恵美須町、柳町、和泉屋町
  • 被災人口 8,905人 被災戸数 1,783戸
  • 死者420人 負傷者650人
〔体験記録〕
  • 泊千代子さん(当時・夫と共に赴任途中)

    7月27日、私たち夫婦は鹿児島駅に降り立った。その朝、伊作をたって伊集院、西駅と乗り換え、今度は日豊線に乗り換えて夫の赴任地岩川へ行くためである。(中略)空襲警報が発令された。駅にはまた記者が入ってきたようであった。人の出入りが増していた。夫が駅の便所にいった後、敵の機影が見えた。私はいつもするように、人差し指をまっすぐに立て、その機影にあてた。急に胸の鼓動が高まった。人差し指の中に、完全に機影がおさまるのである。こちらにまっすぐやってくる。それにしても夫は便所だ。掩蓋壕の中にすべり込み、一番奥にちぢこまった。とたん、大きな爆音と共にまわりがグラグラと揺れ、今にも掩蓋がこわれるかと思った。中年の女の人がころがり込んできた。青ざめて、顔のあちこちはどす黒くよごれていた。(中略)外へ出てみるとまわりは一変していた。空は灰色となり、駅舎はその空の下で赤い炎を上げて燃えている。そして駅前の広場は点々として人影がころがっている。血だらけになって死んでいる老人の歯を食いしばった顔。さらしたように血の色もなく、白い内臓をさらけだし、ころんところがされたような姿で死んでいる男の子。(中略)30歳くらいの女の人が私に助けを求め「子供が待っている天保山の家に帰りたい」と言われるのを見殺しに出来ず、4、50メートル支えて歩いたが、再び編隊が近づくので、どうしようもなくなり、その人も「私にかまわず逃げてください」と手をはなされたので、そのまま別れたが、あの人はどうなされたことか。(中略)もうあたり一面瓦礫の山である。電柱は倒れ、電線の引っぱり合っている道を踏み越え、はだしで山手の方へ走った。まもなく5つ6つの横穴壕が見え、2つ目の穴の入り口で、「ここに入れていただいて良いでしょうか」と声をかけると、中から「千代子!ここだ」と夫の声がした。(南日本新聞「鹿児島空襲」昭和47(1972)年5月5日)

3-7.昭和20(1945)年7月31日 空襲

 昭和20(1945)年7月31日午前11時30分ごろ、突如ロッキードの編隊、10数機が来襲し、上町一帯を爆撃、清水小、大竜小をはじめ民家多数を焼き、西郷さんの木像などすべて焼失、わずかに春日町と清水町の一部が残った。

〔罹災状況〕
  • 被災場所 鹿児島駅付近、清水町、池之上町、上竜尾町、下竜尾町一帯
  • 被災人口 16,542人 被災戸数 3,251戸

3-8.昭和20(1945)年8月6日 空襲

 8月6日12時30分ごろ米軍機グラマン・カーチスの艦載機が来襲し、爆弾投下、機銃掃射し、上荒田及び西鹿児島駅付近、城西方面一帯、伊敷の18部隊兵舎が焼失した。この日の空襲が最後の空襲となったが、すでに鹿児島市は廃墟と化していた。

〔罹災状況〕
  • 被災場所 上荒田町、原良町、薬師町及び伊敷村一帯
  • 被災人口 6,817人 被災戸数 1,789戸
  • 死傷者 不明

これら前後8回にわたる空襲によって、鹿児島市が受けた被害は、実に死者3,329人、負傷者4,633人、行方不明35人、その他10万7,388人、合計11万5,385人に達した。その総数は昭和20(1945)年初期の疎開後の人口17万5,000人に対し66%であった。建物の罹災戸数、全焼2万497戸、半焼169戸、全壊655戸、半壊640戸、計2万1,961戸で、全戸数3万8,760戸に対し57%であった。全市は文字どおり灰燼に帰し、市街地の約93%、327万坪(1,079万平方メートル)を焼失した。

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4.復興のあゆみ

 終戦と同時に鹿児島市は、応急の復旧対策に取りかかり、わずか6日目にして組織的動員による整理作業を始めた。

 10月には鹿児島日報社と共催して市復興計画案を一般市民から公募する一方、県と協議、復興計画暫定方針を出した。本市街地は、錦江湾に流入する河川の河口に堆積した中洲の上に形成されたものであり、湿地や沼なども多かったが、復興事業により大規模な埋め立てを行うとともに、区画整理などにより、将来を見据えた充分な道路幅員を確保するなどして住宅用地、工業用地として再生された。

 当時の人口は23万人、復興計画に示された「徹底的に治療再生して幸福なるユートピア鹿児島市たらしむる」という目的は、今や人口55万人を突破し「潤いと活気に満ちた南の拠点都市・鹿児島」として花開いている。


<鹿児島市街から桜島を望む>

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5.次世代への継承

 本市では、戦争による惨禍を再び繰り返さないことを誓い、また、世界の恒久平和の達成を願って、平成2(1990)年に鹿児島市「平和都市宣言」を制定した。

 毎年、終戦記念日である8月15日には、鹿児島市城山公園内探勝園にある「第二次世界大戦敵味方戦没者慰霊碑」前で、戦没者慰霊祭を開催し、また、毎年10月中旬には市戦没者追悼式を実施し、多数の遺族や市民参加のもと、太平洋戦争などにおける戦没者などの霊を慰めるとともに、恒久平和を祈念している。

 また、毎年3月と8月には、市の庁舎や関連施設などに、戦災時や復興過程の写真など50点余を展示するとともに、原爆体験者のビデオを放映するなど、戦災復興写真展を開催している。

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