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嘉手納町における戦災の状況(沖縄県)

1.空襲等の概況

 嘉手納町域は戦前の北谷村の北部地域一帯であったが、立地条件に恵まれていたため、県営鉄道の終点に位置し、その地理的条件から沖縄県立農林学校、官立青年師範学校、嘉手納警察署、沖縄製糖工場等の施設があり、中頭郡の経済、文化、教育の中心地となっていた。

 しかし、昭和19(1944)年3月に南西諸島防衛のため第三十二軍が編成されると、4月には陸軍沖縄中飛行場(現アメリカ軍嘉手納飛行場)の設営のため多くの地元住民や学徒が動員された。中飛行場には第四十四飛行場大隊や第五十飛行場大隊などのほかに独立混成第十五連隊などが嘉手納地域に配備された。同年10月10日のアメリカ軍の空襲(十・十空襲)により沖縄県内各地の軍事施設が攻撃を受け、その機能を失うほど破壊され、飛行場周辺の集落にも被害が及んだ。

 昭和20(1945)年3月23日から始まったアメリカ軍の空襲・艦砲射撃により町並みは破壊され、同年4月1日にアメリカ軍は嘉手納地域と読谷山村(現読谷村)の境界を流れる比謝川の河口を中心に上陸し、陸軍沖縄中飛行場などを占領した。以降、中飛行場はアメリカ軍により整備拡張され、現在もアメリカ軍嘉手納飛行場となり存在し続けている。この沖縄戦により当町域は壊滅的な被害を受け、多数の死傷者がでた。

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2.市民生活の状況

 昭和19(1944)年の第三十二軍編成以降、陸軍沖縄中飛行場(現嘉手納飛行場)や陸軍沖縄北飛行場の設営や陣地構築のため、地元住民や県内各地から集められた男女青少年、女子挺身隊、学徒勤労隊等による突貫工事が行われた。

 飛行場がにわかに喧噪を増すと軌を一つにするように、集落内にりりしい少年飛行兵の姿や、飛行場駐留部隊の兵隊、騎馬将校、将校専用車が行き交うようになった。これらの部隊は、屋良国民学校や沖縄県立農林学校、仮設兵舎に駐留し、瓦葺の大きな民家は部隊の事務所や将校の宿舎として接収され、兵隊と雑居を余儀なくされた家人は台所等に追いやられてしまう事もあった。

 十・十空襲では、那覇市や陸軍沖縄中飛行場、陸軍沖縄北飛行場を中心とした軍事施設が空襲を受け、居住地域への被害は軽微であった。その日の朝、住民らは普段と変わらず朝食を摂っている者など様々であったが、飛行機の音で外に出て中飛行場を眺めると、高射砲のポンポンという音と共に飛行場上空を飛び回っている飛行機を見て、日本軍による演習だと思ったそうである。しかし、アメリカ軍による空襲だとわかると、家の庭に掘った防空壕や近くの洞窟などに一日中避難していたそうである。

 その後、アメリカ軍の上陸目前になると、日本軍から沖縄本島中南部は戦場になるため住民は北部への移動を命じられ、嘉手納地域の住民は疎開地として羽地村(現名護市)が充てられたが、地元のガマと呼ばれる洞窟などに身を隠していた人々もいた。北部へと避難した住民は食料の貯えもなく、山の中で飢餓に耐えながらの避難生活を送り、戦火の中をさまよい生き延びてきた。アメリカ軍の上陸直後に捕虜となり、収容所でアメリカ軍からの配給物資での生活を送った人々もいれば、9月以降もアメリカ兵に捕まる事を恐れ、山中に身を潜めながらの避難生活を送った人々もいたようである。

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3.空襲等の状況

 昭和19(1944)年10月10日、アメリカ軍機動部隊の艦載機が南西諸島各地に大規模な空襲を行った。その日空襲を行ったアメリカ軍の第38機動部隊は、航空母艦9隻、戦艦6隻、軽航空母艦8隻、巡洋艦17隻、駆逐艦64隻等からなる大部隊で、午前6時40分に始まった空襲は5回にわたり午後4時すぎまで続き、南西諸島全域で延べ1,356機の艦載機が空襲を繰り返した。

 日本軍は、空襲を受けるまでアメリカ軍の大艦隊の接近を全く探知できなかったといわれ、そのため住民は、飛行場上空の黒い点々とした飛行機とポンポンポンと破裂する高射砲の音を聞きながら日本軍の演習だろうと思っていたそうである。しかし、陸軍沖縄中飛行場がアメリカ軍の攻撃を受けると、ようやく空襲だと気づき、屋敷内の防空壕等へ逃げ込み、空襲が終わるまでの間その中で過ごしたという。

