昭和20(1945)年2月に輸送船が種子島西方で撃沈され、兵隊の死体が続々と西之表海岸に漂着したことにより、種子島島民は戦況の緊迫と戦場の接近とを知ることとなった。
西之表町(当時)が最初に戦災を受けたのは、昭和20(1945)年3月18日であった。午後1時から午後4時までの間、グラマン戦闘機12機が、西之表地区を銃爆撃した。この銃爆撃により死者は軍関係3人、市民3人、負傷者は軍関係10人、市民9人、行方不明者は軍関係4人、市民13人に及び、住家の全焼は62棟、非住家は13棟に及んだ。
米軍機は、種子島の西之表上空で待ち合わせて編隊を組むようであり、ここから本土爆撃に発進し、帰路には必ず、残留爆弾を西之表地区に投下した。
このため、小規模の銃撃はほとんど連日のごとく行われ、終戦までに、全壊全焼260余棟という、西之表市街地は惨憺たる被害状況であった。
昭和20(1945)年3月18日に最初の戦災を受け、翌日からは島内全学校は1年間授業停止措置がとられた。また、県の出先機関や警察署は近くの防空壕で執務するに至った。
4月19日には、B24が2機来襲、焼夷弾多数を投下。この日、種子島中学校は全焼した。このような情勢のもと、やむを得ず、学童疎開を決定し、全島の小学校児童2年生から6年生までを対象として全員が、伊佐・大口方面への疎開を開始した。
なお、4月8日には西之表町義勇隊が組織され、男子は全員、女子は15歳以上25歳までが、義勇隊に強制加盟させられた。
校名 | 疎開先校名 |
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榕城校 | 大口東校 牛尾校 |
立山校 | 山野校 |
下西校 | 山野校 |
上西校 | 平出水校 |
現和校 | 羽月校 |
安納校 | 大口西校 |
国上校 | 曽木校 |
安城校 | 菱刈校 |
古田校 | 菱刈校 |
伊関校 | 田中校 |
鴻峰校 | 湯之尾校 |
死者:軍人3人、市民3人
負傷者:軍人10人、市民9人
行方不明者:軍人4人、市民13人
住家の全焼:62棟
非住家の全焼:13棟
グラマン戦闘機2機 西之表市街地に小型爆弾3個投下、さらに機銃掃射を行う。
昭和20(1945)年4月19日B24 2機 市街地に焼夷弾を多数投下、さらに銃撃を加える。
死者:軍人2人
負傷者:軍人4人
野間小学校児童3人
種子島中学校全焼
B24 1機 市街地へ焼夷弾36個を投下
住宅全焼 34戸
住宅全壊 10棟
グラマン戦闘機8機 浦田、伊関、安納、西之表市街地を銃爆撃
死傷者:4人
グラマン戦闘機9機 市街地を銃撃
死者:1人
小型機8機 現和国民学校を銃撃
教員1人死亡
小型機24機 西之表市街地、現和、住吉を銃爆撃
死亡2人
負傷者2人
大型機8機 市街地に中型爆弾24個投下
住家60棟全半壊
大型機10機 市街地に中型爆弾30個を投下
住家全壊:25棟
住家半壊:60棟
警察署、郵便局も半壊
B24機 市街地に銃爆撃
注)西之表市年表には、以上の記録が残されているが、この記録以外にも、小規模の銃撃は、ほとんど連日のごとく行われ、終戦までに、全壊全焼260余棟という西之表市街地は、惨憺たる被害状況であった。
本町は戦火により荒廃に帰した市街地建設のため戦災復興都市計画事業を昭和21(1946)年10月から国及び鹿児島県の助成のもとに進めた。
鹿児島県は、西之表戦災復興土木事業所を設置、主として港湾道路の復興事業に当たり、本町は総務課に厚生係を置いて、復員者、引揚者、戦災者の受け入れ救援に当たった。
なお、戦時中の学童疎開を機縁として、昭和37(1962)年11月10日に、大口市及び菱刈町と姉妹都市盟約を締結し、交流を続けている。
昭和30(1955)年11月に市内の「わかさ公園」に慰霊塔を建立したが、風雨にさらされ傷みが激しくなったため、平成3(1991)年11月に新しい慰霊塔を建立した。
慰霊塔においては、毎年、5月に西之表市遺族会主催で春季慰霊祭を行い、11月には市主催の戦没者追悼式を行っている。
なお、11月の追悼式については、追悼式終了後、恒例の奉納相撲大会を実施し、盛り上がっている。