 空襲が終り、防空壕から出て日本軍の機関砲陣地を見ると日本兵の姿は無く、土が抉り取られてしまったかのように大きな穴(弾痕)があき、その他にも屋良共同製糖場が空爆の直撃を受け、手足をもぎ取られバラバラになった日本兵の死体が近くの県道の松の木にぶら下がっていたそうである。

 この空襲により、陸軍沖縄中飛行場や屋良共同製糖場などが破壊され、一部周辺家屋なども被害を受けたが、住民への被害はほとんど無く、攻撃されたのは日本軍の施設と兵隊だけであった。

 翌年3月末からの空襲・艦砲射撃により嘉手納地域は破壊され、4月1日に沖縄本島に上陸したアメリカ軍はその日のうちに陸軍沖縄中飛行場を占領し、本土決戦に備えて基地整備に着手した。これは、沖縄本島南部の守備に当たっていた第九師団(通称武部隊)の台湾転出に伴い、南部方面の守備が手薄になったため、当初嘉手納・読谷山方面に配備されていた第二十四師団(通称山部隊)が南部方面へと移動し、守備隊の主力を失い、わずかな兵力しか残っていなかったため、上陸初日に陸軍沖縄北飛行場(読谷山村)とともに占領されてしまったのである。この時、嘉手納・読谷山方面には県立農林学校の生徒が鉄血勤皇農林隊として動員されていた。県立農林学校の生徒は、3月26日に配属将校により鉄血勤皇農林隊に編制され、翌27日には陸軍沖縄北飛行場及び陸軍沖縄中飛行場守備部隊に入隊し、守備隊の糧秣運搬などの後方部隊として従軍していたが、陸軍沖縄中飛行場がアメリカ軍に占領されると、特別攻撃隊として配属将校以下20名が敵の戦車に爆雷を抱いて体当たりする「陸の特攻隊」となって陸軍沖縄中飛行場へ突撃した。この他にも、義烈空挺隊等の各部隊が陸軍沖縄中飛行場へ突撃を行った。

 この空襲や地上戦により、当町域の半数以上の家屋が破壊され、死者は、現在糸満市の平和祈念公園内にある「平和の礎」に刻銘されているだけで、1,108名にのぼる。

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4.復興のあゆみ

 終戦後、沖縄のすべての土地がアメリカ軍により接収され、地元住民が嘉手納地域に立ち入りが許可されたのは昭和21(1946)年2月以降であった。当時の嘉手納住民に開放された地域はごく一部で、嘉手納飛行場を中心とした地域は依然アメリカ軍に占領されたままであった。昭和23(1948)年4月頃までは嘉手納飛行場内も部分的通行が可能であったが、アメリカ軍の飛行場管理が強化され全面的に通行立入が禁止されたため、北谷村役場へは飛行場を迂回せざるをえなくなり、日常生活をはじめ諸行政運営に著しく支障をきたしたため昭和23(1948)年12月4日に北谷村から分村し、嘉手納村となった。

 分村間もない昭和25(1950)年、朝鮮戦争の勃発によりアメリカ軍は嘉手納基地を「極東最大の空軍基地」として重要視し整備拡張を行い、そのつど宅地や農地が軍用地に姿を変え、現在も町域の83%が軍用地となっており、昼夜を問わず基地から発生する爆音等、幾多の基地被害により町民の生活環境は必ずしも良好な状況ではない。このような厳しい環境の中でも先人のたゆまぬ努力により幾多の困難を克服し、復興を遂げ、昭和51(1976)年に嘉手納町となった。

 現在嘉手納町では、「ひと、未来かがやく交流のまち かでな」の現実に向けたまちづくりを推進している。

5.次世代への継承

慰霊行事等の状況

 昭和32(1957)年12月、野國總管宮に隣接する北東の小高い丘に「招魂の塔」を建立し、日露戦争から第二次世界大戦までに海外及び沖縄本島内に於いて散華した町出身の軍人、軍属、学徒の英霊644柱を祀り、毎年6月23日(慰霊の日)、8月15日(終戦記念日)に平和祈願祭を行っているほか、有限責任中間法人沖縄県立農林学同窓会が建立した「農林健児の塔」で、同会が毎年6月23日には慰霊祭を行っている。

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